第209話『局限結界』
真っ白な世界に、仁は立っていた。
地面と中空の間が曖昧になってしまいそうな、そんな錯覚に陥りそうなほどの純白。
その寂光の最中で――――。
「……」
柊流局限結界、七小町〝寂光〟。
――――局限結界。
それは、戦闘のとある局面において、とある条件下でのみの発動を限定することにより、陰陽術及び発現事象の術式効果の底上げを図る結界術。
「限定的」という結界の特性上、時間的空間的な制約は受けるものの、その構築条件さえ満たしてしまえば、「限定的」な奇跡すら顕現させることが可能。
それは、相手の霊力出力や式神躁演の力量に依存しない。
――――そう。
それはある種、術者に有利に働く力場を創り出すのと、同義――――。
「っ――――」
不意に仁の身体に生じる違和感。
時間にして刹那。
しかし、自身の身に起きている異常を知覚するには十分すぎる時間だった。
――――『成神』の解放率が、低下している。
椿の「鬼人降魔」による術式効果により、右腕の『成神』は既に解除されていた。
しかし、明らかにそれだけではない要因に依る異常――――。
「っ……」
全身に充填される霊力、その供給が明らかに阻害されている。
『成神』の解放率に比例して、その霊力出力は上昇するが常。
だが、今や仁の全身はその神性を失い、顕わとなる普段着である黒色の衣服。
「……」
柊家相伝式神、十二天将『太陰』。
その発現事象は先に述べたとおり、『相対する術者、発現事象の強制解除及び無効化』。
霊力出力で仁に劣る椿は、その発現事象を発動させることが不可能。
それが故の、局限結界の構築。
――――『太陰』の術式効果を易化させたことによる、『成神』下における継続的な霊力供給の阻害。
つまり、『成神』の完全解除を目的とするのではなく、発現事象効果対象を『成神《・》』解放率に絞ることで、その強制力を盤石たるものにしている――――。
「……!」
唐突に。
仁の全身から吹き出す紅い鮮血。
重力のままに、身体から絶え間なく滴る自身の血潮へと視線を向けながら、周囲へと視線を彷徨わせる。
しかし、斬撃を放った術者の姿はおろか、霊力の残滓すらも感じ得ない。
「……」
――――仁の知っている局限結界、七小町〝寂光〟は。
元々一対多を想定し、眩い寂光が支配する空間に敵性勢力を誘う。
結界を発動した術者自身は、光にその身と霊力を溶け込ませ――――そして、寂光により感覚器官を鈍らせた対象を狩る。
局限結界に『太陰』の発現事象を付与することは、あの時の御琴もまだ叶わなかったこと。
「……」
『成神』解放率低下により、椿の『太陰』が発現事象発動の優先権をもっている。
加えて、いつどこから斬撃が放たれるか分からない現状――――。
まさしく、必殺。
式神に対する理解を深め、研鑽を重ねれば、間違いなく【終式】へと至る可能性を秘めた陰陽術。
その式神を振るうは、陰陽師の世界に足を踏み入れて数ヶ月の少年――――服部椿。
天賦の才はさることながら、その禍々しい生体光子。
憎悪や殺意を抑えるつもりなど毛頭無く、ただ怨敵である仁を殲滅することだけを目的として、陰陽術を行使する――――。
「……」
黛仁は、全身を寂光に包まれながら、静かに瞳を閉じた。
***
――――なぜ。
どうして、殺りきれない?
椿の視界の先――――結界の中心に佇む、血を滴らせた一人の少年。
『成神』解放率上昇の阻害により、発現事象の発動、そして霊力出力自体を押さえている。
対して、僕は斬撃を知覚させない空間で最大霊力出力を維持。
黛仁を確実に殺すためだけの、局限結界――――。
このままでは……。
「――――『局限結界』は、その発現事象や術式の効果対象を上昇させる以上、構築の上で時間的空間的な制約を有する」
「っ……」
「これだけの奇跡を顕現させるために、それなりの制約があるんだろ?
例えば……、結界の長時間の維持は不可能」
「――――!!」
「……分単位じゃ替えが効かない。
多分、もってあと十数秒」
――――っ!
