第一章 4.胡蝶の夢
高架下近くの路地。
鳴り響く列車の走行音。
高く聳える金網。
立ち入り禁止の看板。
その奥に見える病棟を改装した孤児院。
それは懐かしい生まれ故郷である世界の風景。
これは夢幻なのか、それとも現実なのか。
もし夢であるならば、醒めぬようにと願う。
そして今一度、彼女に会えるようにと願う。
眼前の金網に開く、子供1人が辛うじて通ることのできる穴。
そこに足を踏み入れて敷地の中へと入る。
その孤児院は元々大きな個人病院として作られていたが、所有者の高齢の医師が急逝し、残った看護師の奥さんが孤児院にしたそうだ。詳しいことは知らないけれど、確かそんな噂を聞いた覚えがある。
僕は昔、ここで暮らしていた。乳幼児だった僕は、この孤児院の内側に捨てられていたらしい。奇妙な話ではあるが、産まれたばかりの頃の記憶などあるはずもなく。何故かと聞かれても知らないと答えるしかない。大方、孤児院の子供の1人が外に捨てられているのを可哀想に思って運んできたのだろう。そして、運良く生き延びた。
ここに来ると、いつも昔の事を思い出す。
広かった運動場を駆け回り大きな建物を探検した。
プラスチックで作られたボーリングの玩具が好きだった。
2階から伸びる大きな石の滑り台は、毎日滑って遊んだ。
しかし、そんな記憶とは裏腹に、広く感じていた運動場は50mもないし、大きかった建物は一軒家が3棟ほど集まった程度の大きさだ。そして、駆け回った運動場に雑草が生い茂り、遊具は錆びつき始めている。人の気配すら全くない。そう、金網の立ち入り禁止の看板が示す様に、ここは既に閉園している。取り壊されない理由は知らないが、線路沿いの騒音の問題で売れ残っているのだろうか。ともかく、僕にとっては寂れていても残っているだけでありがたい。
僕はもう何度もここを訪れていた。目的はただ一つ。ここにしか居ない人に会うため。
懐かしい運動場を噛み締めるようにゆっくりと草を踏み締めて進み、ガラスの割れた玄関の扉を開ける。床には綺麗だった玄関のステンドグラスの欠片が散らばっており、扉を引くと引き摺られた破片が夕陽にキラキラと輝く。
「ただいま」
誰に言う訳でもなく、習慣として自然と声が漏れる。
ひょっとすると無意識に淡い期待を抱いていたのかもしれない。ここに居る誰かから返事があるのではないかと。会話はできないし、聞こえているかすらわからないけれど。少なくとも1人は居るはずだから。
割れた窓から夕陽が差し込み、ほのかに舞い上がる埃が幻想的に紅く煌めく。
床に散らばるガラスを靴で踏み砕きながら1階の廊下を進み、2階へと階段を登っていく。
進むたびに、思い出が溢れては消えていく。
駆け回る子供の姿が今でも鮮明に浮かび上がる。
まるで目の前にいるかのように。
あぁ、先生によく新聞紙で剣を作って貰ったな。僕が作るよりも、綺麗で丈夫に作ってくれるんだ。
そんな夢現が入り混じった光景を見ながら、2階の廊下を進んで目的の部屋の前に辿り着く。
そこは、僕が捨てられていた場所。
2階の角部屋。
引き戸を開けて部屋へと入ると、そこには。
ひとりの女性が立っていた。
宇宙の様に黒く、そして、星が散りばめられた様に光る髪と瞳の女性。
窓から差し込む夕陽に反射して、髪が銀河の様に藍に輝く。
煌めく夕日と相俟って、とても幻想的であった。
そんな燦爛たる光景を眺めて。
僕はゆっくりと口を開く。
「母さん……」
黒髪の耽美な女性も口を開き。そして……。