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無限の少女と魔界の錬金術師  作者: 安藤源龍
4.月の魔力は愛のメッセージ
213/265

ハミングバード・2




 ――本と落下の衝撃で、気を失っていたらしい。

 私は全身に感じる打撲の痛みで、目を覚ました。

「痛ったぁ〜……!!」

「ザラ、起きたか」

「んにょわぁい!?!?」

 びっくりした。真下からジークの声がすると思ったら。私は仰向けになったジークの身体の上に居た。

 この構図は……どうやらジークが自らクッションになって、私を抱き留めてくれたらしい。私の頭や背中にしっかり腕を回して、ぶつかる本からも守ってくれていたのが窺える。

「あっ、お、お、重いよね、すぐ退くね!!」

 反射的に飛び退こうとして、今度はジークに馬乗りになって跨るような形になってしまった。びっくりした拍子にバランス崩してひっくり返りそうになって、結局ジークに支えられるし。うえぇん。

「平気だ……。それより、怪我は無いか?」

「なっ、なっ、ないけど。ジークは?無事?」

「俺は……少し頭と背中を打ったかもな」

 ちょっと顔色悪いのはそのせいか……!そりゃいくら頑丈でも、いきなり訳も分からず落下して、人間一人庇いながら地面に叩き付けられたら無事じゃないよね。

 ――って、そっか。前に、魔界まで落っこちた時の経験か。

 一度私に及んだピンチは二度と味わわせない最強のパートナーは、最強ゆえに自己犠牲を選択してしまったのね。あちゃあ……私も油断してたな……。

「大丈夫……!?起き上がれる?」

「少し、手を貸してくれ」

 私の身体を支えていたジークの腕を引っ張って、上体を起き上がらせる。一瞬、その、抱き付かれたようになってしまってので、しっかり顔はガードしておきました。

 向き合ったジークは眉間を指先で解すと、周囲を確認するように目線を動かした。私もジークに倣って、自分たちの周りを見渡す。

「ここ、どこだろ……。ていうか、何で図書館からこんな所に……地下の下ってこと?」

「分からないが……俺が見たときにはもう、お前たちの足下にこの空間が広がっていた。それで咄嗟に手を伸ばしたんだが、後頭部に図鑑が直撃してな……」

「それは痛かったね……」

 一応たんこぶが出来ていないか診てあげよう……。

 ヘルメス魔法学校の地下図書館から唐突に繋がった、深い落とし穴のような空間には――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……外じゃん」

「……妙だ。転移魔法の気配は無かったし、幻術の類でもない――」

 ジークが腕を組んで思索に耽る。

 目の前にあるのは、確かに雄大な自然だ。爽やかな風で撒き上がる土煙も、草木の青臭さも、虫の鳴き声もある。

 なのに――どこか現実味が無かった。

 夢のような浮遊感の理由を求めるべく立ち上がった瞬間に、その正体が分かった。

 地面を踏みしめた感覚が無かったからだ。

 道端の小さな花も、頭を垂れた麦の穂も、触ったときの感触がまるで無いんだ。モビーディックで起きた、見せかけだけの火事みたいに。

 いや、あれとは違って、触ってるなあ、こういう形だなあってのは分かるんだけど、実際に手から情報が伝わってる感じがしないというか……。もしかしたら、他の匂いとか音についても同じかもしれない。

