嘘は防波堤の上に
夏の海沿い、8月中旬の暑さが喪服の首元に汗を貯めていく。
防波堤に波が跳ね返って、歪んで見える地面を潤す。
僕はまだ何を思えばいいのか分からないのに、清々しくも天井ははっきりと、青い。
海との間を眺めた。すじ雲が波のように連なっている。潮風のせいで心が揺れている。
それでも、目は乾いたままだ。
手向けた花と僕の眉は少しだけ萎れている気がする。ほんのりと香る、花と線香に少しだけ落ち着きを覚え、自然とあくびが出た。
どこかで聞いた話では、あくびは緊張の現れであるらしい。やっぱりまだ落ち着くことができていないみたいだ。
絵に描いたように色鮮やかな花に囲まれて、大人一人がすっぽり入る程の箱に、彼が静かに眠っている。
「なぁ、そっちは進路決めた?」記憶の中のジメついた空気が漂う高校最後の夏。彼は言っていた。
「いや、やっぱ美大は諦めるわ」そう僕は返した。
「え、反対されたんや…」
「しゃーない、だから”エモト”って知ってる名前が、いつか都会で見れるん楽しみにしとくわ」僕は少し力の抜けた笑顔だった。
なぜか彼の顔を見て、それを思い出してしまった。
交通事故だったそうだ。
元々は別の車同士の衝突事故だったが、それに巻き込まれてしまったらしい。未だに心の中で何かがふわふわと浮かんだような感覚だ。
その知らせはすぐ僕の元に届いたが、彼の死に際に駆けつけられるほど、僕は近くに居なかった。
彼の夢は僕も目指していた道だった。そこまで甘くない世界なのは知っていたし、家族からの反対もあった。
僕はそれに負けてしまった。その悔しさからかあの時、彼にプレッシャーをかけた気がする。
そして憧れの美術大学への進学を諦め、そこそこだとよく言われている都会の大学に進んだ。
式には小中学生時代の友人がいた。
地元は田舎で、中学校と言っても小学校のみんながそのまま同じ中学に入ってくるような場所だ。中学受験を受けてたやつもいるが、その連中も来ていた。
僕は当時から交流がある人はほんの一部の人だけで、友人と言える人も数人くらいだ。
今、僕に声をかけづらいのもわかっていた。なんせ亡くなった人の当時1番関わりがあったのが僕だ。みんな気をつかってくれてるんだろう。
「キシモトくん?だよね…」悪い姿勢を直すと、目の前に小柄で、それでいてスタイルのいい女性がいた。
「ウラタ、さん…」一瞬誰かわからなかった。あれからもう数年経ってるんだから、どう変わっててもおかしくはない。でも、高校時代まで日焼けしっぱなしの運動部元気っ子女子がここまで変化しているとすごく違和感があった。
「お久しぶりです。まさかこんな形で…」
「なんか固いなぁ、距離感じるわ」食い気味に彼女はそう言った。
彼女は僕の数少ない友人のひとりだ。でも友人になったのも、彼女の誰とでも仲良くできる性格のせいで、決して特別なものではない。でも彼の絵を、僕以外に褒めていた1人だった。
「なかなか会うこと無かったわけだし、ある程度丁寧に挨拶しないとなって」少し許しを乞うような目で僕は言った。
「でも何となくわかる、ただでさえ気持ちは沈んでるやろうし。」彼女も彼と仲が良かった。他の人より少し距離が近かったようにも感じるくらいに。
「そや、最近エモトくんとは連絡してなかったん?」
「それが高校卒業してからそれっきりで、ウラタはしてなかったの?」僕は聞き返した。
すかさず彼女は首を振った「んーん、私は卒業してしばらくは連絡してたんやけど…ほら、3回生の時に別れちゃったからさ。」僕は少し驚いたがなんだか腑に落ちた。「付き合ってたんだ」
「え、しらんかったん?」
口には出したつもりはなかったが、出ていたみたいだ。「あいつとそういう話しないから…」なんだか少し申し訳なくなった。
「いつ、どっちから」僕は少し気になった。
「えー、中学卒業したときに気になってたし、私から告ってん」少し照れくさそうにニヤニヤしながら彼女は言った。
「でも、エモトくんは多分やけど私を好きやったこと無かったんちゃうんかな」少し声と顔が静かになった。
