第216話『追憶の狐-朧月-』
――――三月二十七日。
その年は暖冬ということもあったのだろう。
新都の至る所に植樹された桜の木々は例年よりも早く蕾をつけ、そして――――その花を咲かせていた。
はらりはらりと、舞い散る花弁。
日本人は古来より、その刹那的で叙情的な美しさに人間というちっぽけで矮小な生命の儚さを重ねた――――。
――――しかし、仁は舞い散る花びらよりも、路肩に溜まった一面の白色の花弁を見る方が好きだった。
桜の散りゆく姿も、もちろん綺麗。
でも、桜吹雪と引き替えに遺してくれる景色にこそ、価値があると思っていた。
散って尚、何も遺らないなんて、悲しいから――――。
***
「っ……」
全身に纏わり付くような嫌な気配を感じ、仁はゆっくりと身体を起こした。
徐々に覚醒してゆく意識の最中、肌に感じるピリピリとした感覚。
微睡みの中で感じた違和感は、勘違いではなかったことを確信し、そして仁は自身の式神の名を呼ぶ。
「……天」
すると。
窓から入り込む月光を受け、白銀の毛並みを輝かせた一匹の狐が仁の傍らに姿を現した。
《……仁も、感じたか》
「うん。
何だろう……、変な感じ」
掌へと視線を落とすと、仁の意志に反して小刻みに震えているのが見て取れる。
こんなこと、これまでには無かった。
――――まるで、全身が本能的に恐怖を感じているかのような。
「……天、行ってみよう。
多分、外だ」
手早く着替え、縁側から庭へと躍り出る。
すると、頭上にはぼんやりと霞がかった雲にその姿を隠す満月。
その間から漏れ出る月光が、遙か下方にいる仁達を含めた万物を照らしている。
――――それと同時。
全身で感じる違和感。
それが「疑念」から再度「確信」へと変わった。
北区近郊の山間部、その山並みの最中にある桐月邸。
中央区のビル群を含めた新都の夜景が一望できる眺望、その遙か彼方――――。
「――――南区の方」
《……》
自身の感じる「違和感」の発生源。
そして、南区の方にあるのは「近衛」の屋敷であること。
両者の関係性について、現状結論を出すことは仁にはできない。
――――しかし。
「――――天。
空から行くよ」
《……承知》
――――行かなきゃ。
そう、直感的に理解し、気付けば仁は全身に霊力を充填させていた。
額から汗が滴る。
……汗。
怖がってる?
一体、何に?
この異様な気配に?
――――違う。
「っ……」
その正体を、仁は分かっていた。
それは。
半年前、泰影とのやり取りの中で想像してしまった――――「日常の崩壊」。
そして脳裏に浮かぶは、あの近衛の式神――――。
「――――十二天将『天空』、発動!!」
胸に燻る不安を掻き消すかの如く、仁は叫ぶ。
そして、傍らの白狐の姿が立ち消え、全身を満たす霊力の奔流。
霊力を充填させた跳躍の後、「夜の新都」へと飛び込んでゆく一人の少年。
ただ月光のみが、その姿を照らす――――。
***
「……はははっ」
泰影は、眼前への光景に笑いを漏らさずにはいられなかった。
儀式の場所として選択したのは、南区近郊の霊場渡来神社。
結界こそ展開しているものの、その行為自体に全く意味が無かったことを悟る。
「『近衛』め……、やっぱりとんでもない化物を造っていやがった……!」
鳥居も、本殿も、そして周囲を取り囲む針葉樹でさえも――――。
その組成を全て無視し、周囲に存在する数多の物質を粒子状に分解、収束させることで得られる暴力的なまでの霊力の奔流。
――――否。
それを既に「霊力」と定義して良いかも不明なほど、その密度を濃く、黒く、明度を落としてゆく。
夜の闇だけでない漆黒が溢れ出し、塗りつぶさんとする――――極黑。
そして。
その中心にいるのは――――一人の少年。
少年は既に意識を失っており、光のない瞳に映っているのは、彼の目の前に浮かんでいる白銀の日本刀。
――――十二天将『六合』との同調。
それがどのような意味を持つのかは、やってみなければ分からない不確定事象。
しかし、それがまさか――――。
「人工的な『熾光』の再現とはね……!!」
術者自身も、そして俺らもアレの制御は現状不可能。
ともすれば、講じれる策としてはたった一つ。
「泰影様……!!
