さくらと出逢ってから、こう思ったのは何回めだ。
アパートに帰ると、さくらは風呂を掃除していたところだったらしい。
風呂の掃除用のスポンジを手に玄関で出迎えた。
「……鍵持ってんだから、何かやってたならわざわざ出迎えなくていいし」
「はるくんが帰ってきたんだもん」
さくらがにっこりと笑う。
「お前の親父さん、実家の方に来たって」
ネクタイを緩めながら通勤カバンを置こうとしたが、さくらが手を出したので手渡した。
「なんではるくんの実家さん?」
目を丸くしているさくらの顔を見る。
清水はこれは伝えてなかったのか。
何を企んでるんだか。
「フランチャイズ契約の住所があっちになってたから、俺があっちに住んでると思ったんだろうな」
「やだもう、はるくんの家にご迷惑かけて」
「ご迷惑はお前だろ」
陽真は、ネクタイを外した。
さくらがさらに目を丸くする。
「とりあえず、いったん家帰って親父さんに全部説明しろ。親と喧嘩して泊めてくれそうなところに籠城とか、高校生じゃないんだから」
さくらが唇を尖らせている。
「幽霊みたいな感じでとつぜん俺の部屋にいて、夢だと思って過ごしてたとか、全部。量子力学とか、そっちならそういうの説明できんだろ?」
「まだ立証されてないもん」
さくらが頬を膨らます。
「……あそ」
「それに、お父さん量子力学よく分かんないし」
それで何でこんな娘が生まれてるんだかな。母親が天才物理学者とかだったのか。
「分かんなくても説明しろ。ともかくだんまりで逃亡しても何も解決しないし。一生籠城してる気か」
さくらが無言で唇を尖らせる。
「……分かった。俺も一緒に行って説明してやるから」
陽真はそう提案した。
人のこと子供みたいとか言っておいて、自分の方がぜんぜん子供じゃねえかと思う。
相変わらず唇を尖らせているさくらの顔を見下ろす。
こちらにしてみたら、親父さんとの喧嘩の内容も結構くだらねえと思うんだが。
不意に。
さくらの尖らせた唇に、目が吸いこまれた。
無意識に顔をかたむける。
気がつくと、さくらに口づけていた。
柔らかい唇の感触で我に返る。何してんだ俺はと思ったがそのまま唇を押しつけてしまった。
何してんだ俺。
さくらと会ってから、こう思ったのは何回めだ。
「え……ぅわ」
さくらが後ずさる。
風呂場の横の壁にぴったりと背中を張り付かせて、両手で口をおおった。
うわやば何してんだと思ったが、さくらの記憶を消せるわけじゃない。
「や……えと。気にすんな。初キスってわけじゃないだろ?」
陽真はわずかに後ずさりながら苦笑いした。
「初キスだもん」
さくらが答える。
まじか。
ほぼ一世代近く違うのだ。今どきは高校生くらいからもうちょっと経験してるのかと思ってた。
「あ──近所の犬にでも舐められたと思ってノーカンに」
「はるくんと初キスしちゃった……」
さくらが両手で口をおさえたまま俯く。
「いやノーカンにしろよ。せっかくだから」
「とうぶん唇洗えない……」
「洗え。顔洗うときに一緒に」
さくらが黙りこむ。何か知らんが余韻にひたり始めたのか。
「清水さんにもご報告した方がいいのかな……」
「するな。冗談だろ」
「はるくん、好き」
さくらが感極まったように顔を両手でおおってさらに俯いた。
「さくらさんに」
ガシャッと陽真は手にしたカクテルをカウンターのテーブルに倒した。
ほとんど飲み干していたから良かったようなものの、グラスの中にあった氷がこぼれた。
おんざきコーポレーション系列のイタリア風バー。
蝋燭を模した明かりがカウンターをオレンジ色に照らしている。
「何してるんです」
清水は眉をよせた。
見習いのバーテンダーが即座にテーブル拭きを手に横に来る。手際よくテーブルを拭いた。
「さ、さくらに何」
「お父さまがいらしていたことはお話なさいましたかと」
それか。
まじでさくらがこいつに報告したんだと思った。
「カミカゼをもう一杯」
清水がこちらを指し注文する。
「さくらの親父さんのことは、お前が話したんだと思ってた」
「わたしが話すと迷惑をかけたと気を使わせてしまいますから。陽真さんがそれとなく言ってくださるならと思っていたのですが」
「それとなくどころか、はっきり迷惑だと言った」
横にカクテルが置かれる。
陽真は口にした。
「いつもそんな風なんですか」
清水が氷を鳴らす。
「こんなもんだよ。女に気も使えない唐変木だから、いい加減に結婚話を勝手に進めるとかやめろ」




