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無限の少女と魔界の錬金術師  作者: 安藤源龍
3.双子とホムンクルスと、時々オトン。
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ガールズ・ドント・クライ・2




「ザックくん、そろそろ起きないと遅刻しちゃうよ~!」

 一階からでも響く父さんの声と同時に、カーテンの隙間から差す陽光を煩わしく感じて、目が醒めた。


「は………………え?」


 ――あれ。何かおかしいな。

 俺、目覚めるようなタイミングだったっけ?つか寝た?いつ?やばい、昨日の記憶が無い。

 あれか、魔界帰りで疲れ過ぎてたのか。頭のなかに霧がかかったみたいに、どうにもぼんやりする部分がある。

 落ち着け。なんともいえぬ違和感を探るため、ぐるりと周囲を見渡す。

「俺の……部屋だ」

 いやそらそうよな。見覚えしかない。

 試しに近くの物を色々触ってみるが、どれも馴染みのあるものだ。

 制服、杖、鞄……至って普通に、いつも使ってるままだ。これが女物にでもなっていたら、卒倒モンだ。

 うーん。何か……すっげー大事な用事の途中じゃなかったっけ。物凄いリアルな夢でも見てたのか。

「ザックく~ん!!」

「今起きたって!」

 ともかく今は父さんがうるさいからさっさと下に降りて朝飯食おう。悩みがあろうと学校には行かなきゃいけないのが学生の辛いところだ。

 顔を洗い終えてダイニングに着くと、既に俺のぶんの食器は無かった。

「ほら~も~食べてたら列車間に合わないよ~。サンドイッチ持って行って、列車の中で食べなさい」

「ありがとう。そんなヤバい時間?」

 父さんからサンドイッチの入った紙袋を受け取るついでに、時計を見る。なんてこった。あと五分で支度をしなければならない。

「言ってよ!!」

「何度も起こしたってば~」

 その口調だと急かされてる感がないよ。

 俺の父さんは昔っから、俺が物心つくころからこんな感じのおとぼけオジサンだ。一応は業界でも名の知られたプロの魔導士なのだが、父親としての威厳は多分ない。

 男で一つで俺を育ててくれていることに感謝と尊敬はしている。あと怒ると一応怖い。子供の頃は、友達の父親を見て衝撃を受けたものだ。

 さっさと自分の部屋に取って返し、普段はのんびり支度するところを五割増し適当に済ませて、三倍の速度で着替えて、残りの時間を髪のセットに割り当てる。なんて完璧な計画なんだ。男は髪と歯が命!四分弱を体感で抑え込み、勢いのまま玄関口へ疾走する!

「行ってきます!今日の晩飯、俺だっけ?」

「そうで~す。走って怪我しないようにね~」

 行ってらっしゃ~い、という間の抜けた見送りにズッコケそうになりながら、駅までの道を駆け抜ける。

 この後に来るのを逃したら、遅刻確定だ。アイスキュロス先生とネブラ先輩に見張られながらの反省文だけは、ご勘弁願いたい。




.