 うーん。でも、そういった魔術を感知していれば、ジークが絶対気付く筈だし。

 ――まるで絵本の中に入ってしまったみたいだ。

 人の話を聞きながら、その現場を想像している時の頭の中ような、二次元的な世界。

「ここは……覚えがある」

「ヒエン!?無事だったんだ!」

 頭を捻る私たちの傍らから、ヒエンがひょっこり姿を現した。本の雪崩から庇っただけあって、身体は大丈夫そうだ。

 ということは、しっかり一緒に落ちて来ちゃったのか。巻き込んで悪いことしたなぁ。

「あなた、ここがどこだかわかるの?」

「……書物の中だ。ぼくは長い間、ここに似た場所に閉じ込められていた」

「しょ…………」

 ヒエンがあんまりにも真剣な面持ちで言うので、むしろ一周回ってそういう冗談かと思ってしまった。

「またまたぁ」

 しかし、私がヒエンが求めているであろう反応を返して、彼女(?)の肩を叩くと、感謝の代わりに大層忌々しそうな視線を注がれてしまった。これ違うヤツやな。

 ――書物の中、ときたかぁ。

 隣のジークも首を傾げている。そりゃあ、経験ある人の方が少ないでしょうけども。

「なんか、でも……言われてみれば……」

「紙っぽいな……」

 ヒエンのジョークのセンスが多少ズレていたとしても、だ。この空間の異様さは、確かに他に説明のしようがない。

 “どこまでもリアルなハリボテ”。そう言われればしっくり来る。

 おとぎ話のような魔界も、天界も実際に存在していて、更には幻界のような場所まで生まれることもあるなら、本の世界の中に入る方が――まだ()()()だったりして?

 じゃ、まあ、一旦驚くのは置いておこう。それよりも。

「……何で?図書室だから?」

「数多ある名作の中には、あたかもその本の中で描かれた世界に誘われたかのようにさえ思えるものもあるだろう。それが魔導士の著書であるならば、尚更、摩訶不思議な現象と結びついても不思議じゃない。実際にぼくは、巻物の中に封印されていた」

「あー、うーん……ビミョーにそういうことじゃないんだけど……。要はいつもの……事故ってとこかな?」

「いや……。ぼくはずっと、呼ばれていたんだ」

 ヒエンは身を屈め、本物そっくりに模られた紙の地面を撫でていた。まるで捨て去った故郷を懐かしむような、切ない思い出を噛み締めるような顔で。

「脱出するには?」

「簡単じゃないか。綴られた物語には終わりがあるだろう。そこを目指せば良いに決まっている」

「……」

「痛ててててて何をするんだこの暴力魔族!?」

「何してんの」

「いや、ついイラッとして……」

 ジークが感情の赴くままにヒエンのこめかみを両方の拳で押して痛めつけていた。気持ちは分かるけど。

「何が魔族だ、とんだ蛮族じゃないか。きみたちのような連中と同じ扱いを受けるなんて、屈辱だよ」

「蛮族結構。お前、さては堕天使や荒魂の手合いだな。何、お前も今に魔界に染まる。まずは笑え、ほら」

「やめろぉぉぉ……!!」

 イジメっ子が居る……。ヒエン本人の人格はどうか分からないけど、一応身体は女性(モニカ)であるというのに、相変わらずジークは容赦なく関節技を()めていた。

「もー、遊んでないで、とにかく行くよ。ヒエン、慣れてるなら案内をお願いしてもいい?」

「ふん。きみたちがどうしてもと言うなら、仕方ない。ぼくが特別に導いてやらないこともない。本来、ボランティアなんか趣味じゃないんだが、今回はぼく自身の身の危険にも繋がりかねないからな。全く、感謝してほしいものだね……イテテテテテ!!」

「何してるんだ」

「ついイラッとして……」

 私まで怒りに任せてヒエンの頬っぺを抓り上げてしまった。この子、ある意味天才だと思うの。




.

.

.




 茜空を暫く歩いていく内に、物語の中で時間が進んだのか、辺りには夜の気配が近づき始めていた。

 夕陽に照らされて煌めいていた麦穂は、まるでケースに仕舞われたアクセサリーみたいに輝きを失う。

 畑を抜けると、大きな樹の下で、案山子と共に眠る金髪の少女のもとに辿り着いた。

 案山子と女の子はそれぞれ、お揃いのペンダントを首から提げている。

 瞼を伏せた女の子の口元には、吐血したような赤い雫の跡があった。そして、手元には、同じく血のような色のカップが転がっている。

「これが、この本の結末らしい」

「……本として読まなくて良かった」

 生憎、本に書いてある文章までは再現されていないみたいだけど。この状況を察して、苦~い気持ちになる私であった。

「ジーク、これ読んだ?」

「ああ。最後の解釈は読者に委ねられているが……俺は、案山子に意思があったのかどうかだけ気になるな」

「ええ~……?」

「案外、こういう物語も馬鹿に出来ない。特に土着の死生観には、その土地の信仰と風土が大きく関わってくるからな。何気ない童話であろうとも、そこには魔術のヒントが転がっている可能性がある」

