……いない。
今日の昼間のこと。
雑誌の特集で載せるレストランに原稿のチェックしてもらっている間に見ていたブログには、消臭芳香剤で徐霊ができると書いてあった。
こんなので簡単にできるのかと信じられない気分になったが、試してみる価値はある。
会社帰り。陽真はバスから降りると、早速まだ開いてたスーパーに寄り、前にいっぺんだけ買ったことがある消臭芳香剤を買った。
アパートに到着し、玄関前で意気揚々と通勤カバンから出す。
「はるくん、おかえりぃ」
さくらが中から玄関ドアを開け、顔を出した。いつもの能天気なキャピキャピ声。
いまだ。
陽真はさくらに向けて消臭芳香剤のノズルを構えた。
「観念して成仏し……!」
なにげにさくらの手元に目が行く。
さくらは、同じメーカーの消臭芳香剤を手にしていた。
「……え?」
「どうしたのはるくん。消臭剤、買ってきてくれたの?」
さくらが目の前に向けられたノズルをじろじろと見る。
前に買った同じ消臭芳香剤は、一回しか使わないままどこかに入れっ放しにしていたが、それだろうか。
「アパートの部屋だと、けっこう使うんだよね。部屋の通気性が悪いから、匂い籠っちゃうっていうか」
言いながら、水回りのあちこちにシュッ、シュッ、シュと吹きかける。
まっっったく効いてねえじゃねえか。四百三十八円返せコラ。
陽真は、上がり框に膝をついて俯いた。
「はるくん、ちょっと待ってね。いまお夕飯にするから」
シュッ、シュッ、シュッと吹きかけながら、さくらが言う。
消臭芳香剤のほのかないい匂いが水場に漂った。
何なんだ、こいつ。どんな構造した幽霊だ。
やはり俺は、こいつに取り殺されて地獄だか煉獄だかゲヘナだか知らんけど引きずり落とされて鬼に煮物にされるのか。
陽真はそのままズルズルと床に突っ伏した。
「はるくん、そんなところで寝ちゃダメだってば。ちゃんとお布団入って寝なさい」
シュッ、シュッ、シュッとさくらがまた消臭芳香剤を空中に散布した。
会社帰り。バスのステップを降り、アパート近くの駐車場で陽真は立ち止まった。
満開の桜の樹のそばで、ふぅと息を吐く。
足が重い。
帰宅すればまたあのキャピキャピ声に出迎えられ、鳥肌が立ちっぱなしの夜を過ごすのだ。
最悪、引っ越すことも考えていたが、部屋に憑いている訳ではないと分かり絶望した。
友人に泊めてもらったとしても、そちらまで付いて来るかもしれないのか。
やはり霊能力者に頼むしか無いのか。そう考えて眉をよせる。ぶっちゃけああいうのはインチキしかいないというイメージがある。
玄関前にたどり着く。
陽真は深呼吸をした。
昼間、仕事の合間にトイレでスマホをググったところ、幽霊には強気が一番と書いてあるブログを見つけた。
こちらの怖がる様子がつけ入る隙を与えていたのだろうか。
これで上手く追い出せれば儲けものだ。
象牙色の玄関ドアの前で、陽真は心臓を押さえた。
二、三度ほど深呼吸をしてから、勢いよく玄関のドアを引く。
あれ、と思った。
さくらがすでに中から開けたものだと思っていたのだが、珍しく鍵がかけられたままだ。
改めて通勤カバンから鍵を出して解錠する。
ドアを開けた。
「おいこら、さくら! お前なんか怖くねぇぞ、出てけ!」
思い切り大きな声を張り上げる。
隣からドンドンと壁を叩く音がした。
「すいません」
取りあえずそう返す。
入ってすぐの台所で、さくらが振り向くのを想像していた。
だが。
なぜ真っ暗なのか。
いつもはさくらが室内の電気をつけているので、玄関のドアを開けてすぐにあるのは照明のついた台所だった。
今日は、明かりかどこもついていない。
不可解に思いながらも、照明のスイッチを手探りでさがす。
ここに越して来てからずっとさくらがいたので、帰宅時に自身で照明をつけたのは初めてだと気づいた。
チカチカと数回ほどまたたいて明かりがつく。
玄関扉を大きく開け放したまま、陽真は台所と奥の六畳間を見渡した。
いない。
三和土で靴を脱ぎ、上がり框に上がる。
台所の向かい側の風呂場を覗くが、やはりいない。
部屋の奥か、とズカズカと六畳間に入る。
部屋中を見回したが、さくらの姿はなかった。
拍子抜けして通勤カバンを放り投げるように置く。
カバンを受け取りにさくらが現れるのではないかと、台所と六畳間を隔てる引戸を見た。
……いない。
いきなり怒鳴ったからビビッたのか。
そんな風に考えながらネクタイを緩める。
だがよくよく考えてみれば、日常的に怒鳴っていなかったか。今さらだろうと思いながらネクタイを外す。
どこに掛けるんだっけと思い室内を見回した。
長押に掛けてあるハンガーをとり、雑に掛ける。
どうせそこら辺から出て来るんだろと、天井やら押し入れの戸の隙間やらを横目で見た。
押し入れの中に潜み、幽霊らしく不気味に迫ろうとするさくらを想像する。
とうとう正体を現しやがったなと根拠もなく断定してみた。
「怖くねぇぞ、ふざけんな!」
押し入れの戸を勢いよく開ける。
誰もいない。
毎晩使っている布団一式が、ていねいに折りたたまれて収納されているだけだった。