第202話『葬送』
――――冷たい雨が降っていた。
それはまるで、戦禍に晒された新都を洗い流すかのように。
充満する血の匂いを掻き消すかのように。
ただ、陰陽師達の頭上にはいつまでも、鼠色の雲が鎮座していた。
あの戦闘から三日が経過し、清桜会はその被害状況の把握に奔走していた。
突如として襲来した『暁月』の本丸。
『三妖』――――妖狐『玉藻前』。
そして、『暁月』構成員、清桜会における厳戒対象、『狐』。
たった二匹の『狐』により清桜会新都支部が被った人的物的被害は、一地方防衛組織としての存続すら危ぶまれるほどの大打撃を与えることとなった。
『玉藻前』現界地点である新都北区屯田町杉嗎通りは半径200メートルの範囲が蒸発。
『狐』が奇襲した清桜会新都支部本部は、その大半が損壊。
指揮系統を新都第二支部でまかない、臨時で運用している現状。
加えて。
対『暁月』特殊殲滅部隊『北斗』が、壊滅的打撃を受けた確固たる事実――――。
第一星、速見幸村。
両腕損壊。
出血多量により意識不明の重体。
第二星、綿矢灯織。
内臓破裂、それに伴うショック性の出血多量により意識不明の重体。
第三星、工藤晴臣。
全身強打による粉砕骨折多数。
第四星、嵯峨野樹。
両足断裂。
出血多量により意識不明の重体。
第五星、美波有栖。
物理的外傷は無いものの、受け答えが不可能なほどの心因性の失語症を発症。
第六星、明智流星。
『制御破壊』発動による、全身負荷で全身神経系断裂。
それに伴う、ショック死。
そして。
『北斗』の中で唯一と言っていい無傷の陰陽師。
第七星、鷹場真幌。
外的内的損害皆無、既に現場に出撃。
『暁月』に対抗しうる存在として、日本中から戦果が期待されていた彼ら彼女ら。
最早盤石と思われたその地位が、瓦解するのは一瞬だった。
新世代の〝王〟として、君臨することが約束された者達の速すぎる栄枯盛衰。
このまま立ちゆかなく未来を見据え、清桜会の中にも「『暁月』との共存」を叫ぶ者も出てくる始末。
――――そう。
決断を迫られる刻は、すぐそこまで来ている。
このまま「新型」の滅びを待つだけとなるのか。
それとも、起死回生の一手に出るのか。
はたまた今の清桜会陣営に、それが可能なのか――――。
清桜会東京本部で繰り返される、終着点の見えない不毛な議論。
その行く末に在るモノ。
それに意味などないというのに。
***
[10月25日(金) 新都西区都民体育館 14:33]
灰色の空の下。
しとしとと降り続く雨に打たれながら、肩に落ちる雫を拭うこともなく、ただ新太は歩みを進めていた。
その場所へと辿り着き、中へと入ろうとした矢先。
涙を流し、嗚咽を漏らす親子とすれ違った。
この人たちは既に目的を達したのだろう。
足取りも重く、名残惜しそうに何度も何度も振り返りながら帰路へとついていく。
「……」
それを見送りながら、新太は軽く息を吸い、先を急いだ。
灯りが点在する廊下を歩みを進めた、その最奥――――薄暗い小規模な体育館のステージに設けられた、献花台。
他でもない、それは22日の災禍で犠牲になった人達を弔うものだった。
体育館の中は、誰かのすすり泣く声や、もの悲しげな雰囲気で満ち満ちている。
「……」
新太は目的の人物の姿を探すべく周囲へと視線を巡らした。
実に数日ぶりの邂逅。
話を聞く限り、目的の人物はずっとここに足を運んでいることを、新太は人づてに聞いていた。
そして、一人の少女の姿をその視界に捉える。
体育館の端の方、壁にもたれ掛かるように立っているその少女は、腕を組みながら静かに瞳を閉じていた。
「――――京香」
「……」
全身に生傷を携え、頬に張られたガーゼが痛々しい。
京香は『狐』こと黛仁を相手取り、そして――――逃走を許したと聞いた。
その心中を想像することは、難くない。
「……」
新太の声が聞こえているのか、いないのか、反応がない。
場の雰囲気も相まって、大声など出せそうもない現状。
一瞬の逡巡の後、新太はゆっくりと京香の方へと歩みを進め始める。
「京香」
「……」
京香の瞳が、ゆっくりと開かれる――――。