 無事、学園に到着。父さんが持たせてくれたピーナッツバターのサンドイッチと、オマケのリンゴサラダも道中で腹に収め、授業を受ける準備は整った。

 強いて言うなら時計とハンカチ忘れたくらいだ。いいんだ、財布と鍵さえ無事ならあとはどうとでもなる……。

「おはよう、ザック」

「おーっす」

「おはよ……ビリー、プリエラちゃん」

 校舎の入り口には、親友たちの姿があった。

 魔物学科のギャル男ビリーと、占星術科の最年少優等生・プリエラちゃん。

 どちらも専攻する学科こそ違えど、合同演習で知り合って以来からは、気の置けない友達だ。

 優男にチャラそうな獣人と半身義肢の幼女というトリオは、傍目から見たら結構奇妙な集団らしいけど。

「駅から見かけないから休みかと思った」

「いや……ちょっと寝坊しかけて」

 何で寝坊したかは覚えてない。

「何か……そんなんだっけ?二人とも……」

 ……ふと。二人を見て、またしても不思議な感覚に囚われた。

 確かに目の前に居るのは、ビリー・エンゲルハートとプリエラ=アルコノギア、本人たちの筈。

 俺と同じく、昨日と比べて変わったところもない。

 派手なビリーと、ちっさいプリエラちゃん。

 むむむ……俺は何故一人で正解のない間違い探しに興じているのか。

「はー?寝惚けてんの?顔洗ってきたほうがいいんじゃね」

「そうかも……」

「熱でもある?医務室まで付き添おうか?」

「そこまでじゃないと思うけど……やばい。何か、ボンヤリしてるかもしんない。マジで顔洗ってこよかな」

「辛くなったらちゃんと休んだほうがいいよ。ハンカチある?」

「自分より年下の女の子に心配されている……」

 見た目の割りに世話焼きだよな、プリエラちゃん……。

 学科の違う二人とは一旦別れて、俺は教室に向かう途中の水道で、本当に一度冷水を浴びてみた。顔にだけだけど。

 冷たい水を掬いあげて、今日はじめて、自分の掌をまじまじと観察した。

 ――自分の身体の一部の筈なのに、どうしてこんなに、遠く感じるんだ。

 繋がってる。俺が思った通りに動いてるんだからそりゃ、俺以外のものである訳がない。

 顔の皮膚を伝う水滴ひとつさえ、現実感が無い。濡れている。温度がある。飲んでみても、普通の水だ。

 ……何かが変だ。何がヘンって、具体的に言い表せないのが余計にヘンだ。

 無い頭を捻っているあいだにも、時間は流れていく。 

 予鈴が鳴り響き、俺ははっと我に返った。

 相談するにしても――アイツと会えるのは昼以降だ。それまでは、せめてつつがなく学園生活を過ごさなくっちゃな。

 黒魔術科の教室に飛び込み、座れそうな席を探していると、クラスメイトのヒスイが隣に来るように手招きしているのを発見。タカハシ先生にイチャモンをつけられる前にさっさとそこへ腰を降ろした。

「ザック、今日はビリだね」

「そーなんだよ。何でだろ?」

「ふふ、知らないよー。珍しく寝坊?髪、後ろのほうすごいことになってるよ」

「マジか。もー無理、やる気失くした」

 ヒスイはたしか一、二個年上だけど、半年くらい休学していたとかで、今年から同じ教室で学ぶようになった友人だ。

 そのせいかは分からないが、俺や周囲の男連中より遥かに落ち着いている。まるでひとつ分の冒険を終えた勇者のような貫禄。こういうのがモテるんだろうな。本人は美人の彼女いるけど。

「みんなオハヨ~。あと二分あるから寝てていいよー」

 俺のすぐ後に、サラ=タカハシ先生が気怠そうに教室にやって来た。

 アトリウム王国には珍しい黒髪黒目にスーツ姿で、相変わらずの性別不詳・年齢不詳。

 生徒に対しほぼ無関心であるにも拘わらず授業の時間だけは誰よりも厳守するという徹底したビジネス教師で、私情が殆ど無いぶんむしろ付き合いやすいと評判だ。

「あ、おい!ノーフォード、アクワイア!勝手にプリントを集めるんじゃあないよ!授業が始まってからにしろ!」

 時間を稼ぐ為なら生徒の好意すら無下にする大人。どんだけ授業やりたくねえんだ、この人は。




.

.

.




 胸に嫌ぁなしこりを抱えたまま、昼食時になった。

 中庭でビリー、プリエラちゃんと再会し、俺は自分を誤魔化すために、いつもより食っていつもより喋ることにした。おばちゃん、日替わりランチセット、特盛りで。

 今日は魚介のフリッター盛り合わせとトマト入りのチーズオムレツ、付け合わせにざく切り野菜がぎっしり入ったポトフと、デザートは冷凍ブドウとナッツか。

 てか朝があれだったし、めっちゃ腹減ってんのも事実なんだよな。

「ザック、調子良くなったんだね」

「あー、うん。なんていうか、食べて忘れることにした」

 俺が白身魚のフリットにがっついてるのが余程珍しかったのか、プリエラちゃんが感心したように俺をまじまじ観察していた。

「シュリンプ一個くれや」

「ヤだよ。ビリーは自分のメシがあるでしょうよ」

「かて~~~コト言うなし!減るもんじゃねーじゃん」

「減るんだよ!ヤメロ~~~!!こっから入ってくんな~~~!!」

「食事中にふざけないの」

 ハンバーガー片手に俺の皿に容赦なく侵攻してくるビリーのフォークを必死に防いでいたら、普通にプリエラちゃんに呆れられた。や、これはマジで真剣勝負なんですって。聞いてる?