「あっそ……」

 どこまで行っても研究しか頭に無いのが、逆に頼もしいような。繊細でロマンチックな情緒とかは本当に、一切持ち合わせてないんだなとか。普通、少しは思うところない?普通じゃなかったわ。

 まあお陰で、私も無駄に感情移入して悲しい気持ちにならずに済んだわ。

「行くぞ。次のページまで行けば、この世界から抜け出せる筈だ」

 ヒエンもジークと同じく、特に感想を漏らすこともなく、ずけずけと案山子と少女の最期を通り過ぎて行こうとしていた。

 モニカだった頃から変わらないお下げの結び目を追って、私たちもヒエンに続く。

 夜の麦畑を後にすると、その先は突然、真っ白に塗りつぶされた景色に変容していた。

「気配が近い!」

「あ、ちょっと、ヒエン!走らないでよーっ!」

「置いていくぞ!」

 とか何とか言って、肝心の案内役がいきなり飛び出しちゃうし。仕方ないから私もジークと一緒に走る。

 まっさらな紙の世界を駆け抜けて、駆け抜けて――

 突如、追い続けたヒエンの背中がぴたりと動きを止めた。

 ヒエンは呆然と立ち竦んでいるようだった。

 無理もない。

 出口だと思って見つけた白い背景の切れ目の向こうは、()()()()()()()()()()()()()()()()

 私たちはいつの間にか、前衛芸術作品のように、全てが斜めに傾いた、どこかの館の廊下らしき通路に足を踏み入れていた。背中には、入ってきたときと同じような切れ目がある。

 トンネルのように、遥か彼方の闇に向かって蛇行するように繋がる深緑のカーペット。

 壁掛けのコンコルディア照明に照らされているにも関わらず、何故だか明るいと思えない雰囲気は――怪談話のような不気味さがある。

「あの……ヒエンさん?これはどういうことで……?」

 廊下の窓の外で、落雷の音が木霊した。

「出口があるんじゃなかったのか?」

 問い詰めるような口調のジークだけど、密かに私の服の袖を引っ張ってるのよね。やめて、伸びるから。

 ヒエンは訝しむように考え込んだあと、はっと息を呑んで、一人でに膝を打っていた。

「分かったぞ……!本が幾重にも重なっているんだ!それも、開いた状態で!」

「なるほど!?」

 図書室に乱雑に積まれていた本が、互いに折り重なって落下した結果、本と本の境界である表紙と背表紙を無視して、こう、ミルフィーユかクロワッサンのように、互い違いのページが複雑に入り乱れるような事態になってしまった、と。非常に噛み合わせが悪い状態ってことね?

