大学病院 1/4 10年という時間
10年前の悲劇――家族の崩壊
その日、梅田 和夫はハンドルを握り、隣には妻の美智子が座っていた。後部座席には、まだ4歳の愛娘、彩香が子供用シートにちょこんと座っていた。3人は箱根の温泉宿へ向かっていた。久しぶりの家族旅行だった。仕事に追われる日々が続いていた和夫と美智子にとって、この旅は家族との時間を取り戻すための貴重なひとときだった。
和夫も美智子も共働きで、彩香は平日いつも保育園に預けられていた。朝早くから仕事に出て、和夫が帰る頃には彩香はもう寝ていることも多かった。子供との時間が少ないことに、夫婦はずっと後ろめたさを感じていた。「次はいつ行けるかわからないかもしれないけど、家族のために…」と少し無理をして取った休暇での小さな贅沢だった。
しかし、その家族の幸せな時間は、突然、無残にも引き裂かれた。
高速道路を降り、一般道を走行中、対向車線から突如、大型ダンプがはみ出してきた。後に飲酒運転が原因と判明するそのダンプは、制御を失い、和夫の運転する車に向かって猛スピードで突っ込んできた。避ける間もなく、正面衝突。和夫と美智子は重傷を負ったが、一命を取り留めた。しかし、後部座席の彩香は脊髄の損傷から植物状態となってしまった。
事故後の1年間、和夫と美智子は娘の回復を信じて、最善の医療を受けさせるために全力を尽くした。莫大な医療費も、保険や貯蓄で持ち堪えた治療を続けられていたが、2年目になるとその資金は底をつき始めた。それでも二人はあきらめなかった。募金活動やSNSでの支援を呼びかけ、医療費を何とか賄い続けた。3年目、親戚からの援助も頼みながら、細々と生活を維持する日々が続いた。
しかし、時間は無情だった。彩香の回復の兆しは一向に見られず、両親の心も疲弊していった。美智子は何度も泣き崩れた。日々、娘の無反応な顔を見つめながら、いつか目を覚ますと信じていたが、その希望は少しずつ薄れ、現実の厳しさが二人を追い詰めた。どれだけお金を注ぎ込んでも、奇跡は起きない。震災や新型ウイルスの脅威を乗り越えいくら働いても、彩香のための医療費が追いつかない現実に、和夫は悩み、心が折れそうになった。
やがて、表の金融機関では融資を受けられなくなり、両親はついに裏の世界へと手を伸ばした。消費者金融、そして闇金。次々と借金は膨らんでいった。生活はギリギリの状態に追い込まれ、二人は息も絶え絶えのような毎日を送っていた。笑顔の絶えなかった家族の写真が、今は悲しい思い出にすら感じる。
それでも、どんなに辛くても、両親は彩香の回復をあきらめることができなかった。彩香がいつか目を覚ます、そのわずかな希望にすがり続けていた。だが、限界は確実に近づいていた。和夫も美智子も心身ともに疲れ切り、感情がすり減っていく日々。それでも、娘の命を手放すことができず、二人は絶望の中で生き続けた。
そして、その時、パージ法の発表があった。
12時間だけ無法状態が許される――どんな行為も、例外なく罰されない。和夫と美智子はその知らせを聞いた時、各々の心の中である考えが沸き起こった。
しかし、美智子はその考えをパートナーに伝えるべきか悩んでいる矢先に、夫の和夫が口を開いた。
「なぁ。お前も同じことを考えているかもな…。互いに、考えている事を言わないか?」
この人も同じ事を考えていたのか。10年という長すぎる時間、共に涙し苦悩してきた相手と改めて心が通えたと思えた瞬間だった。
「うん。」
美智子うなずき一瞬の静寂の後、和夫が「せーの!」
和夫「銀行強盗をして医療費を…」
美智子「彩香を楽にしてあげ…」
真逆の選択を口にした二人は瞬時に意図を理解し互いに見つめ合った。
パージ法執行まで3か月。