第196話『アオノカクゴ』
父さんは、昔から優しくて。
陰陽師として、たくさんの人を助けていた。
ある日、俺と同じくらいの年の男の子が母親と共に家を訪ねてきた。
話を聞くに、父さんに助けられたお礼に来たらしかった。
顔を真っ赤にしながら興奮した様子で、その男の子が口にしたのは。
感謝の言葉と、一つの決意―――――。
僕も陰陽師になると。
それを聞き、父さんは困ったように苦笑し、男の子の頭を撫でた。
もう忘却の彼方を彷徨う、おぼろげな記憶。
しかし。
それを見て、俺も憧れを抱いた。
父さんのようになりたい。
たくさんの人を助ける、そんな陰陽師になりたい。
今思えば、それは原体験のようなものだったのだと思う。
あまりにも幼くて、稚拙な願い。
でも、それは俺のやるべきことじゃない。
俺の願いで、傷つく人がいる―――――。
大切なものを失ってしまう人がいる。
向こうの世界で、俺はそれを知った。
そもそも俺は、宮本新太ではなかった。
宮本新太なんて、最初からいなかった。
俺は―――――近衛奏多。
近衛奏多として何をするべきか、ただ、それだけを考えた。
何が正しいのか。
俺が何をするべきなのか。
もう、分からない。
ただ、一つ。
紛れもない一つの事実。
それは。
父さんは最後に、「俺」を助けたということ―――――。
***
同刻、清桜会新都支部前。
目の前の光景に、ただ来栖まゆりは息を呑む―――――。
宙を舞う『狐』。
全身が氷で包まれた体はその制御を失い、やがて自由落下を始める。
古賀京香の「氷結」の前に、『狐』はただ、隷属する。
―――――『碧天乃虎、青白磁』【終式】、『初雪起』。
先に見せた『氷柱華』のような広範囲に及ぶ氷結ではなく、敢えてそれを限定することにより、効果範囲内の氷結現象の底上げを図った。
血液、体組織、細胞の一つ一つに至るまで、その動きを停止させる―――――まさに一撃必殺。
現段階において紛れもない、全力全開の【終式】。
まゆりは、『狐』と古賀京香の関係性を知っていた。
だからこそ、目の前の光景が信じられなかった。
「殺す」ことも厭わない、古賀京香の覚悟―――――。
「古賀先輩……」
まゆりはただ、肩で息をしている京香の後姿を眺めていた。
「っ……京香様っ!!」
突如として辺りに響き渡る、まほちゃん先輩の嬌声。
指さす方向には、上空からの落下を続ける『狐』。
その氷漬けの『狐』の体が、動きを止めた。
それと同時に爆発的に増幅していく霊力の反応―――――。
「っ……」
―――――嘘。
やがて中空で罅が入り―――――割れる氷。
そして、その中から。
《……》
全身を真っ白に染めた『狐』がこともなげに、その姿を現す。
ゆっくりとその高度を落としながら、やがて地面へと降り立つのを、その場にいる者全員が信じられない心持ちで見ていた。
《……》
「……アンタ、本当に人間?」
脂汗を浮かべながら、静かに呟く古賀先輩。
すると、『狐』はそれに答えるかのように、霊力出力を更に上昇させる。
もしかしたら。
古賀先輩は気づいていたのかもしれない。
だからこそ、「殺す」つもりで【終式】を発動した。
ウチたちが相手取っているのは、そのレベルの相手だということ。
上昇を続ける霊力出力。
一体、どこまで上昇を続けるのかと思った矢先。
「「「「っ―――――!!!」」」」
『狐』の身を纏う霊力が、急激にその質を変える。
何倍、何十倍、いやそんな指標では測れないほどに先ほどまでとは別次元の霊力が溢れ出す――――。
―――――一体、何。
ウチたちは、一体何と闘っているの?
頭ではなく本能が訴えかけている。
アレと、闘うなと。
「―――――成、神」
《……》
「アンタ、まさか……本当に、神とでも……」
―――――アレと闘っちゃダメ。
アレは七月二十日と同じ。
あの鎧の妖と同じ類のもの。
立ち向かうものじゃない。
逆らっては命がいくつあっても足りない。
「……!」
歯の根が、音を立てて震える。
式神すら、手放してしまいそうなほど――――。
「――――ここまで、ですね」
「……!!」
そう言いながら、前方へ歩みを進める支部長。
そして、その場の全員に聞こえる声で、「全員、退却」と言い放った。
「……!!」
「……私が闘ります。
貴方達は安全な場所へと逃げて下さい」
「……っ!!
無謀です!!!
支部長だって分かっているんでしょ!!?
アレはウチ達が知っている『狐』じゃないっ!!」
「……どっちみち、私達が全滅するのならば、新都は終わりです。
それならば、被害は最小限に食い止めた方が良い」
「でもっ!!!」
「まゆり」
「っ……!」
支部長はゆっくりと振り返り、そして静かに呟く。
「――――アタシが死んだら、皆が敵をとってね」
そう、微笑んだ。
「……支部長、ダメです……!」
「……」
古賀先輩の制止を遮り、最前線へ躍り出る支部長。
その姿は、どこまでも凜としていて。
これ以上、佐伯を止める声を発することが、まゆりにはできなかった。
「――――私です。
指揮系統を東京本部に完全委譲。
現作戦行動を行っている陰陽師の全面的なバックアップをお願いします。
はい、後のことは――――――え?」
インカムに向かって言葉を呟いたのも束の間、佐伯夏鈴の声音が変わる。
それは彼女に似つかわしくない、動揺を前面に押し出したような、そんな悲痛な声色。
「何を、言って……、そんな、そんなことがあるはずが……!!
……いえ、それはダメです。絶対にダメ……!
一般人の避難を最優先、交戦をしてはダメ!!!」
通信を切ったのか、その言葉を最後に支部長の手がインカムから離れた。
「……支部長?」
呆然といった様子の支部長に恐る恐る言葉をかける、まほちゃん先輩。
しばしの間、言葉を失っていたが、やがてその身に霊力が充填される。
「……広域探査部から、伝達事項。
敵勢力と交戦していた仮設第一部隊、指揮系統完全崩壊。
隊員の――――消息、不明」
――――仮設第一部隊。
それは、新太さんの――――。
「黛、仁っ……!!
何で、何でオマエらはこんなことを!!!」
拳を握りながら、激情に滾る支部長の叫びを、まゆりはどこか違う世界のように傍観していた。
―――――消息不明。
新太さんが?
そんなわけ、ない。
「っ――――!!」
気付いたらウチは。
明後日の方向へ、走り出していた。
「っ――――まゆりちゃんっ!!」
「……真幌。
まゆりの後を、追って下さい」
佐伯の手には自身の得物、『骨喰』。
既に『末那識』を発動しているのか、その身体には、暴力的な霊力が充填され眼前の怨敵を見据えている。
「で、でもっ……!!」
「これは命令です。
決して、まゆりを対象と交戦させないでください。
……お願いします」
「……!!」
躊躇うような素振りを見せながらも、一瞬の逡巡の後――――。
「……はいっ!!」と返事を残し、真幌はまゆりの後を追う。
「……京香。
貴方も、退却です」
佐伯が語りかけるのは、自身の隣に立つ一人の少女。
再度その身に霊力を充填し、とてもじゃないが退却の意志を感じないその偉容に、佐伯は軽くため息をついた。
「……支部長。
先行権は、まだ私に有りますか?」
「――――残念でしたね」
佐伯の口の端には、諦めにも近い笑みが浮かんでいた。
「今度ばかりは、――――私が先行権を貰います」




