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「おおおおおおお……っ」
己の『影』に抱きしめられて、メイベルは打ち震えた。
『影』
いっさいの濃淡なく黒一色で構成されたメイベルの映し身は、彼の拳や足の甲がレバスに届こうとした瞬間、とつぜんステージの床から立体化した。
そして苦もなくメイベルの打撃を受け止め、そして包みこむように抱きしめたのである。
地図を作り直さねばならなくさせるほどの打撃エネルギーはどこへ吸収されたのか。
後ろに守られたレバスは髪一筋、動かなかった。
「影は虚像。
だけどなぜでしょう。
僕は影にこそ、そのものの真が宿るような気がしてなりません」
レバスさんとやら、なぜ私を見ながら言うんだ?
言葉遣いからして、それはメイベルへの言葉だろう。
当のメイベルは、まだ『影』に抱きしめられたまま、
「おおおお」
と喚いていた。
アンタもどうした?
「あなたは一途に、ご自身が力の高みへ立つことを求めてこられた。
ですが真に欲していらっしゃるのは、その強さすら許容できる巨大で寛容な他者なのではありませんか?」
何を言っているのかさっぱりだったが、メイベルには通じたらしい。
「賢しげにほざくな、小僧めが!
見当外れもはなはだしい!
余が歩むは孤高への坂!
寛容などっ!
他者などっ!」
メイベルは影の抱擁をふりはらった。
上半身を限界まで後ろへねじって力を溜めた拳を、『影』の顔面にたたきこむ。
水面に小石が沈むように、『影』は拳をうけいれた。
チャポン。
そして『影』の全身がグニャリと形を変える。
不定形のアメーバ状になったのは一瞬、もとの黒メイベルに戻った。
が、身体の角度が変わっていて、顔は左腕があった辺りに移動し、顔があった場所には右手が来ていた。
『影』は右手でメイベルの拳を握りしめて、左手も添えて両手で握ると、スイングして放り投げた。
投石器から放たれた巨岩だって、あんなにものすごい勢いでは飛ぶまい。
メイベルは壁に大きな穴をあけて、
「ふははははははは……っ!」
哄笑とともに、夜空の彼方へ遠ざかっていった。
メイベルの左足首とつながっている私の右手首の鎖が、ジャラジャラと音を立てる。
いずれ鎖がピーンと張れば、メイベルにひっぱられて私も夜空へ飛び立つ運命だが、そんな心配は無用だった。
魔法の鎖は、その必要があれば無限に伸びるのである。
その必要とは、
『私を傷つける可能性がある場合』
ということだ。
同じ理由で、落下してきた壁の破片も鎖たちが完璧に払い落とした。
鎖は――鎖につながれた魔法の主たちは、私におよぶ危害を許さない。
巻き添えや落石ごときで私が傷つくだなんて、全魔法使いの沽券に関わるのだという。
なにしろ私は、かの、
『星落としの魔王オルテガ』
にも匹敵する、偉大なる、
『涯ての魔女イスカッツェル』
なのだから。
まったく、なんのことやらである。
キラリ。
闇の彼方から飛来したナイフが、レバスに突き刺さる寸前、真下から現れたそのナイフ自身の『影』によってはじかれた。
すっかり存在を忘れられかけていたヘブンが、
俺もいるぞ。
といわんばかりに放った奇襲である。
クルクルと回転しながらあさってのほうへ飛んだナイフは、柄尻に結んだテグスにひっぱられ、ヘブンの手に戻った。
「賢明だね」
レバスは、足下に刺さったナイフの『影』を引き抜いた。
彼の手のなかで、真っ黒なそれはホロリと崩れた。
「影が生まれるには光が不可欠だ。
光の中に立ち入らなければ、己の影に阻まれることもない」
ヘブンは気配を完璧に消していた。
すくなくとも私にはどこにいるのか見当もつかない。
さすがに王国最強レベルの戦士だった。
レバスにも彼の居所は正確にはわからないのだろう。
ホール全体へ視線をめぐらせながら、微笑する。
それは、嘲笑だった。
「でも、自分と向き合うことが、そんなに怖いものかな?」
ヘブンは返事の代わりに、ふたたびナイフを投じた。
レバスへ、ではなく、天井へ。
レバスへと強烈な光を照射している、魔法の光源へと。
だがナイフはまたもや標的に命中しなかった。
ステージから飛翔した『影』によって捕えられたのだ。
ナイフを素手でつかんだ『影』は、柄尻のテグスを犬歯で噛み切った。
貴公子然とした本体に比べて、ずいぶんワイルドだった。
影には真――つまり本性があらわれるというのが彼の持論らしいが、するとこの躍動的なほうが本当の彼なのだろうか。
レバス自身の『影』は、天井の照明に手をかけて、その角度を変えた。
光の照射先が移動する。
レバスから、私へと。
視界が真っ白に染まって、私は目をしかめた。
サ。
と、背後に気配を感じた。
と同時に、脇の下に腕がさしこまれた。
羽交い絞めだ。
真っ黒な腕に両肩を固定されてしまって、身動きが取れなくなる。
しかも真っ黒な腕の片方は、ナイフを握っていた。
切っ先が、私ののどに突きつけられた。
「捕まえたよ。
僕のかわいいイスカッツェル」
闇に沈んだステージから、レバスの声。
『ぼくのかわいいイスカッツェル』に、ナイフはないんじゃないの?