いかように……!?」
泰影の傍らで傍観するスーツ姿の草薙家当主、草薙梢が声を張り上げる。
それと同時。
泰影の背後で自身の身体に霊力を充填させる一条家当主、一条鞍馬。
そして、鎧の様な装填体を狩衣の節々に宿し、白髪の頭部に顕現する――――般若の面。
「泰影様、ご命令を……!」
――――時間的猶予は、ない。
「――――最低でも術者の殲滅。
次点で、式神の破壊」
命を下す泰影の額に浮かぶ、球のような汗。
それが重力に従い、静かに頬を伝った。
「「――――御意」」
泰影の前へと躍り出る二人。
そして――――懐から取り出す、各々の護符。
『十二天将、『太常』発動!!』
『十二天将、『勾陳』――――発動』
それは、彼らが『十二家紋』の当主たる証に他ならない。
***
十二天将『天空』発現事象、「空間内事象制御」を応用した空中流歩術。
まだ他者に干渉できるほどの霊力出力を発揮できない仁は、まず自分自身への発現事象の適応を講じた。
重力化における、三次元的運動の最適化。
それは「斥力」による力場の形成と、中空における指定座標の一時的な半重力化。
加えて、仁が日々叩き込まれている『桐月』流の体捌きを掛け合わせた。
……他でもない。
「奏多との修練」を通して自身の課題を認識し、地道な研究と研鑽の結果会得に至った、桐月仁オリジナルの陰陽術である。
「っ――――」
空を蹴り上げ、自身の最速を維持――――。
――――新都の街並みが、次から次へと後ろへ流れてゆく。
いくら暖冬と言えど、時候は三月。
夜半の冷たい外気が仁の全身を包みこむ。
中央区高層ビル群の間をすり抜け、新都沿線の直上を駆け、直下には数多の人の営みが存在する住宅街。
街ゆく人の驚愕に目開いている表情。
狩衣を身に纏い夜に紛れ「悪霊」という魔を滅せんと夜に駆ける、「新型」達。
その悉くを眼下に臨むも、意識はあくまでも南区の方へ――――。
こんな速度じゃ足りない。
もっと……、もっと速くっ!!
「っ……奏多……!!」
自分を「対等」と認めてくれた友の名を、仁はただ呼ぶ。
***
「私が先行する!
梢は『憤撃』を……!!」
傍らの草薙梢が軽く頷いたのを視界の端で確認し、一条鞍馬は自身の頭部に出現した般若の面で顔を覆った――――。
一条家相伝十二天将、『太常』、発現事象は『累乗』。
膂力、打突の衝撃、それに乗せる霊力、その他戦闘時に必要な要素を乗数倍した上での上乗せを可能とする、十二天将内でも戦闘特化型の式神。
一条家はそれに加え、特異体質である『鬼人降魔』を加えた陰陽術を用いることで戦闘へ応用する。
『――――参る』
――――――『鬼人降魔』。
それは、一条家成立の黎明から研究が進められた、身体能力強化・呪怨顕在化の陰陽術。
能面を依り代にすることで肉体を鬼人と化し、対象への怨嗟怨恨を『呪撃』として顕現させる。
溢れ出る規格外の霊力に身を委ね、鞍馬は地を蹴り――――未だ尚、周囲の物質を『熾光』へと転じている奏多へと肉迫。
籠手で包まれた拳を振りかぶり、面の奥から覗く鞍馬の瞳が輝く――――。
『ハアアアアアアアァァァァァァアァ!!!!!』
