三章
「クソが、なんなんだよあいつは」
爪を噛みながら、青年は路地裏に潜んでいた。大きなバケツの裏に隠れながら、わずかに顔を出して表通りを伺う。
多くの人たちが煌びやかな夜の街を歩いている。路地裏に潜む青年のことなど、全く気づかない。今はその方が安全だとわかっているのに、無性に腹が立つ。
いつもなら、青年も女性と過ごしていたはずなのに。怒りで、無意識に拳を握りしめる。
何もかも全て、吸血鬼狩りが現れたせいだ。
なんとか尾行の男からは逃げ切ったが、奴らは一人で動かないから全く油断はできない。
不意に、路地裏の奥から視線を感じて振り返る。
暗闇から現れたのは、二人の男。
荒々しい風貌をした青年と、達観した雰囲気を漂わせる初老の男性の二人組。一見、正反対に見えるが、彼らの瞳は虚空を見つめていて、全く意志を感じない。人間のパーツで組み立てた、精巧な人形のようだ。
普通なら、不気味な男たちから逃げるだろうが、青年はずかずかと歩み寄る。
「遅い! お前ら、何やってんだ」
苛立ちを隠せない青年が、初老の男の足を蹴り続ける。だが、びくともしない。
すぐに息を切らした青年が、表通りを指差す。
「三十二番と三十三番。お前らは例の場所に隠れて、血を集めてこい」
無言で頷いた男たちは、表通りへと歩いていき、人混みの中に紛れていった。
これで、全ての下僕を使い切った。また新たな下僕を増やさなければ。それもこれも全部、あの男のせいでーー。
吸血鬼狩りへの怒りが膨らみながら、青年は路地裏の奥へと消えて行った。
「ねえ、もうちょっといていい?」
「アホか。早く帰れ」
帰ることを渋るサクヤを、櫂奈が無理やり玄関から押し出す。寝不足の櫂奈の目に朝日が眩しく、手で遮った。
「休みなんでしょ。だったらいいじゃん」
「いいから帰れ。俺は疲れてるんだ」
夜通しサクヤに付き合った櫂奈は欠伸を噛み殺す。
吸血鬼と戦った後、駄々をこね続けるサクヤを断りきれず、家まで連れて来てしまった。しかも、一時間だけのつもりが、どんどんと時間は伸び、ついには朝まで付き合うことになっている。
このままでは、本当に良牙と鉢合わせてしまう。
「これからも行くんだろ? だったら、早く帰れ」
「じゃあ、お昼頃に連絡していい?」
「勝手にしろ。俺は寝てると思うけど」
というか、そんなことのために連絡先を交換したわけじゃない。
「それじゃあな」
これ以上話していると、サクヤのペースに巻き込まれそうで、玄関の扉を閉める。
ちゃんと帰ったか確認しないまま、櫂奈がリビングに戻る。
お菓子の残骸をビニール袋にまとめて捨てて、サクヤが使ったコップを素早く洗う。誰かがいたことはバレてもいいが、変に探られても面倒なので、できる限り証拠は消しておいた方がいい。
夜まで寝ようと二階に上がろうとして、再び玄関の扉が開く。
「おい、帰れって言ってるだろ」
「……殴られたいのか?」
「悪い。勘違いした」
帰ってきたのが良牙だと分かり、櫂奈はそのまま階段を上がろうとして、
「それって、さっきの銀髪の子か」
「ああ、うん」
動揺が顔に出ないように意識しながら、櫂奈が返事する。
「お前、女の子の友達がいたのか」
「なんだよ。悪いか?」
「別に。……流石に家には泊めてないよな?」
「違う違う。ちょっと、両親と喧嘩してるって言うから他の友達と一緒にネカフェに泊まっただけ」
バレないように慎重に嘘を並べる。最悪だ。良牙にサクヤの顔を見られたかもしれない。
「ふーん、そうか」
それ以上何も追求せず、もう興味は無くなったとばかりに良牙が玄関に上がる。
「あ、そうだちょっと話がある」
逃げるように二階に上がろうとした櫂奈が足を止める。
「それって、今?」