僕の顔に「?」でもついていたのか、彼女は「だってエモトくん、ずーっと絵のことしか考えてなかったから」と教えてくれた。確かにそうだなと納得できた。
彼はいつだってそうだった。
テスト期間中以外はずっと美術室に入り浸っては、彼の好きな寒色の油絵具をパレットの上でこねて、筆を滑らせていた。僕もその横で絵を描くのが好きだった。流行りには疎く。休み時間に1人窓側の席に座って、外の風景をデッサンするようなやつだった。
でも、あいつにもカノジョがいたんだなと感心した。
「もしかして別れた理由って」僕は恐る恐る聞いた。
「そう、私が切り出した。気持ち伝わってたんかなぁー」
たぶん伝わっていたと思う。そう心の中で答えた。
式と挨拶を終わらせて、実家に帰った。
職場でもたまには帰省しろと、軽く説教を食らったので少しの間だけ休みを貰った。
いつぶりだろうか、なんとなく大学出たきりな気がする。
戸にかけてある鍵は今も変わっていないようだった。
開けると驚くほど懐かしい木の床と驚くほど変わっていない家族の姿があった。「ただいま」そう言って、靴を脱ぐ。当たり前なんだろうけど、「おかえり」の言葉が少し嬉しかった。
「それで、いつまで休みなん?」母親はいつも通り騒がしい。「しあさってまでだよ、ちょっと長めに休ませてもらってる。」標準語が染み付いて、元の話し方を思い出すのが大変だ。
「もうすっかり、シティーボーイやな」父親はいつも通りだ。
久々の夕飯がいつもより暖かい気もした。これが実家パワーなんだろうな。たまには帰るべきなのは何となくわかる。
「そや、あんた絵は描いてんの?」体が凍ったように固まってしまった。「もう、描いてないよ」少し力の抜けた笑顔で嘘をついた。夢はそう簡単に諦めきれるほど簡単じゃなかった。どこか中途半端に、続けてしまっている自分がいた。
さっきまで広かった視界が少しずつ暗く狭くなっていく気がした。
夜、驚いて目を覚ました。実家の僕の部屋だった。
嫌な夢を見た。とても息苦しい夢。ずっと向き合うことができない記憶。教室の窓、酷く青い空。僕は何も言い返せないまま、床を眺めていた
窓の外、室外機、遠くを走っていく車、少し聞こえる虫、夜の音だった。風が気持ちがいいのは、きっと海が近いからだろう。耳を澄ますと薄い耳鳴りの奥に波の音も聞こえる。今の家では聞こえない静かな音。子守唄にしては心地がよすぎた。
翌日、ウラタの誘いで高校の共通の友人と食事をした。地元にある数少ないファミレスで、大人の男女4人が集まっていた。外は生憎の雨。今までこういう日の天気は良かった試しがない。きっと僕は雨男なのだろう、と何故か申し訳なさそうにしていた。
「何年ぶりやろな、めっちゃ会ってなかった気する」
きっと世の中の久々に会った人たちが初めにする会話の正解を目の前に座るウラタが出してきた。
「えー何年ぶりやろ、大学の時もほとんど会ってないしな」
そう答えた彼女は、高校時代の同じ美術部の同級生だったシミズさん。
「そうやな、けどお前とはもっと会ってへん気する」
僕に話をふってきた隣のやつはウラタと同じ水泳部だったミナミだ。
「確かに、そうだね。みんなって今なんの仕事してるん?」
やっぱり慣れない話し方をするものではないと悟った。「俺は親んとこで漁師やってる」ミナミは見るからにって感じだったが、正直意外だった。「あれ、あんなに嫌がってたのに?」僕が聞くまでもなくウラタがそう言った。
「まぁ高校の時はな、でも大人んなって家族になりたい人も出来たら親の背中って結構かっこええからな」こいつの元で育った子供はきっとこいつみたいに眩しい人間になるだろうと想像が容易にできた。
「いいな、結構幸せそうで」僕は純粋に羨ましく思った。でも周りにはそう捉えられなかったようで「あぁ、ごめんこんな時やのにな。すまん悪気は無いねんけど…」「いいよいいよ、僕が始めた話やし」僕も嫌味があった訳では無いが、ミナミが焦っているのに動揺をかくせずにいる。
そうだよな、あいつ死んだんだよな。