黛仁の首筋に走らせる剣線。
そして、現段階の自身の成せる最大霊力出力。
――――しかし。
「――――どんだけ、お前が霊力出力において俺を凌駕していたとしても、致命傷となる斬撃を回避すればいい」
『太陰』の切っ先は宙を切り、そして椿の眼下には首筋からは擦ったと思われる鮮血が伝わらせながら、回避行動をとっている黛仁。
「っ――――」
――――斬撃はおろか、術者である僕の姿も知覚できていないはず。
なぜ――――。
「肉を切らせて、骨を断つ――――」
転瞬。
椿の学ランが、縦一文字に切り裂かかれ、それと同時に勢いよく溢れ出る紅血――――。
衝撃と激痛が全身に押し寄せる最中、霞む視界で捉えたのは――――黛仁の右手に握られた、一振りの日本刀。
「起動、『閃慧虎徹』」
「……っ!!」
眩い寂光が、次第にその明度を落とし――――やがて、崩壊を始める結界。
「っ……、うっ……ぐぅ……!!」
瓦解し、周囲の景色が修練場の最中へと変化していく中で、椿はその場にうずくまり、苦悶にその表情を歪ませる。
その様子を仁は、今しがた起動させた人造式神『閃慧虎徹』をその手に携え、静かに見下ろしていた。
***
透明なガラス越し、霊力が外部へと漏れ出ないようチューンされた修練場――――眼下で相対する二人の陰陽師を見つめるのは、羽織を肩にかけた一人の痩身の男。
「仁やり過ぎ……。
一体、誰の身体だと思ってんだか」
全身から鮮血を滴らせている黒色の少年を見ながら、土御門泰影はこれ見よがしに溜め息をついた。
仁の目の前には、既に霊力の充填すらおぼつかないほどの身体的ダメージを受け、その場に伏せている服部椿の姿。
――――椿の役割は伝えているのに……、どうもこうして上手くいかないものかね。
「ちょっと誰かー、椿回収してきてー」
泰影の声に反応するかのように、修練場内へと出てくる複数名の狩衣姿。
やがて応急処置を始めたのを横目に、泰影は様々な計器類が並ぶ室内を一瞥した。
「〝王〟は負けたのか?」
薄暗い部屋に響く声。
それに続き、こちらへと向かって来る足音。
「『演習』って言ったから、しぶしぶ許可したのに……。
どちらさんも血ィダラッダラ」
「……それも、予想できたことだろう」
次第に鮮明になるシルエット。
白衣に身を包んだその陰陽師は、やがて泰影の傍らにあるデスクチェアに腰を下ろし、懐から煙草を取り出した。
「……来栖先生、仁に『閃慧虎徹』渡してたんですね」
来栖先生と呼ばれた、バーバーカットにメガネをかけた白衣姿の男性は、ライターを取り出し火をつけ……さぞや美味しそうに煙を吐いた。
「……使うか使わないかは本人に委ねていたよ。
最も、あの陰陽師ならば使用せずとも、椿の局限結界は完封可能だったと思うが」
「まぁ……、それもそうですね」
柊流局限結界、七小町〝寂光〟。
十二天将術者であれば、既知の術故に対処法は頭に叩き込まれている。
一つ、斬撃が触れた瞬間の回避行動。
二つ、時間的な制約による結界持続維持限界を待つこと――――。
要は、結界が維持できなくなるその時まで回避し続ければ良い。
他でもない泰影自身も幼い頃からその術者を知っていたし、近くで見てきた。
今更恐れる類いの陰陽術でないことも、そして、それが生死に直結するものでないことも、全部――――知っている。
「……相手が悪かったね。
『太陰』の情報は、仁にほとんど筒抜け。
挙げ句の果てに、戦闘経験も天と地ほどの差があるときた」
「……」
来栖亮二は深く息を吸い、紫煙を宙へと吐き出す。
行き場のない煙は部屋の中を対流しだし、天井付近へと留まっている。
「……あと一ヶ月半。
我らが〝王〟は、本当に『熾光』へと至れるのか?」
泰影は、来栖亮二の吐き出した煙の行く末へと視線を向け、静かに笑みを作った。
「それに関しては心配していないですよ。
負の生体光子こそ、この世で最も強く制御が利かない。
椿もそれを分かっていて、身を委ねている」
「……子供の稚拙な感情を利用するか」
すると、泰影はさぞ面白可笑しそうに声を上げて笑い出す。
「何か、変なこと言ったかな」
小首を傾げる来栖亮二に対し、泰影は笑いを噛み殺しながら目尻に浮かんだ涙を拭った。
「いやぁ……、笑わせてもらいました。
貴方が、それを言うなんてね」
「……」
泰影の言葉に反応することもなく、来栖亮二は懐から再度二本目となる煙草を取り出した。
「ふぅ……それじゃ、俺は行きます。
来栖先生は引き続き――――『成神《・》』の最終調整を」
来栖亮二はそれに軽く手を振って応えたのも束の間、何か思い出したかのように泰影の方へと向き直り、静かに呟いた。
「――――引き金は?」
「……」
「当初の見立て通り、『狐』か?
それとも、『竜笛』を覚醒させた近衛の遺児か?」
「……」
――――また、この人は……。
俺が、今一番悩んでいることを。
「……これはある意味「賭け」です」
「……」
「――――仁と新太を、ぶつけます」
すると。
泰影の真意を理解したのか、来栖亮二は静かに溜め息を一つついた。
「その勝者こそが、現代最強の名を冠するに相応しい陰陽師、か」
「……」
泰影はそれに応えることなく沈黙を貫いたまま――――、今しがた修練場を後にしようとしている一人の少年の背中を見やった。