正直、この場から離れたい櫂奈としては、後にして欲しかった。
「ああ。しばらく家に帰らないからな」
「吸血鬼に関すること?」
「そうだ。厄介な吸血鬼に逃げられてな」
良牙が苦々しい顔をしているのを見て、内心珍しいと思った。
吸血鬼に苦戦しない良牙が逃してしまうほどの相手など、今までいなかった。いや、一人だけ過去にいた。
「もしかして、寝墨?」
ある吸血鬼の名前が脳裏をよぎり、思わず尋ねると、良牙が神妙な顔で頷く。
「最近、記憶を失った女性が何人か病院に来ていると聞いてな」
「寝墨の手口だ」
「分かってるだろうが……」
「早く帰れ、だろ」
話は終わったと思い、今度こそ櫂奈は自分の部屋へと戻る。
敷いてある布団に倒れ込むが、眠気は完全に消し飛んでいた。
寝墨の名前を聞いた時から、全身の血液が沸騰している。
だが、良牙が探しているのだから、殺されるのは時間の問題だろう。
もし翔太なら助けようとするのかもしれないが、櫂奈には到底できそうにない。
そんな身勝手な自分に落胆しながら、櫂奈は目蓋を閉じた。
ボードゲーム部の部室を開けると、既に大輝が座って待っていた。
「悪い。遅くなった」
「あ、いや、別にいいけど」
大輝がお弁当箱を開け始めたのを横目に、櫂奈は椅子にどかっと座る。
机に投げるように置いたビニール袋から取り出したパンの包装を破り捨て、勢いよくかじりつく。すぐに喉に詰まりそうになるが、ペットボトルの水を飲んで強引に押し込む。
最初のパンがなくなると、次のパンを掴んで、すぐに食べ始めた。
「……そんなにお腹減ってたの?」
食べている途中で喋れないので、急いで二個目のパンも流し込む。
「違う。ちょっとムカついてるだけ」
「土日に何かあった?」
「何もねえよ。別に」
寝墨がいるかもしれないと聞いた櫂奈は、とりあえずサクヤと吸血鬼を探し続けることにした。
寝墨は殺したいほどムカつくが、今の櫂奈は吸血鬼を人間に戻すことを優先したかった。
だが、初日以降は全く遭遇できずにいた。
よく考えれば吸血鬼狩りがいることは、吸血鬼たちも知っているはずだ。それでもこの街にいるとしたら、吸血鬼になって日が浅いものか、恐れていない吸血鬼ぐらいだ。
初日の吸血鬼は後者だろう。櫂奈と遭遇しても逃げずに、冷静に戦っていたことから間違いない。
「本当に? 絶対嘘でしょ」
「だとしてもだ。これは俺自身の問題なんだ。ほっとけ」
櫂奈自身が吸血鬼が見つからず、勝手にイラついているだけなのだから。
「何かあったら相談しろって、前に言ってなかったっけ?」
「…まあ、たしかに」
「それなのに、僕には相談したくないんだ。あれだけ人に相談しろ相談しろって言ってて、そんなこ--」
「分かったよ。言うって」
一枚上手の大輝に追い詰められて、櫂奈は諦めたように息を吐く。
「ちょっと失くしたものがあって、見つからないから勝手にムカついてるだけなんだ」
吸血鬼のことは話せないので、ふんわりと説明する。
「それって、櫂奈にとって大事なもの」
「ああ。だから、絶対に見つけたい」
「どこで失くしたかは分かるの?」
「……分からん。だから、友達に協力してもらって探してる」
大輝が目を見開く。
「僕以外に友達がいたんだ」
「失礼な奴だな」
「だって、僕と翔太兄さん以外と会話してるの見たことないじゃん」
その通りなので、何も言い返せない。
「それって、僕も協力できる?」
「悪い。その友達と俺だけの秘密なんだ」
「……理由は分からないけど、分かった。でも、相談してくれてありがと」
「俺の方こそ。少し、気持ちは軽くなった」
「お互い様だって」
照れたように笑みを浮かべる大輝に、櫂奈は鼻を鳴らす。
「前は翔太の後ろにピッタリくっついてたくせに。大きくなったもんだな」