「――――『破吏魔』に招集命令がかかってた」
「……え?」
「明日の16:00、場所は泉堂学園」
「……」
「……清桜会の、今後の身の振り方でも話し合うんじゃない?」
「……うん」
「……」
「……」
それから、二人の間を無言が支配する。
後に残るのは、体育館内にいる人のすすり泣く声――――。
「――――ごめん」
「……」
「父さんが死んだのは、俺のせいだ」
「……」
『至聖』、古賀宗一郎の殉職。
それは、清桜会に大きな衝撃を与えた。
『象徴』としての、『至聖』。
それが破れ、一つの結果として命を散らせた。
「父さんは……、俺を守って死んだ。
俺の独断が、父さんを死なせた」
「……」
「全ての責任は、俺にある。
だから――――」
ごめん。
ただそれだけ。
それだけしか、俺に言える言葉が見つからなかった。
「……」
「……」
「……」
「――――新太」
声に促されるままに、ゆっくりと顔を上げると、瞳を開いて俺を真っ直ぐに見据える京香の姿。
「『ありがとう』って、言われた」
「……?」
献花台にすがりつきながら、故人への思いの丈を泣き叫んでいる女性を横目に、京香は静かに言葉を紡ぐ。
「さっきまでここにいた親子連れ。
……三歳くらいかな。
小さな男の子」
「……」
「泉堂学園の制服着てたし、ボロボロだったから陰陽師だって気付いたんだって。
お母さんが言ってた」
京香は、諦観に満ちた笑みと共に呟く。
「私は、――――何も言えなかった」
――――。
理由を聞くまでもない。
傍らに広がるこの光景が、全てを物語っている。
「……父さんは、最期まで父さんだったんだね」
「……京香」
「それが分かっただけでも……、良かった。
教えてくれて、ありがと」
そう言いながら、京香は踵を返す。
「っ……!!
待って……!
父さんは俺のせいでっ!!」
「責めて欲しいの?」
「……!」
明後日の方を向きながら、ただ淡々と言葉を紡ぐ京香。
何を考えているのか、その表情は伺いしれない。
「アンタのせいだ、アンタのせいで父さんは死んだんだ、そう、責めればいいの?」
「……」
「別に、私は……怒ってない」
再度こちらを向く京香。
その口には寂しげな笑みが浮かんでいた。
「『新太を守るべきだ』、そう、父さんは思ったんだよ」
「……」
「誰かを守る事が、父さんの陰陽師としての存在意義。
ただそれを、最期まで実行した。
それだけのことよ」
「っ……でも!!」
「新太」
「……!」
「――――古賀宗一郎を。
私の父を、『父さん』って呼んでくれて、ありがとね」
――――どこまでも優しい。
慈愛に満ちた笑顔。
その笑顔を見て、俺はもう何も言えなかった。
言うべき言葉が、見つからなかった。
そして。
京香は俺の言葉を待つこともなく、静かに歩き出す。
「……」
その後ろ姿に、俺はただ見つめることしか出来なかった。
***
ガラスの割れた窓の外では、秋雨が降り注いでいた。
「……っ」
脈拍に合わせ、全身を激痛が襲う。
先日の戦闘の弊害。
それが如実に仁の肉体に顕在化していた。
《……無理をしすぎだ》
傍らには真っ白な毛並みを輝かせ、幻想的な光を全身から放っている一匹の狐。
汚れたベッドの上で歯を食いしばる一人の少年を、物憂げな瞳を以て見下ろす。
《『竜笛』の覚醒。
……「新太」はやはり、「奏多」か》
「……」
それを聞き、僅かながら仁の苦悶の表情が和らぐ。
《お前がどちらを選ぶかは、ただの式神である私には関係が無い。
お前の判断に従うまで》
「……」
《――――これで、いいんだな?》
その問いに、仁はそっぽを向き、天から視線を逸らす。
――――今は結論を出すことを放棄したかった。
鈍い痛みにその身を委ねていたかった。
自分が、どうしたいか。
その答えすら今はもう――――。
《……》
転瞬。
こちらへと向かって来る誰かの気配を察知したのか、壊れたドアの方を一瞥し、天の姿が微粒子となって立ち消える。
廊下を響く足音。
そして数刻を待たずして、その人物が部屋へとその姿を見せる。
「――――やあ、大事ないかい?
