1.上司の離婚
俺の上司である灯は、夫と離婚したばかりだった。
原因は夫の浮気だ。
彼女は最近注目が集まりつつある自然派化粧品会社の社長で、その会社を興した創業者でもある。その頑張りを見守って来た夫は、とある有名企業で働いていたが、彼女を助けるべく専業主夫に転向したのだと言う。何度か家に行った時にもてなして貰ったことがあったし、会社の内輪のイベントで顔を合わせた事がある。
見た目だけ言えば、随分と甘い容貌の優男だ。
仕事やキャリアは男のプライドであり勲章だ。それを女の為にあっさり捨て去る男など、どんな軟弱な人間だろうと揶揄する気持ちも、本人に会えば吹き飛んだ。
灯の夫、悠馬は弱いから女に尽くしているんじゃない。強いから、自分に自信があるからプライドや見栄に頼る必要がないのだと、気付かされた。
何よりその妻である灯が、気軽に夫を頼る無防備な様子を見せられて、地の其処まで落ち込んでしまった。職場では例えどんなに疲れたとしても、明るく前を向く姿を頼もしく感じていた。しかしもっと俺を頼ってくれても良いのに、と虚勢を張る姿に焦れていたのも事実だ。それが夫相手にはこれほど柔らかくなるのか、と絶望した。
完敗した俺は、苦々しくも清々しい気持ちでこの家族を見守って行こう……そう密かに心を決めた。なのにやはりどこかしら、彼等の関係に無理があったのだろうか。灯の夫は妻以外の女性と、しかも娘の幼稚園に通う園児の母親と関係を持ったのだ。
物腰と語り口の柔らかい男だ。かといって、なよなよしている訳では無い。上背もあるし、ほどほどに鍛えているのか体には厚みがある。
厳つい見た目の俺とは、まさに正反対。俺は初対面で恐れられることが多い。だが、この男は俺と違って女受けするだろうなと、かつては敗北感と共に苦い気持ちを噛み締めたものだ。
だとすると無理をした反動というよりは―――その印象を全く裏切らず、妻だけでなく、妻以外の女にも優しくしたからこそ、こういった結果に至ったのかもしれない。
つまりロクでも無い男だ、ということだ。
今はただ、こんな男に負けを認め、なおかつ負け犬根性から「この夫婦を見守る」などと痛い事を考えていた自分ごと、殴ってやりた気持ちでいっぱいだ。
しかし離婚が決まり、灯の夫、悠馬は家を出て行った。
それからはもうその事は考えるまい、と誓った。俺は灯と、彼女の仕事と生活を支えることに専心すると決めたのだ。余計なことに脳の容量を使うのは止めて、ただ俺に出来ることをやろうと。
浮気発覚後、灯はあろうことか夫を許そうとした。
頭を床にすりつけ謝罪を繰り返し、夫は彼女と別れると誓ったらしい。灯は自分にも悪い所があった、娘には父親が必要だと―――寛大な決断をした。
しかし理性で抑えきれないほど、彼女の心は傷ついていた。内面は瀕死の状態だったのかもしれない、振り切るように仕事に打ち込む内に体はボロボロになってしまったのだ。
暫くして灯は倒れた。入院中のベッドに夫が近づくと体が震え、涙と頭痛が止まらなくなると言う症状に悩まされ始める。吐き気も収まらず、その為食事をとれず灯は見る者が辛くなるほど痩せ続けた。
とうとう妻の回復を妨げることを危惧した彼が、離婚を申し出るほど病状は悪化していた。
灯をひどく傷つけておいて、みっともなく縋る男を許せない、と感じていた。しかしこの男も最低限の羞恥心、良心は持ち合わせていたのだと、その時僅かに見直したのだ。とは言え、その原因となった行いに関しては、決して許そうとは思わないが。
一方、当の灯と言えば―――優し過ぎると言えるだろう。
最後まで相手を気遣い、離婚に至ったこと、娘を自分の手元に残してくれたことに謝罪と感謝を示していた。だからこそ、俺は一滴たりとも彼に温情を持つわけには行かないのだ。
俺は心の中で、灯に疑問をぶつける。
それは本当の、本心か? 本当は裏切りを許せないから、抑えつけた怒りと心の傷が体を侵したのではないか。俺にはそうとしか思えなかった。
もっと本心を晒して、もっと怒りをぶつければ良いのに。
でなければ、怒りも悲しみも消えはしないだろう。傷を癒すには時間が掛かる。けれども最初の処置が肝心なのだ。灯はまず、怒るべきだった。悠馬を殴り言葉で詰り、自らアイツを家から追い出すべきだった。そうでなければ、押し込めた思いは淀んでしまい、発酵してやがて爆発するだろう。それは目に見えていた。
しかし俺は―――灯に、そう助言しなかった。
いや、出来なかったのだ。ギリギリの所で、細い足を踏ん張っているアイツに何が言えただろう。それは罪のない彼女を、ただ追い詰めるだけの行為でしかない。
だからいずれこうなることは、目に見えていた。
二人の関係はその内瓦解するのだと、俺でなくとも事情を知ってしまえば予想は付いたのではないだろうか。当然の結末だ。
ただもっと時間が掛かるかと思っていた。もっとみっともなく、悠馬が灯に縋り醜態を晒すのではないかと思っていた。
だからアッサリ身を引き「灯を頼みます」と、頭を下げた男の潔さを目にした時。
俺はまた少し、あの男―――悠馬に負けたような気がしたのだ。