「小学生の時でしょ。それより、櫂奈の友達ってどんな人?」
大輝に聞かれて、櫂奈が言葉を選ぶ。
「なんていうか、変な女の子って感じ」
「それって褒めてるの?」
「褒めてるって言うか、まだ分からないんだよ」
サクヤは見た目だけは大人びた美人だが、中身は完全に子供だ。しかも、かなり年下の。幼いかと思えば、自分の命を危険に晒してでも、母親を助けたい強い気持ちも持っている。
あまりにも中身と外見が一致しない、不思議な女性という印象だ。
「後は、かなり前向きだな。うざいくらいに」
「ちょっと会ってみたいかも」
「やめとけ。面倒なことになるから」
櫂奈の友達だと知ったら、遠慮なしに色々と聞いてくるだろう。その光景が思い浮かぶだけで、疲れてくる。
そんな櫂奈を微笑ましそうに大輝が見守る。
「なんだよ?」
「櫂奈に友達がいて安心したなって」
「お前は俺の父親かよ」
「だって、本当は誰よりも優しいのに、変にひねくれてるのはもったいないよ」
「それは褒めてるんだよな」
大きく頷く大輝に、櫂奈は怪しむ。
櫂奈が友達が少ないのは、単に周りに興味がないからだ。吸血鬼狩りの使命として、人を助けているというだけで、特別誰かに優しくしているわけではない。
だからこそ、クラスで誰とも喋らなくても、別に苦痛ではないのだ。
大輝や翔太と友達になったのも、宿題を忘れていたのを見せてもらったのがきっかけで、偶然だと思っている。
「もっと周りと仲良くしてもいいと思うよ。僕が休んだら、誰とも昼ごはん食べないでしょ?」
「昼飯くらいは、別に一人でも食えるだろ」
「一人で食べるよりは、二人で食べた方が絶対美味しいよ」
「へいへい」
これ以上話しても伝わらないと思い、適当に返事をする。
そんな櫂奈の気持ちを知ってか知らずか、大輝は黙々と弁当を食べ終える。
「今日体育だから、先に行くね」
「だったら、俺も出るわ」
「いいよ。合鍵で閉めてくれたらいいから」
一気に弁当箱を片付けた大輝が、慌ただしく飛び出す。
遠ざかっていく足音を聞きつつ、大輝が残りのパンを口の中に放り込む。
ゴミをまとめたビニール袋を持って教室を出ると、今晩のことを考えながら、廊下をゆっくりと歩く。
今まではショッピングモールや駅前を探していたが、住宅街の方に行く方がいいかもしれない。
真夜中になると、犬の散歩をしている人たちぐらいしか見当たらないが、人目につきにくい時間帯ではある。
それに、寝墨を探索している吸血鬼狩りがいるので、あまり目立つ行動は避けたい。最悪見つかっても、櫂奈がいれば誤魔化せるとは思うが。
そう思った櫂奈が、メッセージを送ろうとスマホを取り出す。
メッセージを打つ横で、コンコンと何かが軽く当たった音が聞こえて、窓の外に視線を向ける。
「やっほー、カイナ」
窓の枠に捕まったサクヤが手を振って挨拶をしていた。
あまりにも予想外の光景に、櫂奈の思考が一瞬止まる。
「お前、何してるんだ?」
「暇だったから来ちゃった」
「そんなノリで来ていい場所じゃないわ。一旦入れ」
じわじわと湧いてきた怒りを込めながら、櫂奈がサクヤを中に入れる。
急いで窓の外を見下ろすが、数名の男子たちがグラウンドでボールを蹴っているくらいで、こちらに気づいている様子はない。
気づかれていないことに安堵しながらも、気は抜けない。
今は櫂奈しかいないが、誰かに見つかれば騒ぎになってしまう。しかも、侵入した方法を問われれば、誤魔化し切れる自信はない。
「ここが学校なんだ。初めて来た~」
櫂奈の心配をよそに、興味津々に廊下を見渡すサクヤに腹が立つが、今は怒っている場合ではない。
「おい、今すぐ帰れ」
「え〜、今来たばっかりじゃん」