まばゆい光の中にいるせいで、光の当たっていないところはよけい暗く見える。
というか、ほぼ全く見えない。
気配だけで判断するしかないが、どうやらレバスはステージ上を動いてはいないらしい。
と、そのすぐそばに、何者かが駆け寄るのがわかった。
何者か、は言った。
「捕まえたのはこっちだ」
ヘブンだった。
「あれれ?」
とぼけたのはレバス。
「すすんで丸腰になりやがって。
間抜けすぎてイライラするぜ」
どうやらヘブンはナイフだか剣だかを、レバスに突きつけたらしかった。
光が移動したためにメイベルの『影』はレバスのそばにはいない。
さらにレバス自身の『影』は、こうして私を羽交い絞めにしている。
おかげでレバスは全くの無防備。
たしかに、マヌケだ。
「イスカッツェルがどうなってもいいのかい?」
レバスが言い、ヘブンが答える。
「あの『影』は、アイツを傷つけたりはしねえよ」
「どうして、そう言い切れるんだい?」
「アイツに敵意を抱いているヤツを、あの鎖どもが近づけるわけはねえんだよ」
「たしかに、彼女は魔法の鎖で守られているね。
あれは厄介な代物だ。
でも、僕の『影』だって魔法だよ。
鎖では防げない類の魔法なのかもしれない」
「ハッタリだ」
「どうして言い切れるんだい?」
「勘だよ。
悪いか」
「とんでもない。
素晴らしいよ。
実は僕も直感を大事にするほうなんだ。
友達になれそうだね」
「『影』を消せ」
「断る」
「てめえ」
「僕が嘘をついていると思うなら、そのナイフで僕を斬ればいい。
僕が命を失えば『影』も消えるよ。
スパッとやってごらん」
ヘブンが黙った。
なにやってんだか。
だがヘブンは魔法に関しては門外漢だ。
判断に迷うのはしようがない。
私だってたいして魔法に詳しいわけじゃないから、偉そうなことは言えなかった。
私を羽交い絞めにしたレバスの『影』が、もしも本当に鎖の防衛機能にひっかからない類の物だとしたら。
私はナイフでグサリと刺されるわけだ。
それだけは勘弁ねがいたかった。
私はため息をついた。
一度死んでしまって以来、嫌なことばかり立て続けだった。
だいたい、なんでこんな血なまぐさい場所で、血なまぐさい荒事なんかしなければならないのか。
理不尽だ。
納得いかない。
いちばん腹立たしくてならないのは、羽交い絞めされているせいで腕が上がらず、サンドイッチを口に運べないことだった。
あと二口で食べ終わるのに。
ディナーを邪魔するなんて、デリカシーがないにもほどがある。
いくら顔が良くったって、それじゃモテんぞ、レバスさん。
心の中で愚痴っていても事態は好転しない。
私は言った。
「ステラ・ナジェ」
「19年」
すかさず、法典イザベルが言った。
息ぴったり。
腐っても姉妹ってことだろうか。
『恥ずかしがり屋』のステラの手際は、実にあざやかだった。
いっさいの前触れなしに、唐突に天井の照明が消えた。
正確には、『隠された』。
壁にならんだ燭台のロウソクも、一つ残らず光を消した。
「あれれ?」
レバスのとぼけた声がした。
私を羽交い絞めしていた『影』が、フッと消えた。
光がなくなれば、影もなくなる。
肩が軽くなり、私は残り二口をいっぺんにつめこんだ。
最後の一口は、くちいっぱいに。
小っちゃな頃からの癖なのだ。
全き闇に閉ざされたホール。
ヘブンがレバスを床にねじ伏せる音がした。
「チェックメイトだ。あほんだら」