空気がさっきまでとは比べ物にならないくらい冷たく感じた。僕の話の選択が良くなかったせいだとわかって、さっきよりも申し訳なく感じていた。
「私2人の絵さ、めっちゃ好きやってんな」気まずいという概念の海に真っ先に飛び込んで行くのはいつもウラタだ。
「だって2人とも全っ然違うねん、全く似とらんし、全くの別物やねんけど、なんか同じ燃料で動いてるみたいやった。」そう続けた。僕はなにかに気づかされる感覚だった。下手に着飾った慣用句を使う訳でもない正直な言葉が、多分エモトを誰よりも近くで見てきた人間の証明のようだった。
「何となくわかる気がする。同じ原動力みたいな、描くのが楽しいんやろなってわかる絵よな」シミズさんは部員のみんなの絵を見ていたのだろう。いつも僕たちの絵を褒めてくれていた。
「そっか、ありがとう」少し照れながら僕は言った。
「でさ、今でも描いてたりするん?」
一瞬時間が止まったように感じた。ミナミの質問に正直に答えたところで大した問題はなかった。
「もう描いてないよ」
僕がこの時、笑えていたのか分からない。
「まぁそうよな、卒業式で色々あったしな」
「え、何かあったの?」ミナミのちょっとした発言に他2人が興味を持ってしまった。
「あ、知らん?めちゃくちゃ喧嘩しててん。エモトとこいつ」ベラベラ話すような内容では無いだろうが、多分ミナミにそれは分からない。
「えでも、あんまり…」シミズさんがストップをかけてくれた。「そうやな、すまんペラペラと」
「別にたいしたことじゃなったし」僕は聞きなれたミナミの謝罪を受け入れた。
帰り道、僕はあの時の喧嘩を思い出していた。
僕に喧嘩したいとか、イライラしたとかそんな記憶はなかった。ただ僕にあったのは驚きと、後悔だった。
その日は高校の卒業式で、みんなが違う道へ進む大事な日だった。みんなが入試だのなんだのを終わらせていた時期、僕はギリギリまで迷った挙句に一般入試を受けた後だった。
最後の教室、最後の思い出。そうやって浸るみんなを横目に窓から来る潮風を顔面に食らっていた。
「ちょい時間ある?」エモトが僕にそう言った。
「ん?あぁいいよ」軽く生返事した。
「合格っていつ分かるん?」
「んーあと1週間もしやんかったかな、なんで?」僕は聞き返した。
「いやぁ、あっちでも続けるんかなって思って」
「え、何を?」また聞き返す。
「鈍いなぁ、絵や絵」そうエモトは恥ずかしそうに言った。
「あー、んー、描かへんかな」そう笑いながら僕は返した。その瞬間エモトの顔が曇った。僕はそれを見ないようにこう続けた。「美大には行けんかったし、親にも反対されるやん、あとお金もかかるし。」つらつらと集めたような理由を並べる。「あと僕にはお前より才能ないしさ」話す度、顔の力が抜けていく。
「は?」
最初僕は耳を疑った。いつも穏やかなエモトの顔は怒りに包まれていた。握り拳と唇は震え、今にも爆発しそうだった。
「いや、別に僕は無意味やったとか思ってるわけじゃ…」
「お前がなんで諦めてんねん!」食い気味に彼は言った。その声は教室の空気を一変した。
「お前はそれでええんかって聞いてんねやろが、このボケ!」そう言って僕を席から押し飛ばした。
「お前に才能がない?んなわけないやろアホが!んでその顔も腹立つねん、嘘つくならもっと隠せるように努力しろや顔がゆるんどんねん!」僕は何も言えないままだった。顔をまともに見れず、彼の足元に落ちる雫を見ることしか出来なかった。
「お前が何考えてるんかわからんし、これからどうするんかも勝手や、でもな才能ないとか言うんは撤回しろ、今すぐ撤回しろ!俺はお前と違って意地でも最高の作品を作ってから死んだる、お前と違ってや!」そう言って押し倒し、僕に馬乗りになって胸ぐらを掴んだ。
「おい、落ち着け!」そうやって女性の担任よりも力のあったミナミが仲裁に入って、その騒動は幕を閉じた。
それが初めてあいつに怒鳴られた、最後のやり取りだった。
僕はずっと、何も言い返せなかった。
その夜、ウラタから電話がかかってきた。
「もしもし」未だに友人との通話は慣れない。
「あーもしもし、キシモト?