「ならこれは……まさか、ホラー小説の世界とでも言うんじゃないだろうな」

「そういうこともあると思う」

 ああっ。ジークの身体から生気が抜けていく。白目を剥くジークの魂をどうにか引き留めて口に押し戻すと、ジークは青い顔のまま固まってしまった。

「じゃあ、出口が見つかるまであちこち行ってみないと分からないってこと?」

「もしくは、誰かが本を整理してくれるまで待つか……いや、でも、閉館時間を過ぎたら教師や警備員は中には入って来ないし……」

「朝になれば誰かしらは異変に気付くだろう」

「え゛ーっ!!朝までここに居るの!?」

「……せめて、ここ以外の場所だな」

 頭を寄せ合っていたところから一転、三人で廊下の先の黒点を見据えた。

 とにかく今は、進んでみるしかない。

「ジーク、大丈夫。いざとなったら私が守るから」

「ザラ……さん……!!」

 いざという時に備えて、念のため(キャスリング)を取り出す。良かった、今日はちゃんと腰のホルダーにぶら提げてて。直前まで勉強に使っていたのが功を奏したわね。

 先陣をヒエンに任せて、私たちはカビっぽいカーペットの上を歩き出した。

 ――すると。

「ッ……!!」

「痛いタイタイタイタイ!!」

 私たちが歩いてきた後ろ――つまり、通り過ぎたそばから、壁の照明がふっと音も無く消えていく。

 ビビるジークに思い切り握り込まれて、私の手の灯火も潰えてしまいそうになりました。

「灯かりが消えただけじゃないか。大袈裟だな」

「そうだぞ、ザラ」

「覚えときなさいよ……」

 今はその濡れ衣も着ておいてあげるけどね。後で承知しないからね。

「本当に進んでるのか?一向に景色が変わらないようだが」

「? 何を言ってるんだ。変化ならあるじゃないか。ほら」

 疑心暗鬼になっているジークに、ヒエンが背後を指し示した。やめてあげてよ。

 恐る恐る振り返ってみるも――特にこれといった変化は無かった。ただ真っ暗なだけ。それでも充分、不気味ではある。

 ただ――雷雨が硝子を叩き付ける音に混じって――じゃらじゃらと、何かを引きずるような金属音が耳に入ってきた。一番近いのは……そうだ、魔法の鍋を吊るす時の、鎖の音だ。

 暗闇のどこにもその姿は無いのに、何か恐ろしいものがすぐ近くまで迫っている気配だけがある。

「ジーク、気付いてた?」

「自分の心音がうるさ過ぎて……」

 だめだ。ことここに至って最強の生物が一気にポンコツと化してしまった。

 私たちが一歩、また一歩と進むごとに、鎖の音も、同じ間隔で廊下に響き渡る。

「ぼくたちを追い詰めているつもりなのか?」

「なんだろうねぇ……」

「姿を現さないのなら、存在しないのと同じだ。何を恐れる必要があるというんだい?」

「おい、あまり刺激するな。怒りを買ったらどうしてくれる」

 ジークの表情から段々余裕が無くなっていく。彼の懸念も最もだ。だって、今まさに、ヒエンの挑発に乗せられた影の住人が、境界を踏み越えて、こちら側に干渉しようとしているんですもの。

 視界の端に、ちらりと覗く、真っ黒に焼けただれた人間の腕。垣間見えたのはほんの一瞬なのに、恐怖に支配された脳は、誇張した写真のように、その光景を鮮明に記憶する。

 固唾を呑むと同時に、耳元で誰かが笑う声を聴いた。吐いた息が震えて、なんとなく寒気を覚える。

「――走ろう!」

 私の提案に、ジークもヒエンも間を置かずに同意すると、即座に行動に移した。

 すると。駆け出した私たちの背に縋りつくように、真後ろの影の中から、先ほど見かけた腕が伸ばされた。

「うわうわうわ!!出てきたぁ!!」

 私たちによって引きずり出された影は、大きな人の形をしていた。といっても、足の付いた生者のものではない。

 黒いローブを纏いながら、フードの下には虚空が広がっている。

 死体のような腕には、鎖に繋いだ大鎌を携え、私たちの(いのち)を刈り取ろうと盛大に振りかぶっているし。

「死神だ……!!」

「そんな感じするーッ!!」

 それはまさしく、おおよそ大多数の人間が“死神”という言葉を聞いて思い浮かべる異形だった。

 足も滑車もついていない風船のような身体で、“死神”は恐ろしいスピードでこっちに向かって迫ってくる。ちょっと、かなり、凶悪なパペットって感じね!

