4.小さな相棒
翌朝マンションを訪れると、昨晩結局寝落ちしてしまった灯が、かなり恐縮していた。
いつも災難や困難に相対する時に頼もしいほど冷静になる彼女が、このようにアタフタしている所はとても珍しい。その様子が可愛らしくて、何やら手の届かない所を擽られるような感覚を覚えた。
そんな彼女を少し名残惜しく思いつつも、タクシーに押し込み仕事場へと送り出す。社長である彼女の判断待ちの案件が、かなり押している。病み上がりの彼女が動ける時間は限られていた。
彼女を無事送り出した後、俺は小さな相棒と視線を交わす。
「さて、行くか?」
「ん!」
幼稚園の制服を着て帽子をかぶり、オモチャみたいな鞄を斜め掛けした満はしっかりと頷いた。
昨日のぐずりが嘘のように、元気だ。泣いて吐き出したのが、良かったのか。それとも子供と言うものは、このように切り替えが早いものなのか。元気いっぱいに、むしろ頼もしく母親を送り出す所は雄々しさを感じさせる。
もう慣れた道のりを、俺達は手をつないで幼稚園へと向かう。朝乗って来た俺の車はマンションの来客用駐車場に停めている。本来なら三人で車に乗って幼稚園で満を下ろし、その後灯と一緒に会社に向かいたい所だが、幼稚園の周辺には車を停車できるスペースが限られている。ただでさえ大変な時期に余計なトラブルを招きたくない。……というわけで、徒歩での通園が日課となった。
小さく、冗談みたいに柔らかい手を握るのにも、もう慣れた。最初の内は、どのくらい力を込めればしっかりとそれでいてその手を痛めずに握れるか、それすら分からず戸惑ったものだ。
空手道場に通うような子供達と違って、どこもかしこも華奢に見える女児の扱いが分からず、何故俺は大見えを切ってこんなことを引き受けてしまったのだろう……と、今更ながらに後悔の念が湧きおこり内心頭を抱えたものだ。
しかし今では何の躊躇もせず、小さな手を引いて歩いている。フニフニとつき立ての餅のように柔らかくオモチャみたいに小さな手は、意外とシッカリ出来ていた。
俺達は阿吽の呼吸で、通園する。言葉を交わさずとも、灯は手を伸ばして横断歩道の押し釦を押し、俺の手を再び握る。青になれば俺と繋いでいない方の手を上げ横断歩道を渡り、いつもの角を曲がる。
そう、今日もいつも通りその道のりを歩いていたのだ。
不意にクイと手を引かれたような感覚に、立ち止まる。
振り向くと、気が付く。手を引かれたのでは無い。手を繋いでいる相手、満が歩みを止めたのだ。
「どうした?」
「……」
珍しく返事をしない満に、不安を覚える。
ひょっとしてお腹でも痛めただろうか? 心配になり、その場にしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。
「何処か……痛いのか?」
いつも真っすぐ俺を見る満が、視線を合わせない。妙だ。
満は力の籠らない声で、ポトリと言葉を零した。
「きのう、ママがないたの」
浮かない顔の理由に、思わず息を飲む。
「ゴメンねって、いってた」
「……」
「パパのこと、きいたらダメなのかな……」
その時。俺は自分の重大な勘違いに気が付いた。
『切り替えが早い』『雄々しい』なんて満を評して、ホッとしていた自分を殴ってやりてぇ!
満は十分傷ついていたし、それを引き摺っている。なのに俺は―――子供の心が、まるで浅い容れ物みたいに単純なものだと誤解し、安堵さえしていた。
違う、満の心は十分に深い。
大人と同じだけ、大きな器を持っているんだ。
そしてその心で、大人達に気を使っていたのだ……! 大事な母親を、これ以上傷つけまいと自省していた結果、明るさを擬態していたに過ぎない。
「パパがいなくなったのって……パパ、ミツルのことキライになったのかな。だからいなくなったのかな?」
「違う!」
思わず強い口調になった俺に、俯いていた満が驚いて顔を上げた。
動揺して、どうする!
内心激しく自分を叱咤していたが、俺は努めて表情を和らげる。元が元の造作なだけに、無駄なことをやっているかもしれないが。それでも眉間に皺を寄せているよりは、マシだろう。
「……それは絶対違う。満のパパは、俺に頭を下げて『満とママを頼む』って言っていた。本当は自分が傍に居たかったけど、どうしても出来ない。だから代わりに俺に満とママを守るように、頼んだんだ」
ああ、どの口で言っている! 俺が、追い出したようなものだ。アチラコチラに物みたいに移動される満が可哀想だ、と子供心などほとんど理解していない独身男が、勝手に判断したのだ。灯側に立っている俺は、みすみす彼女から満を取り上げるような真似を許せなかった。それも手前勝手な思い込みに過ぎない!
