第35話『目覚め』
蒼炎が、爆ぜていた。
俺の前の前には、愉しそうに嗤っている一匹の悪霊。
『病符』の浸食がかなり進んでいるのか、その肉塊が黒く染まりつつある。
失われてゆく人間性。
それは理性の喪失と言い換えてもいい。
「……先生」
もうそれが先生ではない、ということは分かっている。
でも……。
『……無事だっタんだナ、宮本』
上から、もはや先生のものとも呼べない声が振ってくる。
視線を声の方向にスライドさせると、そこには草食動物を見つけたが如き目を輝かせた先生の姿があった。
「……『狐』が、助けてくれたんです」
『その当の『狐』ハ、どうシタ?』
俺一人という、この状況の異質さに疑問を抱いたのだろう。
何度も周囲を見渡し、目的の人物の姿を探している。
「『狐』は、今、一般人を助けています」
「フフっ、あの陰陽師にソんな情があるとは思えンが」
「……」
「ならば……何デ、一人で来タ?」
目の前の悪霊は眉間にしわを寄せ、怪訝な目で俺を見てたが、やがて得心がいったというように、その表情を輝かせた。
『……そうか、自殺、カ』
「……」
考えられる可能性の中で、それが一番確率的に高いと判断したのか、先生は愉快げにその顔に笑みを浮かべる。
『そウならそうト言え、楽に殺シてやるのに』
「……違います」
『……?』
「俺は、京香を助けに来ました」
『……冗談なラ、面白クないが?』
「本気です。『狐』も、
……いや、黛仁も、そう言ってくれました」
『……』
俺は両手に握った『虎徹』と『六合』を眼前に掲げる。
深呼吸をし、精神を統一する。
大丈夫。
信じろ、仁を。
一パーセントでも望みがあるのならば、それにかけろ。
少しの可能性をも否定するな。
脳内で、先ほどの仁とのやり取りが、蘇る―――――。
===
『お前は霊力が足らないんじゃない。……俺が思うに、既に発動している』
『……?』
『お前の式神発動時、極端に霊力が少なすぎる。既に式神を使用している状態、と考えた方が自然』
===
―――――ありがとう、仁。
俺に少しでも希望を持たせてくれて。
もう少しだけ。
あとほんの少しだけ、俺は自分のことを信じてみるよ。
『ナラバ……、私が終わらせテやるよ!! 宮本ォ!!!』
肉塊から出た腕を鞭のようにしならせ、俺が立っていたところを薙ぐ。
空を切る度に、鋭い音が周囲に響き渡り、その殺傷能力が伺える。
当たれば、無残にも俺の肉体が飛び散ることになるのは、想像するに難くない。
「く……!」
上方に跳躍しそれを避け、先生から物理的に距離を取った。
『お前に、できルことは、何モ無い、んだよ!!!』
……!!
波状に襲い来る腕を、紙一重で交わし続ける。
完璧なものとは呼べない回避行動。
古賀流の合気を持っても、人の身では限界がある。
「っ……、くっ……!」
全身に感じる鋭い痛み。
恐らく……避けきれずに擦っているのだろう。
しかし、それでも致命傷だけは避けなければいけない。
京香を救うために……!
===
『『六合』は、既に発動中だ』
『……でも、形状の変化が……』
『俺が思うに、『六合』は護符の形をした式神』
===
『宮本、避けナイでくれ……! 殺セないじゃないかっ!!』
数多の蒼い火球が周囲に発生し、周囲の温度が急激に上昇するのを感じる。
呼吸の度に熱気が体内で暴れているようだ。
『お前はタダノ一般人!
陰陽師でもなイ無能!!
それなノに……ナゼしがみつく!!?』
熱い。
全身が発火しそうなほどの灼熱。
さすがは、古賀の……いや、京香の式神。
京香はその発現事象を制御し、他の陰陽師に危害が及ばないように常に細心の注意を払っていた。
でも……、先生は違う。
破壊だけを最優先、第一目標に据え、邪魔をする者を蹂躙するために式神を発動させている。
『十二天将の術者でもなイ!!
分カるか、宮本……!!
