恋の病
僕は恋を患っている。
相手は、前の席の女の子だ。顔は平凡、体型も普通。性格も、可もなく不可もなくといった程度。映画にエキストラ出演するような女の子。
彼女よりかわいい子はクラスに何人もいる。馬が合うわけでもない。自分に特殊な癖がある訳でもない。
でも、僕は彼女に取り憑かれていた。
僕には、この感情の理由を探る術はない。心当たりが全くないからだ。特段自分に優しくしてくれるわけでも、積極的に話かけてくるわけでもない。共に班行動をする程度の仲。心に残る出来事もなかったはず。
いつ頃から彼女を好きになったか、全く覚えてない。彼女のいい所を挙げることすらできない。
彼女は滅多に喋らない。滅多に人と関わらない。いつも一人で、空かどこかを眺めている。世界を退屈そうに見渡して、ぼーっとしている。そんな彼女に触れていいのかどうか悩んでしまい、いつも話しかけるのをやめてしまう。
そう。彼女は言うなれば、空気のような存在だった。その透き通った姿に惚れたのだろうか。無口な女性が好きなのだろうか。考えても考えても答えが出ない。思案を巡らせるほど、頭がおかしくなりそうだった。
チャイムの放送が校内を伝う。それは4時間目の始まりを知らせる音。騒がしかった教室から熱が逃げはじめる。先生が入ってくると、談笑は完全に途絶えた。
「起立。これから道徳の授業を始めます。よろしくお願いします。」
形式ばった挨拶を済ませると、先生はプリントを配り始めた。
「どうぞ。」
その一言と共に、彼女からプリントを渡される。僕は咄嗟に視線を下げていた。
ありがとう。たった一言なのに。今日も言えなかった。
僕はどうやら、少々の失敗を起こすだけで自己嫌悪に陥る習性があるらしい。
何度も、何度も。シャーペンを使い、プリントに圧力をかける。紙の上部には、小さな穴の集まりができていた。
「んじゃまず、教科書30ページを開いて。そんで今日は7月8日なんで、7足す8で15番の人から、こういう感じで読んでってください。」
空中で指を蛇行させ、朗読の順番を示す。生徒たちもそれに従い、本文を読み進めていった。
内容は至極平凡だった。
『大切なものは、なくなって初めてそのありがたみに気づく』
耳にタコができるほど聞かされた説法を、どうして中学1年生になってまで聞かされなければならないのか。僕は理解に苦しんだ。
僕の苛立ちをよそに、授業は円滑に進んだ。宿題がなくなったらどうなるか、親がいなくなったらどうなるか。くだらない『たられば』について議論した後、先生は振り返りシートの記入を促した。
プリントに印字された項目を適当にいなしていくと、最後にこんな問題が残されていた。
『あなたが今、なくなって欲しいと思うものは何ですか。また、それがなくなったとき、何が起こると思いますか。』
それらの文言と共に、長方形の解答欄が用意されている。授業の本質から少し遠ざかった質問であり、明らかにそこの部分だけ浮いていた。
なんだこの質問。僕は少し訝しんだが、面倒になって深く考えなかった。
僕は自然な筆運びで、彼女の名前を書いていた。
彼女を消したい理由も、消した後の未来も未記入のままにしておいた。僕は班のメンバーのプリントを集め、先生に提出しに行く。
その後すぐ、授業の終わった。何人かは給食当番の仕事を始め、教室は元の活気を取り戻した。
あのとき。どうしてあんなことをわざわざ書いたのか、僕自身わからない。
ただ。
確かに僕は。
その瞬間だけは、『好きな子をこの世から消したい』と思っていたはずだった。
道徳の後の記憶は曖昧だ。気づいたときには部活も終わり、下校時刻になっていた。夕焼けで舗装された道路を、僕は自転車で駆けていく。不思議なことに、いつもよりサドルを漕ぐ足が軽かった。
次の日。いつも通り学校に向かい、教室に入る。鞄をロッカーにしまい、自分の席に着く。前を見ると、あることに気がついた。
彼女の椅子と机が消えていたのだ。
まるで、初めから空白だったようだった。僕は不自然なほど、目の前の空間に違和感を感じていなかった。
同級生も、先生も。誰もそのことに触れない。彼女いったいどこへ行ってしまったのか。なぜ、誰も彼女の話をしないのか。
そんなこと、僕にはどうでもいいことだった。
好きな人が突然いなくなったら、普通はもっと悲しむのかもしれない。落ち込むかもしれない。
でも、僕は違う。僕の内にあった感情は、その真逆だった。
だって、僕は恋煩いから解放されたのだから!
あの忌まわしき黒くどろどろとしたものは、きれいさっぱり消え去っていた。
思えば。家、授業中、部活中、学校からの帰り道。僕はずっと、彼女のことばかり考えていた。どうして彼女を好きになってしまったのか、その答えを導き出そうとして、無限の錯綜悪夢に囚われる。そんな日々は、もう終わり。
僕は自由の身になった。もう思い悩むことなんてないんだ。
初めのうちは、そう思っていた。
実際、彼女が消えて3日目までは、気持ちが楽だったように感じた。
しかしながら。あれからというものの、無性にいらだつことが増えた。家では意味もなく壁を殴るようになった。自慰の回数も増え、心なしか老けた感覚がした。
やはり、彼女を失ったことが、心の何処かでつらいと感じているだろうか。そんなことを思いながら、換気のために窓を開ける。アパートの5階に住んでるからか、街の景色がよく見える。
空は眠りにつこうとしていた。家の明かりがぽつぽつと点灯し始め、僕だけを仲間外れにしていた。
そういえば。あの子の名前、なんだっけ。
外を眺め、物思いに耽っていると。彼女の名前……いや、彼女に関すること全てを忘れていることに気づいた。
初恋の女の子を忘れるなんて、そんなことあるのか。僕はせめてと、彼女の名前を思い出そうと思考を巡らせた。
そのときだった。
僕の後ろから、彼女の声がしたのだ。咄嗟に後ろを振り向く。
そこにいたのは、僕自身だった。
デフォルトの表情のまま。ただ突っ立っているだけの僕が、そこにいた。慰めるわけでも、嘲笑うわけでもない。ただ、そこにいるだけ。
ーーそっか。僕はずっと、僕自身に騙されてたんだ。
自分の頬を思いっきり叩く。鈍い痛みが体に広がると同時に、僕の幻は消滅した。
そうして僕は、全てを理解した。
僕は『僕』という存在を確立できなかった。
僕は『自分の色』を持っていない。僕を僕たらしめる何かを持っていない。誰かに命じられるまま勉強し、運動し、呼吸を行なっているだけ。
僕は、何者でもない自分が嫌いだった。だからこそ、僕は無意識に自己防衛をした。
彼女は、僕自身だったんだ。
彼女は僕と同じように、あまりにも透明だった。僕は彼女を自身と重ねようとした。彼女を好きになることで、透き通った自分を肯定しようとしていたんだ。
心のもやもやは完全に取れた。僕は乾いた笑いをこぼすと、網戸を開け、ベランダから身を乗り出した。