駄々をこねるサクヤに、櫂奈は焦る。このままだと、見つかってしまうのは問題だ。
「ともかく、こっちに来い」
一刻も早くこの場所から離れようと、サクヤの手を掴んで来た道を引き返す。
ボードゲーム部の部室にたどり着くと、合鍵で鍵を開ける。
押し込むようにサクヤを入れた後、教室の鍵を閉める。ここなら、誰にも見つからないだろう。
「何か、めっちゃいっぱいあるじゃん。ここって櫂奈の部屋?」
全く悪びれる素振りのないサクヤに、櫂奈の全身の血液が沸騰する。
「触るな!」
櫂奈の怒号に、サクヤの体がビクッと跳ね上がる。
「そ、そんな怒らなてくても」
「当たり前だ。もう少し自分が真祖だって自覚しろ」
できる限り抑えようとするが、櫂奈の口調からは怒りが漏れ出ていた。
「大丈夫だって。ここに来るまでも誰にもバレなかったでしょ?」
一向に聞く気のないサクヤに苛立ち、櫂奈が机を叩く。
「座れ。今すぐ」
「……はい」
ようやく本気だと伝わったようで、サクヤが渋々椅子に座る。
「お前が目立つ行動をすれば、それだけ周囲が注目する。そしたら、吸血鬼狩りに見つかるのも時間の問題なんだ」
「でも、真祖だってバレなければ……」
「絶対にバレないなんて保証はあるのか? 夜の間に吸血鬼狩りに遭遇して、殺されてからじゃ遅いんだぞ」
「……は~い」
ふざけたような返事だが、サクヤのふてくされた表情から、一応伝わったことは分かった。だが、本人はまだ納得し切れていないようだが。
慣れないことをした櫂奈が、大きな息を吐き出して自分を落ち着かせる。
「それで、なんで俺の学校が分かった?」
「匂いだよ」
そう言われて、櫂奈が思わず自分の服を匂う。が、正直分からない。
「他の人とは違うのか?」
「私との盟約で、血液を舐めたでしょ。だから、少しだけ吸血鬼の匂いが混じってるの」
「……俺が吸血鬼になってるってことじゃないよな」
「それは大丈夫。元々、結川家は吸血鬼にならない体質だから」
意外な事実に、櫂奈は目を見開く。
「あれ、知らなかった?」
「まあな。それも、母親からの情報だな」
サクヤが素直に頷く。
彼女から聞かされる結川家の話には、驚かされることばかりだ。良牙はこのことを知っているのだろうか。
そんなことを考えている間に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
「これって、何の音?」
「昼休みが終わったんだ。ともかく、お前は帰れ」
「え~、さっき来たばかりなのに」
文句を言うサクヤに、櫂奈はため息をつく。
「あのな、さっきも言っただろう。誰かに見つかるかもしれないだろって」
「そうなんだけどさ……」
言葉の途中で、何かに気づいたようにサクヤが立ち上がる。
周囲を注意深く見渡し、時折首をかしげていた。
「おい、どうした?」
「多分だけど、学校に吸血鬼がいるかも」
囁くように告げたサクヤに、櫂奈は信じられないものを見たように目を見開いた。
夜空を覆う灰色の雲に見下ろされつつ、櫂奈は学校の塀から飛び降りる。
音も立てずに着地すると、誰もいない静かなグラウンドには、既にサクヤが立っていた。
「こんなに広いところで遊ぶんだね。学生さんって」
「全員が遊んでる訳じゃないけどな」
サクヤが、感触を確かめるように土を触る。
櫂奈にとっては何の変哲もない場所なのだが、サクヤには目新しく見えているようで、何度も繰り返していた。
「本当に匂うのか?」
「ここからでも匂う。間違いなく吸血鬼がいる」
サクヤの言葉をいまだに信じられない櫂奈が、遠くの校舎を見る。
薄暗い夜の中に浮かび上がる白い校舎の中は、非常口の緑の明かりだけが存在していた。騒がしい昼間とは違い、人の気配は全くないので廃墟に来たような気分になる。