今日ごめん急に呼び出したりとかして」
ウラタはいつも軽快な口調だ。
「いや、全然。休み取れてたけど暇だったし、楽しかったから」
「なら良かった」ウラタは安心したように続けた。
「あのさ、例の卒業式の話?帰りにこっそりミナミに聞いてんな」
「あぁ、そうなんだ」僕は彼の押しへの弱さを知っていたので驚きはなかった。
「あいつ責めたらんといたってな、私もしつこく聞いたし」ウラタも人の噂話だとかそういう類の話を好むのも知っていた。だから驚きはなかった。
「その〜細かい事情とかはさあんまわからへんけど、多分なキシモトくんが誰よりもエモトくんの絵を見てるようにエモトくんは誰よりもキシモトくんの絵見てきてると思うねんな、だから嫌やったんちゃうんかな。自分の好きな絵を、描いた人に否定されんのが。」
僕は黙って聞くことしか出来なかった。誰よりもそれを理解している。でも改めて言葉にされると、胸に杭を打たれるような感覚だ。
「別に説教するつもりもないねんけど、一言だけ。エモトくんって、誰よりもキシモトくんを尊敬してたんやで。」ウラタの言葉はいつも真っ直ぐで、誰も傷つけることはしない。
「うん、ありがとう教えてくれて」僕は喉に詰まったものを水で流し込むみたいに、勢いで答えた。
「あ、あと昔別れ切り出したんあれなキシモトくんと離れたエモトくんは見てられへんかったからやからな!じゃっ」軽く冗談交じりで言われそのまま通話を切られた。
いつもより少しだけ、夜の音が小さいような気がした。
喉が乾いて、沈んだ気持ちのまま階段をおりた。
2人ともまだ起きているのか、電気がつけっぱなしのままだ。そこには母親だけがいた。老後の楽しみだと言って始めた編み物を、今でも続けていた。
「なんや起きてたんや」僕に気づくなりすぐにおしゃべりになった。静かな母親はいつもたった数秒だけしか見せてくれない。「で、どうなん仕事は。ちゃんとたのしい?」「楽しいよ、部署も変わって前みたいに事務作業も多くないし。」僕は今の仕事が気に入っていた。
大した額じゃないが給料はちゃんと貰えるし、同僚とも仲良くできるくらいには楽しくできている。
「それやったらええんやけど。」少し寂しそうな表情になり続けた。「昨日な、聞いたやんあんたに絵描いてんかを、そのとき嘘ついたやろ?」
動揺してしまった。え、という声がちょうど喉に引っかかってしまった。「いやまあ、あんたが美大行きたいっていうの反対したのもあるから。なんか言いづらいのもわかるけど、いいと思ってるで、描くこと自体は。」それを聞いて、僕は少しほっとしていた。実際あの時本気で反対したのは母親の方だったからだ。
でも内心悔しくもあった。見返したいとあの時思っていた心を、軽くあしらわれたような気がしていた。
「ちゃんと絵上手いの知ってるし、応援はしてたんやけど。親として思い切りが良すぎる決断は、避けて欲しいって思ってん。」母親はそう続けた。「うん、わかってるよちゃんと」僕は堪えた。
「自分勝手でごめんな。エモトくん亡くなったって聞いた時、私あんたになんて謝るべきかわからんくて。」
そう言った声は、涙が混じった震えた声だった。
僕はそっと母親の背中に手を置いた。
「明日、あいつのアトリエ行ってくる」
僕は怖くて近づけなかった場所に進むことにした。
翌日、僕は彼の実家に向かった。
エモトの両親に挨拶を済ませ、僕はアトリエへ行った。
