「うちのはるくんが、すみませぇん」
「運転手さん、んじゃここで」
「いくら? あとで温崎さんに請求しよ」
陽真は、腹のあたりを誰かの腕でグッと押されて、車から引きずり下ろされる感覚を察知していた。
車のドアを閉める音がする。
自分の横で短いやり取りをしている男女の声が聞こえる。
状況がよく分からんので身の危険を感じないこともないのだが、ものすごく眠い。
ここでたとえ殺されることになったとしても、睡魔の方に傾きそうだ。
「あ、ここのアパート?」
男の声がする。同僚の春日の声に似てる気もするが、眠いのでどうでもいい。
「最近、引っ越したって言ってて。アパートの名前、聞いてて良かった」
「独り暮らしだとこういうときヤバいよね。鍵は? ポケットかな」
続けて聞こえたのは営業の梅田か。スラックスのポケットのあたりを探られる。
よその会社で他人の素性言いふらしてやがんのお前だろと言いたかったが、眠い。
「あ、大丈夫。温崎さん、同棲してる彼女いる」
これは立花の声。
余計なこと言うな、てめえ。
あれは彼女じゃなくて俺に取り憑いて呪い殺そうとしてる幽霊だ。
ガセ流しやがって。
ふぅ、と陽真は息をついた。文句を言いたいが眠い。
「あ、目ぇ覚めたかな」
立花の声。
「じゃあ、あとは彼女さんにお渡しすればいい感じ?」
「じゃね?」
男二人が両脇で話す。
なに人のことを宅急便のお荷物みたいに言ってんだ。
だが眠い。
久しぶりにさくらから解放されて酒飲んで、安心したらむちゃくちゃ眠い。
このまま会社に戻って仮眠用の布団で寝ようと思ってたんだが。
ここどこだ。
ピンポーンと呼び鈴の音がする。
うちの呼び鈴っぽい音だ。
「はい」と陽真は返事をしたが、声がはっきりと出ずに唸り声のような感じになった。
「温崎さーん。アパート帰って来ましたよぉ。分かります?」
立花の声がする。
「はぁい」
さくらの声。
ドアが開く音がした。
なに不用意にドア開けとんじゃ。同棲してると勘違いされるだろうがと文句を言いたいが。
眠くて動けん。
「えと、彼女さん?」
立花が問う。
「はるくん」
耳元でさくらの声がする。
「うちのはるくんが、すみませぇん」
さくらがそう言った。
誰がお前ん家のだ。なにを嫁みたいな感じで言ってんだこいつ。
「出てけこら……悪霊め」
玄関口の上がり框に崩れるように座りこみ、陽真はつぶやいた。
「ゆうれいたいさん……」
なんとなくそう呟いて、自分でネクタイを弛める。
「みる……」
「ん? ん? なにを見るの? はるくん」
さくらが目の前にしゃがむ。
「だからみる……」
「ちゃんとはるくんを見てるよ?」
「みるだって……」
「水?」
「あの、あと置いて行って大丈夫ですか?」
立花が屈んで玄関口から覗く。
「あっ。大丈夫です。うちのはるくんを運んでくださってありがとうございました」
さくらがぺこぺことお辞儀する。
「いや、お酒はそんなに飲んでないんですけど。温崎さん、けっこう強いですし。なんかめちゃくちゃ眠いらしくて」
「ありがとうございます。ご迷惑おかけしました」
さくらがさらにぺこぺことお辞儀する。
「あ、タクシー代。いくらでした?」
「コメツキバッタかお前。いいから水」
言いながら陽真は玄関の壁に背をあずけ、すぅっと眠ってしまった。
「ちゃんとお布団で寝よ? はるくん」
さくらに水を飲まされて目が覚める。
どこだここと陽真は思ったが、ぼんやりと自分のアパートの玄関付近と気づいた。
今日はせっかく幽霊から逃れて朝までゆっくり眠ろうと思ったのに、連れ戻されてしまったか。
「お前の呪いか……」
「なに言ってんの? はるくん。お布団敷いたから立って」
さくらが立ち上がって腕を引っ張る。
「ほら立って」
「……倒れた人間運ぶときは、後ろから両脇に手ぇ差しこむと腕力なくても簡単なんだとさ」
陽真は、他人事のようにつぶやいた。
さくらがもう一度かがむ。
陽真と壁の間に手を差しこみ、壁から引き離そうとした。
なんとなく陽真は壁に背中を押しつけ抵抗する。
「はるくん、なんで壁から離れないの。運ぶから離れなさい」
「うるせえ。ここで寝る」
陽真は、背中を壁にグッと押しつけた。
「なに子供みたいなことしてんの。風邪ひいちゃうでしょ」
「前はときどき風邪ぎみ上等だったのに今は全然ないとか、何の呪いだてめえ」
「意味わかんないこと言わないの。風邪ひかないのはいいことでしょ」
「寝る」
陽真は、そのまま玄関の床で横になった。
「もーう、はるくん、ちゃんとお布団で寝なさい」
本当に真夜中も出没してんのな、こいつと陽真は思った。何でこのアパートにいるんだか。
「はるくん、はるくん!」
さくらが身体を揺する。
ややしてから、「もうっ」と溜め息をついて立ち上がった。
さくらの足音がしばらく行き来したかと思うと、毛布と思われるものが身体に被せられる。
「勝った」と、根拠はないが陽真は思った。