邪神さんは強くてすごい人でした
視界が高速で流れた。もし口を開けてたら舌を噛んでたかもしれない、だからネロさんは閉じているように言ったのでしょう。私の動体視力では追い付けない高速移動を可能にしたのは彼が発動した光翼によるもの。
そして一瞬前まで私達が滞空していた位置をそれは鉤爪で空を引き裂きながら通過していった。辛うじて瞳に映ったその姿、巨大で黒い体に四つの翼を持った怪鳥。
「フリアエ!?」
「キュールルルルルゥ」
フリアエ。鳥型の魔物であり全長3Mを超え、広げた翼幅は6Mにもなる体躯を持った肉食の危険生物。
二対の翼を羽搏かせて宙に留まりながらフリアエは濁った血のように赤黒い眼球で私達を捉える。牛の頭部でさえ噛み砕く嘴の奥から喉鳴りが聞こえ、それはまるで先の一撃で仕留められなかった不満を露わにしているように思えた。その鳴き声に背筋が寒くなった私は知らず知らずネロさんに縋り付くように抱き付く。
「に、にに逃げ……っ」
フリアエは怖ろしい魔物です。その巨体にも関わらず高速飛行を可能にし、鉤爪は騎士の金属鎧でさえ容易く握り潰し引き裂く。そして“心臓魔石”から発せられる魔力を用いて“風”の魔術を行使する……危険度1級に分類され遭遇が死に直結します。もし討伐を考えるなら高位の聖騎士や聖女または同様に高位の“魔狩り士”を動員する必要が在ります。
私はネロさんに逃げるよう言おうとしたのですが―――
「フリアエか。封印が消えて聖気が薄くなったことに気が付いたか? それとも俺が狙いか……どちらにしろ卑しい奴だ」
ネロさんの顔に怖れは一切無く、寧ろそこにはフリアエを小馬鹿にするような冷たい微笑みが浮かんでいました。
「ネ、ネロさん?」
「落ち着けアリサ」
私を抱き留めるネロさんの力が少し強まる。たったそれだけのことで不安や恐怖が引いていくのを感じる。魔物を前にして安心感を覚え始めて戸惑う私にネロさんは堂々と告げます。
「何に怯えている? あれが危険だからか? はっ! 面白い冗談だぞそれは」
「ケェエエエエエエッ!」
フリアエが自身に風を纏う。その風は飛翔速度を上昇させると近付く物を千々に切り裂く不可視の刃。魔術により更に危険な存在と化したフリアエを前にして……だけどネロさんに焦りの色は無い。
そう、私は失念していました。だってネロさんは―――
「胸に風穴、血が足りず息もしにくい。だがまあ……」
「―――ッ!!」
フリアエが飛び出す。風を纏った四つの翼を羽搏かせるとその巨体は空気の壁を貫いて飛翔した。それを目前に挑んだ私の驚愕はとても大きかった。速い、速過ぎる。あのサイズの生き物が出して許されるような速度では無い。人間なんて掠めるだけで挽肉されそうな威圧を感じる。
それでもネロさんは動かない。片手を突き出したまま私の肩を抱いてフリアエが迫るのをただ待っています。もしも彼がただの人間であったなら私は今も狼狽えたままでしょう。しかしそうはなりませんでした。
「お前を葬るには十分だろう」
ネロさんの存在感が膨れ上がる。彼の姿が一瞬フリアエよりも大きくなったと錯覚する程に肉体から立ち上る魔力は凄まじい。周囲の景色さえ歪む力を放ちながら彼は掌から半透明の盾を展開した。
衝撃、次いで稲妻のような魔力の光が視界を白く染めた。
「―――ガッ!? ギギギキィッ!?」
「ん? しまった、これでも強過ぎたか?」
フリアエの嘴の中程から先がバラバラに砕けて吹き飛ぶ。高濃度の魔力に反発された影響で帯電するように奔る魔力に身を焼かれながらフリアエは激痛と混乱で鳴き喚く。
唖然とする私を余所にネロさんは自身が発動した【魔力盾】に注目していました。
魔力盾は単にシールドとも呼称される魔狩り士の方が最初に覚える低位魔術の一つです。通常その大きさと硬さは金属で製造された小盾と同等、習熟すれば詠唱無しで発動出来るのでよく使われる魔術なのですが……正直に言って危険度3級以上の魔物には通用しません。何故ならそのレベルの脅威になれば鋼鉄程度では簡単に貫かれるからです。
「どうやら千年の間で魔物は弱くなったようだな。よしよし狙い通り……封印された甲斐が在ったな」
ネロさんの魔力盾はフリアエの攻撃を完全に防ぐばかりか逆にその嘴を砕いたほど。あまりにも硬すぎます。しかも大きさもおかしいです、半透明の丸い魔力は私達2人の体を覆って余り有る程です。いくら魔力の多寡で強度や大きさが変わるとは云えこれは規格外、低位魔術が高位魔術に匹敵する効果を発揮しています。
ネロさんは藻掻くフリアエは見て少し思案すると魔力盾を消します。それを感じ取ったフリアエはしかし再度攻撃することはおろか怒りを向けてくることすら無く、先程までと違いその瞳に恐怖の色を宿しながらじわじわと後退していきます。これは逃げようとしている?