満は真っ赤になった目を擦って、俺をジッと見た。今にも零れそうな……大きな目だ。ヒクリと喉がなる。嗚咽を堪えるように。
「でもねっ……パパが『ダメだよ』って言ったのにねっ……ミツルねっ……いつも食べるのおそくって。とちゅうでチガウこと気になっちゃってっ……食べるのワスれちゃうのっ……それに、ニンジンねっ……食べたくないからウエキバチにうめちゃったの! そしたら後で見つけてパパ、すっごくガッカリしてっ……」
ああ、クソッ! どう言やぁ、良いんだ?!
考えろ。
満は悪くない。だけど悠馬や灯を責めてはダメだ。それは彼女を傷つける。
みるみる内に、その大きな目の淵に涙が溜まって行く。まさに目玉ごと零れ落ちそうな状態だ。俺はグッと口を引き結び、満の頭を掌で両側からガッシリと支え、真っすぐに見つめ返した。
作り笑いじゃ、誤魔化しの表情じゃダメなんだ! コイツには、伝わらない。子供は大人の心の動きを捕らえるのだ。言葉や表情じゃ、言い繕えやしないのだと気が付いた。
「見ろ! 俺を!!」
俺の迫力に驚いたのだろう。
ヒクッとしゃっくりするみたいに、満は言葉を飲み込んだ。
もう取り繕ったりしねぇ。俺は、俺のまま正直にコイツに当たらなきゃいけねぇんだ!
「……顔、コワいだろ?」
「……うん」
俺が頭を固定しているから、頷きはしないものの素直に満は肯定した。
目は大きく見開かれ、ビックリ眼のままだ。
「体も大きいし、筋肉モリモリだ。強そうだろ?」
「うん」
「……実は本当に、強い。ずっと空手をやっているんだが、これでも日本で一番になったことがある」
「……スゴイ!」
小さな頬に、ポロリと大粒の涙が伝わった。
けれどもそれは先ほど下瞼に溜まっていたものが、瞬きをした瞬間零れ落ちたものだ。
満の表情はハッキリと変わっていた。
興味を引けたことに安堵しつつ、俺は得意の悪い顔を作った。交渉先が社長である灯を、若い女性だからと舐め腐った態度を取った時などに、その背後から脅しを掛け……いや、牽制する場合有効な表情だ。
「だから……特別にパパは、俺にお前達を守るように頼んだんだ」
「……そうなの?」
「ああ、満やママが大事だからな。分かるか?」
パチパチと瞬きを繰り返す満の目からは、もう涙が零れ落ちたりしない。幼い頭の中で、何かが恐ろしい速さで計算されている。俺の言葉を、本心からのモノと漸く受け止めてくれたのだろう。嘘や虚飾は、この子には通じない。信じて貰う為には、あくまで正直に、人間として対峙しなければだめだったのだ。
彼女はせいいっぱい、俺の言葉を改めて吟味している。彼女の頭の中にある計算の仕方もその独自の方程式も全く想像が出来ないけれども―――今得たばかりの情報を材料に、きっと大事な結論に辿り着こうとしている。
「……分かった!!」
パッと迷いを振り払った表情に、俺の胸は震えた。
子供の声と表情が明るい。それだけでこんなに救われた気持ちになるなんて、俺は今まで知らずに生きて来たのだ。
嬉しさついでに、満の両脇に手を差し込みグイッと持ち上げる。
高い高いの状態だ。満は時折、ソファの背に上ることがある。子供は高い所が好きなのだろう。
「わぁ!」
歓喜の声があがる。
正解を探り当てたようで、嬉しくなった。まるで小さな姫様のご機嫌を取る、従者のような気分だ。
気を良くした俺は、その勢いのままグルグルっと満の体を振り回した。遊園地の遊具に乗っているかのように体が浮くのが楽しいのか、満はキャハっと笑い声をあげる。
「もっと……!」
「おっし」
更にもう一回転、グルリと振り回す。
それから満を更に高い所へ―――肩の上に抱え上げた。今日は大盤振る舞いだ! この小さな姫様の機嫌が上昇するなら、何だってやってやるって気になっている。
「わぁ、たかーい!!」
流石に少し怖いのか、右肩の上にちょこんと座る形になった満は、俺の頭にしっかりとしがみ付く。正直小さな爪が額に食い込んで、地味に痛い。しかし持前の度胸でもってキョロキョロと周りを楽し気に見まわしている彼女を目にすると、それくらいの不快感、どうでもよくなってしまう。
「楽しいか?」
「うん!」
それから俺は暫くその恰好のまま、歩き続けた。
人通りの少ない道を通っているものの、通りすがりの人間が、ギョッとした目でこちらを振り返る。注目されるのは本意ではないが、仕方がない。今は満の情緒の回復が、優先事項なのだから。
大きな通りに差し掛かる前に、満を肩からゆっくりと降ろす。それからもう一度しゃがみ込み、その大きなキラキラした瞳を、しっかりと見据えた。
「なぁ、満?」
「なぁに?」
どうやら憂いは去ったようだ。傷ついた彼女の気晴らしに、少しでも貢献できたらしい。恥ずかしい思いをしたが、その甲斐があったようで何よりだ。
