ジャブのようなローキックを入れて来やがる。
夕べは地獄の夜だった。
晴峯 桃香は「お布団を敷いてくる」と言ったものの、統真のあのアパートに客用の布団は一組しかなかった。
仮にも弟がいる前で統真と晴峯は同衾するわけにもいかず、客用の布団はテーブルのあった部屋に敷き直して晴峯が使った。
寝室に一組だけ敷かれた布団で、男二人で極めて窮屈な思いをしながら寝た。
統真が、一晩合計で十二回ほど蹴って来やがった。
一回蹴られるごとに倍にして返すと、そのつど統真が起き上がりシャツの胸ぐらをつかんでくる。
やつのパジャマの襟をお返しにつかむと、座った体勢でジャブのようなローキックを入れて来やがる。
一晩に何度もローキックの応酬になった。
時おり物音を聞きつけて晴峯が来ては「仲がいいんですね」とクスッと笑って去る。
やっぱりあの女、理解できない。
おかげでほとんど寝てない。
通勤バスから降り、陽真は会社に向かった。
出版社というと、むかしは徹夜上等の業界だったそうだが、今は労働基準法に問われるので基本的にそういうのはあまりない。
労働時間がうるさく言われる時代になり始めたころには、会社の近所の住人が、一晩中会社の明かりがついているのを見て労働監督署に問い合わせしたりしたそうだ。
むかしの名残りで社内に仮眠用の布団が置いてあったりするが、今では使う人は滅多にいない。
なので、徹夜などそうそう慣れているわけではない。
昼休みに仮眠とるか、と思いながら会社までの道を歩く。
営業の人間はいいよな、営業回りの合間に車ん中とかで適当に昼寝してんだからなと思う。
強者になると、美術館なんかの庭の爽やかな芝生の上でゴロ寝してくるらしい。
すっ、と目の前に青いハンカチに包まれた箱が差し出される。
陽真は眉をひそめた。
清水だ。
さくらがいつも弁当を包むのに使ってる青いハンカチ。中身は弁当と思って間違いないだろう。
何が言いたいのか、微笑している。
「統真さんとは夕べは仲良くできましたか?」
「あんた……」
陽真は目を眇めた。
「昼間も動けるんだな」
「吸血鬼ではないんですから」
清水がクスクスと笑う。
「昼間はお父さまに付いていることが多いので、どうしても外回りの用事というと夕方以降が多いですが」
「親父、元気?」
もう数年は顔を合わせていない。親近感もないので本音からどうでもいいんだが。
「お元気ですよ」
「まだ生きてんの」
「ご存命です」
清水が改めてハンカチで包んだ箱を差し出す。
「お弁当です。さくらさんから預かってきました」
結局メール連絡だけじゃなく直接会ってんのかよ。
なに企んでると問い詰めたいが、またツッコミ入れられるのも面倒だしなと思う。
かなり迷ったが、陽真は弁当を受け取った。
「もう届けるには交通費がかかるからと。今までは届ける際にはどうしていらっしゃったんですか?」
「時空間こえてた」
陽真は答えた。
清水がわずかに眉をよせる。
「分かんなかったら量子物理学専攻のやつに聞け。あれってそういう分野だろ?」
「まあ……そういうものも含みますねえ」
清水がゆるく腕を組む。
「というか陽真さん、そんなにしょっちゅうお弁当をお忘れになるんですか?」
陽真は顔をしかめた。
さくらが幽霊だと思っていた頃、わざと忘れたことが何度かある。
「例えばどこかお身体の調子でも?」
清水がにわかに真面目な表情になり尋ねる。
陽真は目を見開いた。
チャンスじゃねえか。
健康に不安ありってことになったら、一気に跡継ぎ候補から外れる。
この手があったかと陽真はやや前のめりになり答えた。
「あ、ある。具合悪いとこある。割としょっちゅう気分悪くしてる感じ?」
「ほお、では」
清水が顎に手を当てる。
「こんど精密検査を受けましょう。ご一緒しますので」
そう言いにっこりと笑う。
精密検査を受けた結果、どこも異常なし、それどころか血色がいいだの栄養バランスがよさそうだの同僚の立花のようなことを医者に言われる予感がする。
「……結構だ」
弁当箱を手に、陽真はきびすを返した。