それは最早「異形」と化した裂帛の気合いで以て、鞍馬は霊力を解放させた。
打突の瞬間。
乗数倍した鞍馬の霊力と『呪撃』を込めた一閃が――――奏多の『熾光』へと、吸い込まれた。
光塵が舞い――――一拍遅れて泰影達の元へと達する衝撃波と爆音。
爆風の隙間から泰影がその視界に捉えたのは――――先ほどまでと、なんら変わらない様子でその場に佇む、近衛奏多の姿。
当代一条家当主の式神躁演を以てして尚、無傷。
『っ……梢!!!!』
砂塵の間を跳躍し、遙か上空へとその姿を現す一条鞍馬を確認、梢は刀印を結び、自身の十二天将、その発現事象を発動させる。
極黑の『熾光』を発する近衛奏多の直下――――。
爆発的な閃光と共に、呼吸を妨げるほどの高温が周囲へと溢れ出す。
土壌は融解し、古より地上へと表出した時の姿である溶岩へと変えて盛り上がり――――そして。
『――――融』
爆炎を内包する火柱が、奏多の全身を包み込む。
燃えたぎる炎熱が支配する前方へと視線を向けながら、梢の身体に纏わり付く一匹の蛇は静かに口を開いた。
《……『熾光』相手は、久々だねぇ。
しかも、術者はまだ子供じゃないか》
「……」
黄金の鱗に覆われたその身体を捻らせながらチロチロと舌を出し、蛇目を細める黄蛇。
噎せ返るほどの噴煙と灰燼。
大気を焦し、舞い上がる火の粉のその先――――。
融解し、溢れ出す溶岩のその最中に佇む、一つの人影。
草薙家相伝十二天将、『勾陳』。
陰陽五行における「土」の性質を司る『勾陳』は、大地の形成に伴う「噴火現象」を一時的ながら顕現させる発現事象をもつ。
その名も――――『憤撃』。
――――「噴火現象」。
それは言うならば、事象としては溶岩の表出だけに留まらない。
噴火に伴う噴石の生成、火山ガスの組成制御による局所的な大爆発の誘発。
それらを一切合切を総称した上での、「噴火現象」。
「アレを子供とは思わない。
『勾陳』、――――火山雷」
今しがた発生させた眼前の溶岩を伴う火柱へ、にわかに走りゆく電流。
青白い稲光は噴煙の間をすり抜け、やがて一点へと集中してゆく。
火山雷。
それは火山ガス、火山灰、火山岩などの噴出物同士における摩擦によって生じる――――稲光。
『――――轟』
その高電圧の雷もまた、『勾陳』における事象制御範囲内の奇跡。
***
仁が跳躍する前方――――眩い閃光が走り轟音が辺りに響き渡る。
その方向にあるのは、渡来神社とその神域である後背に控える鎮守の森。
夜の闇の中、広範囲にわたって二重三重の結界に覆われているその偉容を視認し、そこが自身が向かうべき目的の場所であることを悟る。
《……仁》
「うん……、あそこだ……!!」
今しがた訪れた近衛の屋敷はもぬけの殻だった。
屋敷に展開されていた結界もその役割を失い、遺されていたのは十二天将の霊力――――その残滓。
奏多はおろか吉宗さんもその姿を眩ませている。
二人が何かイレギュラーな自体に巻き込まれているのは明白。
眼前の結界内では、これまでに感じたことのない何か大きな力が渦巻き、混沌とした様相を呈している。
その中心へ直接、飛び込む――――!