彼のアトリエは、あの防波堤のよく見える丘の上の小さな小屋だった。昔から家の物置だった場所を、彼一人で片付け、アトリエにしたらしい。ぼくも高校の時に、幾度が遊びに来ていた。その度にワクワクして、まるで秘密基地に入ったような感覚だった。
小屋自体の外観は前とそう変わらなかった。でも少しだけ木が汚れている気がした。
昨日の母の話を思い出した。
「私、去年メールで何回か続けてるんか聞いたやん。続けてないっていうのを、前にエモトくんに話したことあんねん。」母はすごく苦しそうな顔だった。
「で、あいつはなんて?」僕は恐る恐る聞いた。
母は首を振った「何も。そうですかって。でもあの子もすごい顔に出るからなんとなく、な……」母はさっきよりも不安な顔をしていた。
僕は僕を、彼から僕を消してしまったのかもしれない。
体のちょうど胸の辺りが重く、何がに握りつぶされるような感覚が僕を襲った。小屋の扉にかけた手を動かすために、あとどれくらいの時間を費やせばいいのか、分からないくらいに。
指の先の方には、小さい頃の僕とあいつの落書きがまだ残っていた。扉の板材をカッターで下書きして、そこに絵の具で色を塗れば、普通に塗るより残りそうだという、当時の推測で描いた絵。彼はその小屋からよく見える灯台、僕はその近くを泳ぐクジラを描いた。
もう当時のような色はほとんど残っていない。でも拙い手先で残した傷は、しっかりと僕らの絵だった。
彼の絵を、指でなぞった。口元に力が入る。
彼はもうここには居ない。その事実を反芻して、理解する。ただずっと、悔しかった。生まれて初めて、癇癪のような、どうすればいいのか分からない苛立ちが僕の手で頭を搔く。海のすぐ側の砂浜に絵を描くみたいに、僕はどうしようもない波が心で繰り返していた。いくら描いてもその波は、容赦もなく海へ持って行ってしまう。無意味なのはずっとわかっているのに、抗うことでしかその波を否定できない。
でもその波に僕は勝てない。だからぼくも波に流されて行く。
僕は思い切って扉を開けた。
海の方角にある窓から風が通り過ぎて、静かに小屋を光が照らす。棚は埃がたまらないようにちゃんと整理されて、たくさんの画材で敷き詰められていた。
僕は1歩ずつ床の沈む音を聴きながらゆっくりと進む。間取りや置いてあるものが、昔とほとんど変わっていないことに気づいて、少し寂しい気持ちになった。
進んだ先の窓のそばには1枚の大きなキャンバス。きっと彼が描いていたものだ。でも何か見覚えのある絵だった。
海底から見た海の空。筆の使い方や色の混ぜ方、全部少しずつ違う。でもあの色、あの構図……。
昔描いた僕の絵だった。
彼は僕の絵を、彼の手で描いていた。
いわば、模写のようなものだった。
僕の絵も色んな人から評価されていた。それが僕の紛れもない唯一の才能だった。この絵も、僕の大好きなものを描いて、色んな人に褒めてもらった。
当然、彼からもだ。
目の前に広がる広大な海の絵は、僕の心の波をより強くより早くさせていく。
ふと横の机に目をやる。
ひとつの封筒があった。いつもはプライバシーとかそういうものを気にして見ることはないが、宛先が見覚えのある僕の住所だった。僕はあとが残らないようにそっとのりしろの部分を剥がした。
中には目の前の絵の写真が入っていた。
これを僕に送ろうとしていたらしい。でもよく分からなかった。彼は僕が描くことを辞めたことが伝わっていたからだ。それなのになぜ。