今更ながらフリアエは気付いたのかもしれません……目の前の彼がいったいどんな存在なのかを。そんな魔物に対してネロさんは指を差す、その先に魔力が収束し―――
「なら攻撃もこれで十分―――【魔力矢】」
発射された矢がフリアエの傷付いていた頭部を完全に消し飛ばしました。回避も防御も許さない圧倒的な威力の一撃。
「――――――」
「ふむ、どうだ? 邪神以上に危険な存在なんて居る訳が無いだろう」
呆気無い決着と共にネロさんは私が失念していた事実を言いました。そう、そうなのです。ネロさんは世界を震撼させた邪神その人なのだから。彼の言う通りこれ以上の危険な存在なんて居るわけが無かったのです。
フリアエの胴体は魔力で焼かれた煙を首から吹きながらゆっくりと落ち始めます。仕留めるのに使った魔力矢という魔術も低位の物なのですが……流石に二度目とあって驚きは少ないです。私は森へと落下するフリアエの亡骸を見ながらネロさんに声を掛けます。
「一撃でしたね」
「そうだな」
巨体が木々へと突っ込むと枝葉をへし折る音が遠く響いてきます。
「これでも……本調子からは程遠いのですよね?」
「そうだな」
なるほどなるほどー。
「……は~、邪神ってすごいんですねぇ」
「…………」
本当にびっくりです。世界を震撼させたと書かれていたのは誇張でも何でも無さそうです。私なんかが心配しても仕方無い程にすごい人だったんですネロさんは。
……あ、そうだ。いつまでも眺めてはいけません。魔物を倒してくれたお礼をしないと。
「あの、ネロさ」
「くっ、ふふ……!」
「……ネロさん?」
顔を逸らして笑いを堪えていますが何か可笑しなことでも在りましたか?
「ふはっ……お、お前……邪神と一緒に居る自覚は在るのか? もしかして邪神は弱いなどと言い伝えられているのか?」
遂にネロさんは吹き出すと笑いながらそう聞いてきます。
「いえ。とても強大で怖ろしい存在だと教えられています。だから封印されたのだと」
「それなのにその反応か」
その反応ってどの反応のことでしょうか? 知らぬ間に失礼を働いたりしたのでしょうか?
「えっと……ごめんなさい。邪神の話はかねがね聞いていたのですが……こうして会うのは初めてなのでどう接すれば良いのか知らず……失礼をしたなら謝ります」
実際こうして話してみると悪い人には思えません。とても優しいですし、だから私も出来るだけその優しさをお返しするよう心掛けていたのですが……それがネロさん自身にとって都合が悪いのであれば止めますが。
「……謝らなくていい。失礼なんて何もしていない。ただ、そうだな……これがあの時代よりも平和になった証なのかもしれないな」
「はあ、なるほど?」
ネロさんを苦笑しながらそう言いましたがよくわかりません。とにかく気分を害したわけでは無いとわかって一安心です。
危機も去って穏やかな気持ちが戻って来ます。そうして落ち着いたからか……私はとても大事なことに気付きます。
「……そうです魔物。封印も無くなりましたし……これから沢山やって来るのでしょうか?」
「ああ、そのことか。気にする必要は無い」
「え?」
封印が失われ、〈眠り歌の村〉を初めとしたこの近辺に魔物の被害が及ぶようになるのでは? そんな危惧から出た言葉だったのですがネロさんが即座に否定したので戸惑います。どういう意味ですか?
「この土地に染み付いた聖気はそう易々と薄まらない。フリアエが襲ってきたのは俺に惹かれたのも要因の一つ……数十年は封印が無くとも変わらぬ生活が送れるだろう」
「……なるほど?」
「そもそも俺は再び封印されるつもりだ。それで以前と同じ。元よりお前の心配は杞憂だ」
封印が無くても数十年は大丈夫、それにネロさん自身は再び封印を受け入れるつもり。確かにそれならば何も問題は在りません。
「…………」
本当に? 本当にそれで良いのでしょうか?
この地に生きる方々がこれまでと同じ生活が送れる、それはとても嬉しい限り。ですがネロさんがまた封印されると云う一点に関しては胸がもやもやします。
千年も封印の中で孤独に過ごし、そしてまた封印の中へと戻る。いつ出られるかもわからない場所へと。私ならそんなの耐えられません。気の遠くなりそうな時間を孤独に過ごすなんて……想像することも出来ません。
これは本当に正しい行いなのでしょうか? 何とかならないのでしょうか? エリザヴェータ様に会えばこの疑問にも答えは出るのでしょうか?
「……そうですか。わかりました」
わかりません。いくら考えても私には何が良くて何が悪いのかがわかりません。
ですので。
「ネロさん、それはそれとして……お願いが有るのですが」
「何だ?」
気にするなと言われた問題は一旦置くことにします。先ずは手が付けられる事柄から手を付けていきましょう。
私は森の一角を指差す。そこはネロさんが先程仕留めたばかりの魔物が落ちた場所。
「フリアエなんですが……あのお肉、持って帰っちゃ駄目ですか?」
私のお願いにネロさんは目を丸くしましたが直ぐに応じます。
「……運ぶのは簡単だが本当にあれが欲しいのか?」
「はい! 折角なので食べてみたいな~と」
「まあ食えば美味い肉だが……魔物だから下処理は面倒だぞ?」
「大丈夫です! 下処理は得意な方ですから!」
フリアエのお肉なんて稀少食材、一生の内に食べる機会が何回在るかわかりません。生きてる時は恐怖でしかありませんが仕留められた後ならもう食材にしか見えません。
「そうか。なら持って帰るか」
「ありがとうございます!」
そう決定するなりネロさんは墜落したフリアエの亡骸を魔術によって引き上げました。【魔力手】という片腕分の力を発揮出来れば上等と言われる低位魔術ですが、例にも漏れずネロさんが使えば超重量の巨体であろうと簡単に持ち上げてしまいます。本当にありがとうございました。
フリアエのお肉、入手しました! 今晩は御馳走です!




