2.対峙する
元夫の悠馬が離婚届にサインすることを了承し、目の前に現れなくなってから。漸く、彼女の体はゆっくりと回復に向かって行った。やがて食欲が少しずつ戻り、睡眠薬を飲まなくても数時間続けて眠れるようになる。
灯が病院のベッドで療養する間、悠馬は自宅のマンションで満の世話をしていた。平行して新しい住居を確保し、自分の荷物を少しづつそちらに移して行ったらしい。それらの作業を滞りなく終えた後、彼は俺を呼び出した。
「離婚届を持参しました。僕の署名は終わっているので、こちらを灯に渡してください」
そう言って、目の前の男はテーブルの上に簡素な封筒を差し出す。病院に娘の満を伴って現れた悠馬は、彼女を灯の病室に送り出し一階の喫茶室で俺と向き合っていた。
「お預かりします」
俺は出来る限り、事務的に対応するよう心掛けた。
灯と悠馬の縁が法的に切れようとする現実を前に、内心穏やかでいられるはずは無い。が、不謹慎に喜ぶのも、苛立ちを込めて嫌味をぶつけるのも、どちらも当事者である灯に対して不誠実なような気がした。だからこそ敢えて低いテンションを保ちつつ、平静を装ったのだ。
上司である灯を……俺は心から尊敬しているし、大事に思っている。
それは仕事というフィールドでは勿論のこと、一人の女性として彼女を見た上でも同じだった。
けれどもかつてその邪な想いを、灯と悠馬、それからその娘の満と言う幸せな家族の形を目にした時、封印すると決めたのだ。
手に入らない物を羨み、嘆く時間は無い。俺はただ、出来る事を出来る限りやるだけだ。夫の悠馬の手が回らない、仕事の場で灯を支えよう。せめて仕事の上では替えの利かないパートナーになってやる。そう、決めたのだ。
しかし、気持ちの上ではそう言う気概を持って勤めているものの、現実には俺は単なる彼女の部下でしかなかった。
今も、そうだ。
彼女の夫から差し出された離婚届、それを速やかに上司に運ぶ配達員の役割を淡々とこなすだけだ。吐き出せないモヤモヤしたものが、内側から胸を圧迫する。しかし俺は、それを吐き出す立場にはいない。いかに腹が立とうとも、彼女の理不尽な境遇に胸を痛めようとも……単なる部下に過ぎない脇役には、そんな権限は無いのだ。
「灯の入院中は、満の世話もあるので今のマンションに滞在させて貰おうと思います。それを灯に……彼女に伝えていただけませんか?」
「分かりました」
「あか……彼女が退院したら―――俺は、新しい家に移ります。ただ、満を独りには出来ないので、親権は灯に譲ることは変わりませんが、暫くあちらの家で満の面倒を見たいと思っています」
「……は?」
それは実質―――灯から満を奪うことになるのではないか?
分かりやすく剣呑な空気を孕んだ俺に大して、相対する悠馬は怯む様子もなく柔らかい態度で補足を加えた。
「灯の調子を見て、段階的に満がマンションに滞在する時間を増やします。勿論、幼稚園を転園させたりはしません。ただでさえ親のゴタゴタでストレスが掛かるのに、幼稚園まで新しい環境に放り込むのは子供には酷ですから……」
そのストレスの種を持ち込んだ当人が、どの口で言う?
そう責め立てたい衝動に駆られた俺は、つい言い返していた。
「なら、母親のいない新しい家に連れて行くのは―――その幼い子供に良い環境と言えるんですか?」
「―――」
悠馬の顔に張り付いていた、胡散臭い微笑みが凍り付いた。
これまで最低限の事務的な言葉しか口にしなかった俺が、不意に大きく踏み込んで来た事に驚いたのかもしれない。
いや、一度だけ態度で不信感を露わにしたことはある。
あれは外回りのついでに、灯が家に置き忘れていた携帯用のハードディスクを受け取りに行った時のことだ。玄関先で悠馬が女を送り出した所を目撃したのだ。別れ際、女が悠馬に親し気に手を伸ばす。抱き着こうとするように身を寄せた女を、慌てた悠馬がやんわりと押しのけた。
その光景にモヤモヤした物を感じたが、その時は何も言わなかった。
が、モヤモヤは一向に晴れず、出張の為灯を迎えに行った時に遠回しに釘を刺したのだ。分かりやすく蒼くなる悠馬を目にして、疑念は確信に変わった。あの時も、そうだ。彼は穏やかな微笑みを、一瞬強張らせていた。
今、この夫婦の関係は終わろうとしている。
だからここで敢えて余計なことを言うつもりも、破局しようとする夫婦のプライベートに踏み込む言葉を発するつもりも無かった。
なのに、口が勝手に動いていた。しまった、と思った時にはもう遅い。
夫としては不誠実な男だが、娘に対しては完璧な父親、そして母親代わりでもあった筈だ。子供を育てた事の無い俺には、親としての灯の気持ちも悠馬の事情も到底理解することができないのだと、苛立つ気持ちを抑え込んで来た。ただ灯の為に、淡々と事務を引き継ぐ任務をこなすのだと自分に言い聞かせていたのに。
「「………………」」
沈黙が、その場を支配する。
「私が、面倒を見ますので」
真っすぐ悠馬を見据えて、俺はそう宣言していた。
「え……」
「私が、サポートします。社長が本調子になるまで娘さんの世話をします。幼稚園の送り迎えも、もちろんやります。社長がどうしても仕事に行かなければならない時は、代わりに留守番して、面倒を見ます」
そんなことを宣言する予定は、全く無かった。
灯と娘のサポートも、出来たらやりたいと密かに考えてはいた。が、当然灯の気持ちも何も未だ確認していない状態だ。
そしてそもそもの話、俺には子育ての経験が無い。更に言うと本当に俺がそうするにしたって―――わざわざこんな風に対抗心を露わに、元夫である悠馬に対して宣言する必要なんて、全く無かったのだ。
俺は……阿呆か?
内心そんなツッコミを入れつつ、しかし一旦大の男が口にしたことを引っ込める気には到底なれない。
「―――だから、貴方の生活を最優先にしてください。こちらのことは、こちらで何とかしますので、お気になさらず。……その方が彼女の体調の回復も、早いかと思います」
最後の一言は、明らかに余計だったと思う。
その証拠に、それまで凪いだ湖面のように、あくまで穏やかに俺と交わっていた悠馬の視線がフッと外されたのだ。
それでも彼は、最後にこう言って頭を下げた。
「彼女と娘を、よろしくお願いします」
そう言い切った声は、十分にしっかりしたものだった。
その潔い態度に。
衝動のままに、しかも灯当人の許可も得ずに勝手に絶縁状を叩きつけるような真似をした俺は、またしても男として敗北したような気分になった。
ああ、何故この男は、つまらない浮気なんかしちまったんだ……!!
俺は吐き捨てるようにそう、心の中で叫んだ。
これほど大事に思っている、大切なもの、全てを失うかもしれないと分かっていて、何故……。
複雑な気持ちが入り混じり悲しいんだか悔しいんだか、腹立たしいんだか―――嬉しいんだか。自分が、どう感じているのかさえ分からなくなった。