俺はこれ以上ないくらい真面目に、平静になった満に語り掛ける。まだ小学校にも入っていない幼さだが、満は気遣いのできる賢い人間だ。守られるばかりじゃなく、大事な人を守ろうとする強さも兼ね備えている。
「今、ママは病気で本調子じゃない。退院したばかりだからな」
「うん」
彼女は神妙な表情で、頷いた。
俺が満を認めて、大事な話をしようとしているのを、理解している。
「パパがいない今、ママを一番に助けられるのは誰だ?」
「ええと……」
首を傾げて、探るように満は俺を指差し、それから自分を指差した。
「そうだ。勿論、俺も助ける。だけど満が助けてくれれば、もっとママは元気になれる」
「……」
満はゆっくりと、俺の台詞を自分に浸透させた。
それからシッカリと顔を上げて頷き、俺を真っすぐに見る。
「うん! ママをたすける!!」
「よし」
勢いよく返事をし。
けれどもちょっと考えて、再び首をかしげる。
やはり賢い子だ、と思う。
「でも助けるって―――何するの?」
俺は今度こそ、本気で笑顔になった。
理解が早い。今時会社に入る新人よりも、呑み込みが早いかもしれない。母親に似て、優秀なのだと嬉しくなった。ひょっとすると父親に似たのかもしれない。
が、もう俺の中には嫉妬心も羨望も、どす黒い恨みの気持ちも残っていない。それは全て、さきほど零れ落ちた満の涙が拭い去ってくれたような気がする。
俺はポン! と満の両肩に手を乗せた。
「まず、元気に幼稚園に通うこと。それからいっぱい食べて、いっぱい遊んで寝る!」
シッカリと噛んで含めるように、言い渡す。
それから、少しトーンを落として付け加えた。あくまでこちらは『お願い』だ。
「あと、あまりパパのことをシツコク聞いて、ママを困らせないようにしてくれれば―――上出来だ。時期がくれば、パパには必ず会える。だからパパとママを信じて待ってくれ。大変かもしれないが……できるか?」
満は少し考えるように視線を下げ、それからキュッと口を引き結び顔を上げた。
「……うん。頑張る」
きゅっと小さい掌を、決意を込めて握りしめる。
プクプクした握りこぶしに、可愛らしいえくぼが四つ並んでいるのが、微笑みを誘った。
酷な事を言っているな、と自覚している。
ズルい大人の俺は、こんな風に言葉を弄して他人をコントロールするのが上手くなってしまったのだ。けれども、この可愛らしい生き物が健やかに生きる為に―――泥水くらい幾らでも被ってやろうと言う気になった。
俺の嘘がいつかバレる時が来る。
その時盛大に嫌われたって憎まれたって、構わない。構わないから、少しでも彼女の日常が平穏さを取り戻してくれたなら、本望だ。
「頑張ったら、幾らでも肩車してやる」
「ホント?」
「ああ―――そのうち、もっとスゴイ技も見せてやるからな」
見上げる瞳が―――途端にキラキラと好奇心を湛えて輝き出す。
「『スゴイの』? って、どんなの?!」
「すごいのは、スゴイの、だ。頑張れたら、やってやる」
「えー! しりたい!!」
「フッ……楽しみにしてろ」
思わず噴き出すと、満は大きな目をますます大きく見開き―――それから、グッと再び拳を力強く、握りしめた。
「うん!! がんばる!!!」
「ハハ、頑張れ」
その夕方からだ。満が、べったりと俺に懐くようになった。
満を迎えに行き、張り付かれたまま家に辿り着く。何を言っても磁石みたいに離れないので、ソファで一緒にテレビを見ていたら―――いつの間にか、俺も寝てしまっていた。
慌てて起きたら、灯が笑って珈琲を入れてくれた。
俺が寝ている間に、タクシーで帰って来たらしい。
「すみません。ちょっと休んだら迎えに行くはずが……」
恐縮する俺に、灯はフワッと笑って首を振った。
「石堂さん。満の傍にいてくれて、有難う」
灯の体調も情緒も回復に向かっているのは、間違いない。やはり悠馬の不在が、良い方向に影響しているらしい。落ち着いた空気が漂っているのを感じ、俺も安堵する。寄り掛かる満に万が一にもかからないようし、首を背けて珈琲を飲む。
すると体を捻ってしまった所為か、満がムニャムニャと口元を擦りながら目を覚ました。
「ん……ママ?」
「満ったら、石堂さん枕にしてグッスリ眠ってたわよ」
「……」
クスクス笑う灯に、満がボンヤリとした表情のまま立ち上がり歩み寄った。
天然カイロが離れてしまい、それが随分温かかったことを思い知る。これは寝落ちしてしまうのは仕方がないだろう、と内心自分に言い訳をする。
「あのね、ママ。ミツル、決めたの」
「なぁに?」
愛し気に微笑みを返す灯に向き合い、その袖を掴んだ満が―――唐突に爆弾を落とした。
「ミツルね―――イシドウさんとケッコンする……!」
はぁあ?!