「恐らく狙いはきみだ、ザラくん!」

「出たよ〜!!」

 な~んで架空の世界の中でまで私がいの一番にターゲットにされるんですか。

 ひえええ。速度を上げても死神を振り切ることが出来ない。一度定めた標的は絶対に逃さんぞという強い意志で、死神はいつまで経っても私に向かって一直線だ。

 しかも、これだけ走っても、肝心要の“出口”にも辿り着きそうにない。廊下の先に見えるゴールらしきものは、蜃気楼のように近づけば近づくだけ遠ざかっていく。

「ぼくが……歌さえ、唄えれば……」

 歯噛みしながら呟いていたヒエンは、何かを決心したように死神に向き直った。

「ぼくが囮になろう」

「ヒエン!?」

「この程度、ぼくが何とかしてやる。きみたちは出口を探すんだ」

 腰から提げた刀を引き抜いて、ヒエンは死神と対峙する。

 私も立ち止まりたかったのに、気を取られた瞬間、ジークに足下から掬われて、無理矢理に抱き上げられてしまった。

 死神の鎌を刃で受け取めるヒエンを横目に、私はジークによってどんどん彼等から引き離されてしまう。

 小さくなっていくヒエンの後ろ姿に手を伸ばし掛けたところで、今度は急にジークの力が強くなった。

「扉だ!飛び込むぞ!」

「でも、ヒエンが……!」

「悪いが後だ!今は大人しく守られてくれ!」

 今まで、長らく単調な壁の模様を描いていただけの景色に、突如として一枚の扉が現れた。

 まるでこうすることが切欠だったみたいに、仕掛けのように出現した重い扉を潜って、力任せに閉じる。

 廊下から漏れる光の帯さえ閉め出して、二人分の体重で封をすれば、ひとまずの危機からは回避できた……ように思えた。ヒエンも無事だと良いけど……。

「暗いな……。ザラ、そこに居るな?」

「うん。これ、ジークの手で合ってる?」

「ああ。無事だな」

 扉を越えたということは、恐らくは部屋に繋がっている筈だけど。

 私たちが隠れるように逃げ込んだ部屋は、廊下にあったような照明もなく、ただ静かな闇に包まれていた。

 ジークと共に、互いの居場所を探るように触れ合っていると、肩ごと手繰り寄せられて、ジークの胸の中にすっかり収められてしまった。まだ二人とも、心臓がばくばく脈打っている。

「灯かり、点けようか?」

「いや、これで事足りる」

 ジークが何かをまさぐる気配がすると、次の瞬間には、眩いほどの光が部屋の中で溢れた。きっと、鍵の魔法倉庫から魔法のアイテムでも取り出したんだろう。

 ――そこまでは良かった。

「「…………!!」」

 目を覆いたくなるような閃光の下で露わになったのは――今しがた廊下で襲い掛かって来たばかりの、死神の()()だった。

 部屋中に隙間なく、みっちみちに詰まった死神たちが、私たちを囲んでいる。

 全身が総毛立つ。一気に体温が下がって、呼吸が逆流しそうになった。

 死神たちが、合図も無いのに、一斉に鎌首をもたげた。

 じゃらり、と。鎖が絡み合う。

 ――そこで、死神たちの動きは、凍り付いたように停止してしまった。

「ああ……。死神がこんなに沢山。まさしく、エヴァーストリング氏による『アゴラフォビア』の世界ですね。フフフ、こんなものが“死”の象徴なんて。彼等を使い魔として使役できれば、きっと、もっと沢山の実験体(クランケ)が手に入りますねぇ」

 ジークのものでも、ましてヒエンのものでもない男性の声が介入してきたかと思うと、死神たちは、まるで命令でも下されたように同時に鎌を下げて、俯いてしまった。

「誰だ……!?」

 幽霊のように壁を()()()()()、一人の獣人の男性が部屋の中に進入してきた。

 羊の角と顔を持った男性は、ペットでも愛おしむように、眼鏡越しに恍惚の視線で死神たちを仰いだ。

 まさしく、彼が死神たちを手懐けて、従えているようだった。

「僕はシルヴィウス・シファー。死を超越する者です。」

 獣人の男性――シルヴィウスさんはそう名乗った。

 この状況で微笑みを浮かべられるなんて、絶対にヤバい人だ。そう直感した。

「……あなたもこの本の登場人物ですか?」

「いいえ。どうやら僕の著書と混ざってしまったようですね。まさか僕が現実の僕と切り離されて、あまつさえ本の中の世界で生きているなんて。今の僕をどうにか保存して、全身を解剖したいくらいですね」

 ようやく話の通じる人が出てきたと思ったのに。なるほど、ヒエンの言った通り、本と本の境界がぐちゃぐちゃに入り混じっているなら、私たち以外にも世界を跨いでいる存在が居てもおかしくない。