最大速度を維持し最大高度まで跳躍――――眼下に結界を臨まんとした、その時だった。
「っ――――!」
仁の全身を衝撃が襲い、身体はその制御を失う。
その正体を確かめる暇も無く、仁は自身の陰陽術を結界内への突入を見据えた躁演へと切り替えた。
夜風をきりながら自由落下を始める仁の小さな体。
「っ……!!」
そして、落下の最中視界の端で捉えるのは、夜光を受け反射する弾丸のような粒状の光球。
第二、第三の……いや、その観測を凌駕する数多の光球が、現在進行形で仁へと肉迫する。
結界内への突入へと思考のリソースが裂かれている中、来たる追撃に対する防御。
それが可能なほど――――仁はまだ『天空』を使いこなせてはいない。
「っ……!!」
重力と落下エネルギーを演算に組み入れ、複数の力場を展開しつつ、跳躍を繰り返す回避行動。
新都の高層――――上空を舞う仁を追尾し炸裂する、数多の光球。
その中の一つが、仁の肩を穿った。
「っ……、ぐ……!!」
僅かに座標をずらされた自由落下の最中――――仁の身体は結界の中へと飛び込んだ。
「がっ……!!」
落下のエネルギーを全身からの霊力放出によって相殺、全身の身体強化で地面への衝撃を吸収。
それでも尚、背部へのダメージは仁の肺腑の空気を強制的に外へと排出させた。
《仁……!!
大事ないか……!!?》
「っ……多分、大丈夫……。
でも……」
目線を痛みの元凶である箇所へと移す。
すると、光球の直撃を受けた肩はその衣服諸とも吹き飛び、赤黒く変色している。
直撃の瞬間、瞬間的な霊力充填。
腕の可動に問題は――――。
「――――おいおい、ガキじゃねぇか」
不意に、辺りに響き渡る声。
その方向である上方へ視線を移すと、月明かりに照らされ辺りに立ちこめる砂塵の中、悠然と姿を現す浅黄色の狩衣を纏った男。
同時に、そこで始めて仁は自分の落下した場所が渡来神社本殿へと至る階段、その中腹付近であることを悟る。
「ったく……、ちょこまかと逃げ回りやがって。
無駄撃ちしたじゃん」
その口ぶりから察するに、今しがた仁を中空より引きずり下ろしたと思しき陰陽師。
その手には一枚の護符が握られ、黒髪と金髪の入り交じったその頭をガシガシと搔きむしる。
「……あのな、ガキ。
『結界』ってのはな?
「こっから先は危険ですよー」ってのを教えてくれる一つの目印なんだわ」
「……」
どこか既視感のある、その風体。
視線を逸らすことなく、仁は自身の記憶の中を探る。
――――僕を撃ち落とした陰陽術自体は未知のモノ。
となると……。
「お前も感じるだろ?
結界内に満ちる霊力の波動を。
命が惜しければさっさと……」
そこまで、目の前の陰陽師が口にしたときだった。
目を細め仁の顔を舐めるように一瞥すると、にわかにその表情を破顔させる。
「ってか……、お前桐月のガキかぁ?」
「っ……」
「これはこれは……失礼しました。
御当主様が、このような場所に一体どういったご用件で?」
血の味がする口内に溜まった唾を飲み込み、石段上方に鎮座する陰陽師を睨む。
「……この先に、奏多がいるんですよね?」
「……何をしているか、までは俺には分かりかねます。
ただ、俺達従者に命じられたのは、結界の構築と部外者の排除」
――――従者。
その言葉の響きと仁の記憶の中が繋がったとき、目の前のこの男が、「会合」の際、泰影に帯同していた者であることを悟る。
「……貴方は、『土御門』の……!」
ともすると、「儀式」とやらを行っているのは――――。
繋がる点と点。
事実と予測を重ね、ようやくおぼろげながら見えてくる全容。
それを理解したのと同時、仁は全身に全霊力を充填する。
『儀式』とやらを行う場所を従者で守らせ、部外者の立ち入りを禁じている。
屋敷から消えた奏多と十二天将。
そして、結界に満ち満ちる濃密な圧力。
「……」
――――泰影は、『近衛奏多』で何かをしている。
「……通して下さい」
すると、目の前の陰陽師は片耳に開けられたピアスを弄りながら、静かに口角を上げる。
「部外者は排除するって、今言いましたよね?」
――――転瞬。
男の全身を眩い霊力が多い、そしてその手に結ばれる刀印。
それが意味するのは他でもない――――臨戦態勢。
そして。
仁を遙かに凌駕する霊力出力を発揮しながら、男は自身の式神の名を口にした。




