華麗なる夜逃げ
国中の灯がすっかり消え、夜の静寂が包み込んだ頃。
その部屋の主、イリスは扉をそっと閉めると、寝静まった屋敷の奥深くで、冷たい視線を輝かせながら動き始めていた。
その姿はまるでコソ泥のようで、けして高貴な存在とは思えなかった。
ただ、誰も起こさぬ様にと、静かに静かにと、事をすましている。
「まったく……何故この私が、あんな老いぼれと結婚しないといけないのよ」
不満を呟きつつ、彼女は宝石箱を開け、煌めくアクセサリーを無造作に掴み取る。
私はついこの前、王命により、元の政略結婚を破棄し、他国の貴族との婚姻を言い渡されていた。
それだけならば別に、一応貴族の娘であるし、よくある話で受け止めるわ。
前の政略結婚の相手も、家の為の義務だったから特に悲しくもないし。
なんなら婚約を破棄したその次の日には別れを告げる手紙と共に、あちらも新たな婚約が結ばれた事を知った。
ええ、私も普通の相手ならば、そのまま命に従って婚約したわ。
…そう、新しい婚約者がお父様よりも年上のおじ様では無かったら。
なんでも、友好関係が乏しくないその国にしかない生産物を、より良い条件で輸出する条件として、
こちらの国の高貴な若い娘を寄越せと言ったそうで…
そこで目をつけられたのが、私。
自慢じゃ無いけど…いえ、やっぱり自慢だけど
私は我が国で1番とまではいかないが中々の身分の貴族の娘であるし、見た目も悪くないわ。
白金の艶やかに伸びる髪はよく褒められるし、日に焼けることを知らぬ肌に、アメジストの瞳は評判だった。
だから、私がおとなしく嫁げば良い取引が出来るであろうことは明確だった。
両親は国に、王族に恩が売れる事に歓喜していた。
でも、溜まったもんじゃ無いわ。
「国に恩が売れるなど、どうでもいいわ。
この私が、あんな奴に下賜されるなど許されないわ!」
この娘、プライドが人一倍高かった。
明日の朝、陽が登る頃にはあちらの国の馬車が来る。
私との婚約準備のためだ。
一度顔合わせをさせられて、王の目の前だったし笑顔で対応してやったが、まぁ酷い相手だ。
邪な思いがダダ漏れである。
まだ紳士的な方であったら許容したのに。
あいつと結婚するぐらいならこの身分を捨てた方がマシよ。
普通の娘なら泣き喚いて終わるところだけど、そこで終わらせないのが私よ。
思い入れ?そんなものはとっくに捨てた。
できるだけ沢山持ちだして…
でも、資金だけじゃ生きていけないわね。
私は生まれてこの方箱庭育ち。
外で生きていく為の知識など皆無に近い。
なんならこの高い塀の外にはモンスターが生息しており、このまま出ていくだけだと襲われて死ぬのが落ちだと思う。
私がこの屋敷を出て行っても、生き残っていくためには世話してくれる存在、従者が必要ね。
しかし。そこまで考えてふと思った。
「…でも、従者なんて雇ったら破産するわ」
従者を雇うにしたら給料を与えねばならない。
さらに、良い仕事をさせるにはチップも必要だ。
だが屋敷の外に出てしまえば私に収入源なんか存在しない。たちまち破産へと進むだろう。
「なるべく金を使わずに、長く雇える存在…」
そんな善人みたいな事をしてくれるような存在なんかいたかしら?私は絶対にお断りですけど。
少なくともうちの屋敷の人間は誰も信用してはいけない。
私の命令も聞くとはいえ、結局屋敷に仕えている者はお父様の配下にいる。
「…そう、そうね。」
私の中で、一つの考えが浮かび上がる。
この婚約をする前の自分だったら選択肢にも入れないだろう、穢らわしい選択。
それは、
「奴隷を雇えば良いじゃない…!」