どう考えても、吸血鬼がいるとは思えない。
「本当に学校に潜んでいるなら、どこにいるんだ?」
「それは、校舎に行ってみないと分かんない。櫂奈には帰れって言われたし」
当たり前だ。
吸血鬼が校舎の中に潜んでいるとしたら、日の光に当たらないように巧妙に隠れている。普通に探しても見つからないのに、昼間の学校でサクヤと探していたら、先生に見つかって、後に良牙にまで知れ渡ることになる。
何としても、良牙には隠し通さなければならない。
「とりあえず、校舎に入るぞ」
素直についてくるサクヤと一緒に、グラウンドを歩いて校舎へと向かう。だが、問題は校舎の中へどうやって入るかだ。
グラウンドまでは塀を飛び越えるだけで簡単なのだが、校舎の窓や扉は最後に帰る先生が閉めているはずなので、校舎に侵入できる可能性は低い。
念の為、櫂奈がグラウンド側の窓を確認するが、もちろん閉まっていた。
校舎の周りを歩きながら、どうやって入ろうか考えていると、いつの間にかサクヤが手を振っているのに気づく。
「どうした?」
「こっち、開いてるよ」
手招きするサクヤの元まで走ると、中庭から玄関へと入る扉が放り出されていた。扉の繋ぎ目を見ると、強引に引きちぎったような跡がある。
道具を使って壊したか、それともーー。
「吸血鬼の匂いだ」
校舎の中を覗いていたサクヤが、犬のようにクンクンと嗅いでいる。
「本当か?」
「うん。しかも、血の匂いも混ざってる」
吸血鬼が潜んでいる可能性がどんどん高くなっていく。
櫂奈は薄暗い廊下に誰もいないことを念入りに確認して、土足のまま廊下に上がる。
「なんか、探検みたいだね」
楽しげについてきたサクヤを無視して、廊下を進む。
まだ五月だが、廊下はひんやりとしていた。櫂奈たちが歩くたびに、コツコツと音が反響する。月明かりもないため、全体的にどんよりとした暗さが漂っていた。
ゆっくりと廊下の角まで近づいてから、わずかに顔を出す。やはり、誰の姿もない。
「吸血鬼の居場所は分かるか?」
「どうだろ。なんとなくは分かるんだけど」
「分かった。どの辺りだ」
「こっちの方」
サクヤが指差したのは斜め上。二階か三階の教室がある方向だ。
櫂奈は周囲を警戒しながら、二階に上がる。向かう途中、空き教室を通るたびに扉のガラスから中が見える。
そこだけ時間が止まってしまったかのように、机と椅子が微動だにしていない。見慣れている場所なだけに、異質に感じた。
「櫂奈の教室はどこ?」
「別にどこだっていいだろう」
次々と教室を見て回ることに飽きたのか、サクヤが小声で話し始める。
「好きな人とかはいたりするの?」
「……」
「友達は? 流石にいないか。ごめんね、聞いちゃって」
「……」
「はいはい、分かりましたよ。静かにします」
目線で黙れと送ると伝わったようで、サクヤが唇を尖らせる。
吸血鬼が潜んでいるかもしれないのに、なぜそんな能天気になれるのだろうか。どういう神経をしているのか、呆れを通り越して心配になってくる。
黙々と三階まで歩き回ったが、吸血鬼の姿は見当たらない。
「本当にいるんだろうな」
「そうだと思うんだけどな」
サクヤにしては珍しく、自信なさげに呟く。
このまま廊下で突っ立っても意味はないので、櫂奈が一旦引き返す。
非常口の緑の光に照らされた薄暗い廊下を歩いて階段まで向かう。
背後から、窓ガラスが割れた音が聞こえた。
振り返ると、雲が流れていったようで月明かりが差し込んでいた。先ほどまで櫂奈たちがいた廊下に、二人の男が立っていた。
落ち着いた雰囲気の老年と、獣のような獰猛さを漂わせる青年。
老年の男と視線が合う。無機質で機械のような冷たい目。櫂奈を見ているようで、認識しているようには感じない。本物そっくりに作られた人形と錯覚するほどだ。