オ前に価値は無いんだよっ!!』
「……!!」
周囲に漂っていた火球が―――――、一斉に俺に降り注ぐ。
それは一切の退路を断つ、全方位攻撃に他ならない。
===
『でもそれじゃ、一術者一式神の原則に当てはまらないんじゃ……』
『……』
『俺は、ギリギリだけど『虎徹』を起動することができた。
『六合』が既に発動していたとするなら、俺は同時に二つの式神を使用していたことになる』
『……ここからは、俺の仮説だ。恐らく……』
===
目の前に、蒼い火球が迫っていた。
時間にしてほんの一瞬の出来事。
火球が俺の体を消し炭にするまで、肉も骨も体の組織も全て燃やし尽くすまで、消えないのだろう。
眼前の雑魚を完膚なきまで蹂躙する。
先生からしてみれば、何気ない破壊行為の一つに他ならない。
『逝ケ』
転瞬。
―――――蒼炎が、俺を飲み込んだ。
***
炎の残滓が、揺らめいていた。
十二天将の術者と思しき少年を、たった今殺したのだ。
燃え盛る周囲を横目に、鈍重になってしまった体を動かし私は踵を返す。
泉堂学園に入学する前から知ってはいた。
第一厳戒対象―――――宮本新太。
十二天将、その術者の疑惑のある少年の存在は清桜会上層部の中で共有されていた。
だから、担任することになったときは、人知れずに心躍った。
どんな天才なのだろう。
どんな陰陽師になるのだろう。
教職とは言え、私も所詮研究者の端くれ。
未知のモノに対する興味は捨てきれなかった。
……しかし。
宮本は私の興味を失わせるのは十分すぎる劣等生だった。
座学はさることながら、式神の安定しない起動。
他の生徒に比べ少なすぎる霊力。
ムラのある霊力出力。
陰陽師になる以前の問題だった。
極めつけは……。
『……そもそも、俺は陰陽師になれますか?』
修練場での一幕。
馬鹿か。
お前になれるわけが無いだろう。
誰彼がなれるなら、陰陽師の養成学校なんて存在しない。
素質のある者を更にふるいにかけ、残った一握りが真の陰陽師なのだ。
前途ある若者の夢を壊すのはいともたやすい。
……では、なぜ私はあの時。
アイツを否定しなかったのだろう。
気まぐれ、と言えばそれまでだが、そこに大きな理由はない。
『……死んデしまった人間ハ、陰陽師にはなれないよ』
静かな呟きは、炎が爆ぜる音に掻き消され、消えてゆく―――――。
「―――――生きていれば、なれますか? 陰陽師に」
背後から聞こえる声。
それは間違いなく、今しがた殺した少年のモノで。
『……!!』
振り返ると。
そこには燃え盛る蒼炎の中に、一人佇んでいる宮本。
―――――なぜ、生きている……?
退路なんて存在しなかったはずだ。
私はそんなミスはしない。
確実に殺したと言ってもいい。
なのに、なぜ……!?
違和感の正体、それは奴の右手。
『お前……、ソれは……』
宮本の手に握られた、一振りの黒刀。
そして、奴から溢れ出す傍目から見ても膨大な漆黒の霊力。
―――――有り得ない。
奴の反撃手段は既に潰してある。
実習用の刀剣型式神、『虎徹』。
たかが実習用の式神。
それに、剣先と共に奴の心を折ったのは、記憶に新しい。
しかし。
折ったはずの剣先が修復されていて、形状が変化している。
いや、そもそも『虎徹』ではないのか……?
そんな馬鹿な。
あんな式神を、私は知らない―――――。
「……仁が、教えてくれたんです。
俺が、京香を助けるための僅かな可能性を」
黒刀を掴んだ宮本の手がぼんやりと淡い輝きを放つ。
そして手の甲に浮かび上がる呪印。
それは間違いなく。
『五芒星……!!』
清明の式神の暗示……!
発動したというのか……、『六合』を……!!
「『六合』は単体では意味を成さない。
―――――つまり、他の式神と同時に発動することで、始めてその真価を発揮する」
転瞬。
激痛が全身に走った。
視界の端で捉えたのは、私の背後に移動している宮本の後ろ姿。
……斬られた、のか?
馬鹿な。
知覚できな―――――。
「仁は、正しかった……」
『……!!』
私自身の腕が落ち、そこから吹き出す大量の鮮血。
この霊力に裏打ちされた膂力。
間違いない、奴は。
宮本は。
十二天将の、術者……!