 僕の著書――ということは、作者本人であって、本人じゃない……ってことかな。自叙伝とか研究書とか、そういうのだろうか。じゃなきゃ壁、摺り抜けないよね。

「ですが、僕が僕である以上、こんな好機を逃す訳にもいきません。ここの死神たちは須らく――僕の魔術の糧にします」

「ひえ……」

 そう言ってシルヴィウスさんは、両手にメスや注射器、怪しげな薬の入ったフラスコ、人骨や釘のようなものまで取り出して、死神たちの前で構えだした。

 私がその光景にドン引きしていると、扉の向こうから、今度こそ見知ったヒエンの声が上がった。

「開けてくれ!!」

「ヒエン、大丈夫だった!?」

 ドアノブを回すや否や、ヒエンが身を縮めて転がり込んできた。

「……平気だ。ただ、ぼくの予想よりも丈夫な出来をしていた。きみたちの方が心配になったから、戻ってきただけだ」

「要は逃げて来たんだな」

「戦略的撤退だと言ってくれ。時間さえあれば、あの程度ぼくの敵じゃない」

「ハイハイ、さすがだねー」

「ふん。もっと褒めて良いぞ」

 都合の良いお耳で羨ましい限りです。

 扉を閉める瞬間に、廊下で私たちを追ってきた死神の鎌の先が掠めたので、間一髪というところだったのだろう。地味に危なかったのね。

「おやぁ、実験体がもうひとつ。魂の分離体ですか?それとも遺体ではなく生身の人間への降霊?一体どんな生贄と術式で再現したのか、非常に興味深いです。血と唾液と髪の毛だけでも分けて頂けませんか?フフフ……」

「か、……彼は?」

「なんか、別の本から来たらしいよ。その人が死神を押し留めてくれてるみたい」

 常時自分が世界の中心にしているヒエンですら、シルヴィウスさんの独特な挨拶には面喰っていた。

 しかし、彼が介入してきてくれたお陰で、難を逃れたのは事実だ。

「……どこかで」

「どうしたの、ジーク」

「いや……」

 そんなシルヴィウスさんを見つめながら、ジークが考え事をしていた。何だろう。こういう時は確証が持てるまで、とかって理由で口にはしてくれないから、スルーしか出来ない。

「さあ、どうぞ皆さんは行ってください。僕が来た方に行けば、多分この世界からは抜けられる筈です」

 一体の死神に注射針をぶち込みながら、シルヴィウスさんは、彼が登場した壁際を指差した。

 よく見ると、そこには、今まで通ってきたような、空間の切れ目があった。剥がれかけのシールの角のような、僅かな綻び。

「あ、あの、ありがとうございました!お陰で助かりました!」

「いえいえ。僕は私利私欲のために行動したまでですから。むしろこちらこそ、彼等を惹きつける餌になってくださって、ありがとうございました……」

「……いいえーとんでもなーい」

「コミュニケーションを放棄するなよ……」

 死神の巨体越しのシルヴィウスさんの薄ら笑いが、あまりにも悍ましかったので、つい目を逸らしてしまった。今日イチ肝冷えた。あれは真性だ。生粋だ。

 シルヴィウスさんがやって来た境界線の先は、彼の言った通りに、死神たちが跋扈するホラーテイストの内容とは打って変わった風景に包み込まれていた。

 ひたすら膨大に積み上げられた書類や、本の束。そのかたわらに転がる、いかがわし気な魔術の道具や、並び立つ墓や棺桶。

 モチーフは同じなのに、ここには不思議と、“死”のイメージが持つ冷酷な雰囲気は無かった。

 ここは多分――その、例のシルヴィウスさんの著書、とやらの世界だ。

 彼の蓄えた知識と経験が、ありのまま、乱暴なほどに散りばめられている様子から察するに、きっと、この世界(ほん)は研究書や論文のようなものなのかもしれない。

「シルヴィウス・シファーか……」

「思い出した……!以前読んだ蔵書の中にあった、死霊術(ネクロマンシー)に関する本の著者だ!」

「! そうだ!モニカの記憶もそう言っている!」

「へえ~。有名な人なの?」

「「悪い意味で」」

 ジークとヒエンの声が揃う。そっか。






.



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