金を与えてやる必要もないし、労わる必要もない。とても便利な存在…
だが、我が国では違法な存在だ。
奴隷を売れば犯罪であるし、買うのもまた然り。
でも選ぶ時間も無いし、この国には見切りをつけていた。こんな場所の法律なんか知ったこっちゃない。だって自分を下賜しやがったので。
それに、偉そうに倫理を語ってるこの国も昔は奴隷制度があったのだ。貴族にとっては遠い昔の話ではない。
犯罪は、バレなければ犯罪では無いってお父様も言ってたわ。
確かたまに、奴隷を購入して、それが発覚し捕まる貴族がいたはず。
…ということは、奴隷は確かにこの国で買える範囲内の何処かに存在し、売られているということ。
「そうと決まれば、さっそく準備しなきゃ」
なるべく足がつかない様な、あまり派手すぎない流行物とか…シンプルなデザインのもあった方が良いわね。
そっちの方が市場にこの宝石たちが出回った時に、足取りが掴みにくいはず…
じゃあ家紋が入ったのは無しね。
一度入れてはいたが、ポイポイと投げ捨てる。
そして私は今着ている…これまでで一番気に入っていたドレスを脱ぎ捨てた。
それは華やかな貴族の象徴であり、誇りと自尊心の象徴でもあった。
けどこんなの着てたら身包み剥がされるわ。
可愛さと実用性は別なのよね。
その代わりに、密かに少しずつ盗み集めていた使用人たちの服を身にまとった。
生地の擦れ具合や縫い目の粗さからも、一朝一夕で買い揃えた偽物ではないことがわかる。
それはまさに、私が身を隠すために選び抜いた最良の変装だった。
使用人たちは困ってたみたいだけど、まぁ私は出ていくのだし、忘れてもらった方がいいと思うわ。
もちろん、どんなに服装を変えても、この白金の髪や肌の質感は隠しきれない。
この髪を切るのは嫌だし、あとは外に出て、適当に泥でも被ればいいわ。
そこまで計画を立てた時に、
これまで守ってきたものを全て捨て、新しい自分として生きていく…その決意の重さが心にじわりと染み渡る。
しかし、
「でもアレと結婚するよりマシね」
貴族の誇りなど、元から自分には薄かった。
待ち合わせいるのは高いプライドのみ。
家族や領民よりも私がファースト。
そのプライドに従って、私は屋敷にある緊急用の隠し通路から、屋敷と貴族の生活に別れを告げたのだった。善は急げと言いますし。
誰かの寝息に息を潜め、足音を殺して進む。
明かりのない通路を、何度もつまずきながら進んだ。
そうして、この屋敷の出口へとたどり着いた。
そしてチラリと、自分の生まれ育った屋敷を振り返る。ほんの少しの名残惜しさを胸に、そして再び決意を握り直す。
「それではみなさま、ご機嫌よう」
せいぜい私の尻拭いを楽しむと良いわ。
それは貴族としての、最後の言葉だった。
その次の朝。
屋敷の中は混乱に満ちていた。
何故ならイリスが居ないからである。
「どこを探してもお嬢様がいらっしゃらない…!」
「馬車が着いてしまいます、どうするのですか!」
イリスの自室は貴重品の荒らされた後があり、
他は一切乱れていなかった。
抵抗の跡もない。そこから考えられることは何か…?
それは夜逃げである。
今日はまさに、新たな婚約者が訪れる日。
もしも婚約が嫌で消えてしまった事がバレてしまえば、この国をあげての取引は無かった事になるだろう。
それはまずい。バレるのは時間の問題であるこれは、屋敷に取り残された者たちの余命宣告と言っても過言では無かった。
しかし、イリスはそんな事興味も無かった。
「確か、スラムの方にあるって聞いたわね!」
そう意気込んで、自由の道へと進む。
この時から、イリスの逃亡劇が始まった。