そう考えていると指の力が抜け、窓から風が吹きこんだ。写真は風に乗せられ、ひらひらと舞う。僕は写真の裏面になにか書いてあることに気づいた。
彼の文字だとすぐに分かった。
落ちた写真をすぐ手に取り、裏を確認した。
そのにはたった一言
「待ってる」
とだけ書いてあった。その横には写真を撮ったであろう日付があった。8月13日、彼の命日。きっと送る直前だったんだろう。そう単純に思った。でも謎が大きくなるばかりだった。
もう一度、彼の両親に感謝と挨拶をと思い。彼の家に行った。そしてアトリエにあったものや、色んな思い出を話した。そこでその時写真について伝えた。
すると彼の母親は「それは、彼が去年あたりにすごくいいアイデアを思いついたって言って、描いたものなんです。でも蓋を開けてみたら、キシモトくんの模写をして…でもあの子にとって、この絵はきっと大切なものやったんです。なのでその写真はあなたが大切に持っていてください。」
そう言って、僕が持ち帰ることになった。
少しだけ寄り道をと思い、彼とのお気に入りの場所だった波の静かな防波堤に行った。
何かを見つけられたが、彼の何かを見失ってしまいそうで、怖くて無性に行きたくなった。
この場所では彼とは特に話すことはなかった。ただずっと波の音を聞いて、風とすれ違って、暑さと涼しさの間を行き来するのがすごく好きだった。世界一無駄で、生きていることを実感できるもののひとつだった。波はゆっくりと、僕を包んでくれる。
そうやって、僕は彼のことを忘れないための悪あがきをすることしか出来なかった。
手には写真の入った僕宛の封筒。おもむろに彼の文字を読み返した。
「待ってる」この一言はどこか寂しさがあるようにも、希望を持っているようにも思える文字だった。でも尚更分からなくなった。いっそこのまま風に乗せて海に捨ててしまいたくなった。
全身を風がかけていくのがわかる。
僕は不思議に感じた。
なぜこの写真の日付は彼の命日なのか。
カメラの写真を現像するのは少し時間がかかるはずだ。
僕が描いていないと知って、彼が僕を勇気づけるために送ろうとしていた。そうとしか考えられなかった。
もう一度日付を見た。たしかに僕の見間違えではなかった。
けれど、隣の数字が今年ではなかった。
去年の数字だった。
「あぁ、そっか。」
僕は意図せず、そうこぼしていた。
僕の嘘のせいだ。ずっと前から、騙し続けたままだった。高校卒業の時、彼に嘘をついて彼を傷つけたのは僕だ。そのまま僕は僕を誰よりも信じていてくれた人を、騙し続けていた。
彼がまだ描いていると信じて、送ろうとした写真は波風に揺られて、少しシワがなっていた。
苦しい、息が浅くなっていく。
海の中みたいに周りの景色は歪んでいく。
でも、波の音は同じ速度のまま。ゆっくり、ゆっくりと頬を伝う悔しさを海に還してくれる。
ひとつ、ひとつとスポイトで落とすように。
僕は膝から崩れ落ちた。あの時と同じ景色。床を眺めてどうすることも出来ない。
あの時と違うのは、彼がいないことと、僕の頬に涙が流れていたこと。
もう、これからを変えていくしかない。
きっとまだ許してくれないだろうな。
波は静かに僕に触れて、離れていく。
「夢は諦めれば、ただの夢になってしまう」
最も当たり前で現実的な言葉ですが、ずっと大切に感じている言葉です。
僕も彼らではないのでこの後どうなったのかは分かりませんが、もう嘘をつく気にはならないと思います。
いつも読んでくださり、ありがとうございます。