二人の男は櫂奈たちに気づくと、足元にあるガラスの破片を踏み砕き、一気に迫り来る。明らかに、人間の身体能力ではありえない速度だ。
櫂奈が血の籠手を纏って、サクヤを庇うように前に出る。
「絶対に、俺の後ろから離れるな」
「あ、うん」
状況を把握できていないサクヤが、ぼんやりと返事する。突然の強襲に、ついていけていないようだった。
獣のような青年が、風を切り裂く音と共に、櫂奈に腕を振り下ろす。籠手で防御しようとした瞬間、背中に悪寒が走り、すぐに切り替えて受け流す。
轟音と衝撃が響き渡る。振り下ろされた腕が床に突き刺さり、亀裂が走った。飛び散った破片が、櫂奈の顔に降り注いだ。
「カイナ‼︎」
サクヤの叫びで振り返ると、櫂奈の横をすり抜けた老年の男がサクヤに手を伸ばしている。
恐怖で引き攣るサクヤを横目に、櫂奈が老年の男の腕を蹴り上げる。
その勢いのまま、裏拳を老年の男の体に叩きつけると、腕を引き抜いた青年と重なり、二人は廊下を転がっていく。
「サクヤ、逃げるぞ」
脱ぎ捨てるように籠手を破壊すると、櫂奈が大量の血液を廊下へばら撒く。
赤い液体が波のように男たちに押し寄せると、一気に赤黒い壁へと変わった。
男たちが壁を破壊する音を背に、櫂奈とサクヤは階段を駆け降りる。一人でなら戦うことは可能だが、サクヤを守りながらでは、廊下は狭すぎる。
「ごめん。うまく戦えなくて」
「気にするな。とにかく逃げることに集中しろ」
一階まで降りようとして、下の階から何かが割れた音。
「クソ」
慌てて二階の廊下を走り、近くのトイレに入る。
「ちょ、ちょっと、ここ男子トイレじゃん」
「ここで隠れてろ。その間に俺が引きつけるから」
「で、でも、カイナが」
「俺一人なら大丈夫。分かったな?」
サクヤが迷っている間に、廊下を歩く足音が聞こえてくる。
「絶対に戻るから、ここにいろよ」
サクヤの返事を聞かずに、櫂奈はすぐにトイレに出る。
しばらくして、青年が階段の方から現れる。やはり、下の階の音は吸血鬼の一人だったのだ。
「群れてる吸血鬼なんて珍しいけど、お前ら兄弟か何かか?」
櫂奈に注目を集めるつもりで話しかけるが、全く反応はない。無視したまま、周囲をキョロキョロと見渡す。
どういうわけかは分からないが、サクヤを狙っているようだ。
今は手分けして探しているのか、もう一人の方はいない。それなら好都合だ。
駆け出した櫂奈が距離を縮めると、赤黒い拳を叩きつける。青年は顔を横に向けて回避するが、休む暇を与えず蹴りを放つ。
青年がやっと櫂奈を認識し、両手で蹴りを防ぐ。青年の体が後退するが、追いかけるように再び拳を放つ。普通なら当たっているはずだが、超人的な反射神経で回避する青年。
間髪入れずに青年も拳を放つが、櫂奈が上手く受け流して、赤黒い籠手を叩きつける。
一進一退の殴り合いを始める二人。互いに必殺の一撃を放ち続けるが、ギリギリでかわし続ける。
ひりつくような殺意を受け続け、櫂奈の精神もすり減っていく。それでも、退くわけにはいかなかった。
櫂奈と殴り合っている間は、青年もサクヤがいるトイレの方へは行けない。中途半端に距離を開ければ、逃げるサクヤを追いかけるかもしれない。そうなれば、身体能力が勝る青年には追いつけない。
だからこそ、櫂奈は一歩も引けずに拳を打ち続けるのだ。
青年も一向に当たらないことで、能面のような顔にもわずかに苛立ちが見え始める。
櫂奈はその隙をついて、一気に後退する。青年もここがチャンスだとばかりに、後を追う。
作戦通り、櫂奈の方に意識を向けられたようだ。付かず離れずの攻防を繰り広げながら、トイレが見えない廊下の奥まで逃げる。