仁」
「……」
似せ紫色の着物を纏い、軽薄そうな口調で仁に声をかける一人の青年。
土御門泰影。
「『玉藻』の養生もあと少しだってさ。
明日には全快らしい」
微笑を口に携え、入り口付近の汚れた壁に寄っかかるようにして立つ泰影。
「――――前に話したとおり。
今晩には手筈を整え、明日の夕刻には宣戦布告だ」
「……」
仁の全身を、再度激痛が襲い始める。
いつまでも続くような、そんな錯覚に陥る鈍痛に、仁は歯を思い切り噛みしめた。
「もうすぐ、我々の時代が再びやって来る。
君にはその立役者になってもらうよ。
『近衛』はどうしても必要だからね」
泰影は静かに息を吸い、そして――――口の端を歪める。
「御琴ちゃんのためにも、ね」
***
ただ何となく、無気力に雨の中を歩いた。
擦れ違う人の数もまばら――――。
今年に入り幾度となく戦禍に晒されている新都を後にしようとしている人も多いと聞いた。
いつどこでまた、身の危険が及ぶか分からない。
そんな状況の中で住み続けるのは、よほどの物好きだろう。
人口の流出は避けられない、という報道を朝方新太は目にしたばかりだった。
「……」
昨日の晩から降り続いた雨も、夕暮れとともになりを潜める。
ここに着いた時には既に雨足はほどほどに。
小雨と言っていいくらいにまで弱まっていた。
慣れ親しんだ木造の扉を開けると、湿ったような、どことなくカビ臭い匂いが立ち込めている。
雫の滴る音が空間内にただ残響として遺る。
――――古賀の道場。
壁には色褪せた札が並べられていて門下生の名が刻まれている。
「古賀京香」。
師範代、「古賀宗一郎」。
その中にはもちろん――――「宮本新太」の名も。
「……」
誰もいない、暗い道場の中心。
かつて自身が身を置いた場所へと想いを馳せる――――。
『抜き身が甘い』
『がべっ!!』
体勢を崩され、顔面から思い切り硬い床に突っ込む。
鋭い痛みに『〜〜〜!』と悶絶していると、差し伸べられる畳まれたタオル。
『……大丈夫か』
傍らには口の端に笑みを携えながら、まだ白髪も無い頃の父親の姿。
『くそ……、いい感じだったんだけどな……』
『まだまださ。
しかし、力の使い方はなかなか様になってきている。
修練あるのみ、だな』
『……』
ただぶすくれることしかできない俺を、父さんは面白可笑しそうに一瞥し、笑っていた。
まだ中学にも上がっていない、遥か遠い昔の記憶。
そこには紛れもない親子の姿――――。
「……」
名残惜しい気持ちを道場内に置き去りにして、俺は木造の引き戸を、閉めた。
古賀の家に顔を出すのは久々だった。
どこか寂しげな空気感が漂う広い屋敷の中には電気が灯っていて、既に京香は戻ってきているようだった。
長い縁側を抜け――――。
誰もいない居間を横目に、久方ぶりに自分の自室へと向かおうと、二階へと続く階段へと足を進める。
「……」
軋む階段を上りきり、右手の方に俺と京香の部屋がある。
そちらへ一歩目を踏み出した時だった。
「……父……さん」
「……っ」
微かに廊下に響き渡る、すすり泣く声。
俺の部屋の隣、それは即ち京香の――――。
「……」
灯りのついていない漆黒の中で、ただ悲痛に震える声を静かに俺は聞いていた。
「父……さん……。
どう……して……」
京香は、強い。
「古賀」を継ぐ者として、次代の当主として。
ずっと、ずっと俺同様に父親の背中を追っていた。
陰陽師としての「在り方」も、俺よりもずっと幼い頃から見てきた。
弱きを助け、強きをくじく。
「古賀京香」は、誰よりもその哲学を胸に刻んできた――――。
『お前は、俺の息子だよ。
――――新太』
不意に。
脳裏に響く、あの時の父さんの声――――。
それと同時に蘇る、数多の記憶。
「っ――――」
自然と込み上げてくる、何か。
それを拭うことはしなかった。
絶え間なく零れ落ちる涙は、現在進行形で廊下の床に数滴の染みを作る。
血は繋がってこそいない。
それでも……あの人は、「古賀宗一郎」は、紛れもない俺の「父親」だった。
俺は、それを拒絶しようとした。
それでも、父さんは「新太」の名を呼んだ――――。
「っ――――」
死んだ人間は、回帰しない。
残された人間は、ただ後悔と悔恨をその胸に残しながら、生きていくしかない――――。
拳を固く握りしめ、溢れ出るモノを堪えようとするが……あまり意味はないように思われた。
「――――父さん」
失ってしまった大切な人を想い、ただその名を呟く。
新太も、京香も、ただそうすることしか喪失の痛みに耐える術がなかった。
姉の涙で、否が応でも実感してしまう。
俺達姉弟は、「父」を失ったのだと。