一向に変わらない戦況を変えようと、青年が大きく腕を薙ぎ払う。跳躍して回避した櫂奈の蹴りが、青年の顔に突き刺さる。
よろめく青年に追撃しようとするが、背後からの殺気を感じ、すぐに青年の横を前のめりに飛び込む。
転がった櫂奈が立ち上がると、さっき立っていた櫂奈の背後に、老年の男が立っていた。
老年の男が来る前に倒すつもりだったが、間に合わなかったようだ。
息を切らしながら、櫂奈が拳を構える。正直、勝ち目はないが、サクヤが逃げるまで時間稼ぎできればいい。
顔を抑えていた青年が振り返り、じっと櫂奈を見つめる。冷たい瞳に、わずかに怒りの炎が見えた。
一気に距離を縮めた青年が、獣のように両腕の爪を振り回す。全てをかわすのは無理だと悟り、籠手で防ぐ。
斬撃に吹き飛ばされないように踏ん張るが、勢いを殺しきれず、櫂奈の体が後退していく。
青年の攻撃の隙間を縫って、老年の男が蹴りを放つ。
櫂奈が後ろに飛んで回避しようとするが間に合わず、背中まで貫く衝撃で廊下の奥まで吹き飛ばされる。
景色が一気に流れた後、壁に叩きつけられる。肺の中の空気が一気に押し出された。
蹴りが当たる直前に血を硬化させたので骨は砕けていないが、激痛に耐えられず、血を吐き出す。
揺れる櫂奈の視界には、接近してくる男たち。立ち上がろうとするも、体は全く動かない。
なすすべもない櫂奈の頭を潰そうと、青年が足を上げるが、老年の男に手で制される。
老年の男に腕を引っ張られ、櫂奈は無理やり立たされる。立つ力がないので、壁にもたれかかっているが。
二人は視線を合わすだけで意思疎通ができるようで、全く声を発さない。
自分はもう助からないだろうと諦めてはいるが、サクヤが逃げきれたかが心配だった。だが、二人の吸血鬼がここにいるから、きっと大丈夫だろう。
少しでも、翔太のような人間に近づけたなら、自分の命も何かに役に立ったと誇れる。死ぬ間際だとこんな気持ちなのかと、達観していた。
二人の話し合いは終わったようで、老年の男が櫂奈を引っ張っていく。廊下に擦れて痛いが、声を出せる力もない。
青年と視線が合うが、もう興味はないかのようにそっぽを向けられる。
階段近くのトイレまで引き摺られた時、櫂奈の視界に銀髪の女性が映る。
「カイナを離せぇぇぇぇ!」
油断していた青年の背後から手を突っ込み、サクヤが血の塊を抜き出す。
青年が倒れた瞬間、老年の男が櫂奈を投げ捨て、サクヤの首を掴む。だが、瞳は力強いまま、細い手足を振り回す。
なんとか体を引きずって立ち上がった櫂奈が、老年の男に突進する。だが、全くビクともしない。
櫂奈が最後の力を振り絞り、左手の籠手を棒状に変化させると、サクヤを掴む手に突き刺す。
野太い悲鳴を上げてサクヤを手放す男に、櫂奈が全体重をかけて押し倒す。一瞬、櫂奈とサクヤの視線が交錯する。
櫂奈の気持ちを読んだサクヤが、片手で男の腹部に手を突っ込む。
暴れ始めた男を抑えるために、櫂奈は右手の籠手を何度も叩きつける。
満身創痍の櫂奈では、数秒しか足止めできない。だが、その間にサクヤが血液の塊を引き抜いて、すぐに握りつぶす。
突然、電池が切れたロボットのように老年の男が止まる。
もう力が残っていない櫂奈に、サクヤがピースサインを向ける。
「……何で、逃げなかった?」
「当たり前でしょ。カイナを置いて逃げれるわけないじゃん」
色々と言いたいことはあったが、櫂奈はそれ以上口を開く力もなかった。
しばらく、二人の息遣いだけが廊下に響く。
次第に、櫂奈の耳元でサラサラと砂が流れるような音が聞こえた。
視線だけ向けると、赤黒い棒が突き刺さった男の腕が灰に変わっていく。
驚きで固まる櫂奈の目の前で、男の体は徐々に灰となり、空気へと消えていった。