 ともかくこのアホに横取りされない内に平らげなくては。行儀が悪いと分かっていても、俺は無理矢理にフリッターを頬張る。

「ぶっはは!ほっぺパンパンじゃん!うちの弟がよくやるわソレ」

「ふぉあえふぃふぁいふぁいいひははいあひふぃふぁひうふぁあおお(お前みたいな意地汚い兄貴が居るからだろ)」

「なに言ってんのかわかんね~~~!うひゃひゃひゃ」

 ビリーのとこは兄弟多かったか。俺は一人っ子なのでちょっと羨ましい気もするが、どうしてもこの、下に弟妹いるやつらからの生暖かい視線には慣れずに照れくささを覚えてしまうよ。

「プリエラはまーたブロッコリー残してるし」

「……身体が受け付けないってことは。わたしには不必要な栄養だってことだよ」

「いやいやンなワケねーから。ほら、口開けな」

「ちょっと……その青臭い物体を近づけないで」

 このやり取りも幾度となく繰り返してきたなぁ……。食事中でも周りを気にしてるのは、ある種ビリーの長男としての職業病みたいなものなのだろうか。

 エンゲルハート家の晩餐に混じったことも何度かあるが、大層賑やかだったのを覚えている。まさに戦場だった。

「オメ~んち農家だろ。ありがたみとかねーの」

「無い。例えわたしがブロッコリー農家の娘だったとしても、卸してるのは学校と提携してる飲食店であって生徒個人じゃないから、ここでいくら廃棄されようがウチの経営には関係ない」

「おい、ガキがつべこべゆーなし。食え」

 ビリーの注意がプリエラちゃんに向いている隙に、俺はポトフを飲み干す。目の前で新たな攻防が繰り広げられているところ悪いな。

 つか、コワモテギャル男が幼女の口にブロッコリー刺したフォーク押し付けてる絵面、どうなん。

「ヤメテ。本気で。ブロッコリーなんて凝縮された森じゃん」

「何だよギョーシュクされた森って。めっちゃウケる」

 ちょっと俺も吹き出しちゃったじゃん。

「もー。もったいね。オレが食うから、皿ごと寄越しな」

「……ん」

 観念したビリーの前に、プリエラちゃんが綺麗にブロッコリーだけ残された小皿を押し出した。器用だなぁ。

 そんな光景を見ていると、しみじみ癒される。

「ビリーって何だかんだ兄貴だな」

「あーね。わかるわ。気が付くと世話焼いちゃうんだよね。男前すぎてヤベーな」

「自分で言うし」

「つか弟と妹がさー、プリエラと同じくらいだから。どーしても同じ感覚?的な」

 うーむ、ギャップの男だ……。ビリーがプリエラちゃんの頭を乱暴に撫でると、プリエラちゃんはその手を迷惑そうにはたき落とした。

「これでもわたし、君たちと同級生なんだけど」

「お、俺はプリエラちゃんのこと尊敬してるよ」

「当たり前でしょ……。むしろ君たちはいつ尊敬できる年上になるの?」

「かわいくね~~んだよな~~~!!」

 二人のやり取りに、自然と頬が緩む。猫のじゃれ合いみたいなものだ。

 プリエラちゃんはちょっと小さいだけの先輩といっても過言じゃないほど頭、脳も精神も俺たちより一回り以上成熟しているのに、彼女の凄さをよく分かっていないビリーだけはいつまで経っても子ども扱いを続けている。

 もしかしたらプリエラちゃんにとっては特別扱いされることの方が当たり前で、逆にビリーの接し方が斬新だからこそ、深く長い絆を築けているのかもしれないな。

「何ニヤついてるの、ザック」

「いやー別に……」

「隙ありィ!」

「あーっ!!」

 友人二人を温かい目で見守っていたら、ブドウを盗まれた。この……泥棒猫……!!

 俺がビリーの頬を全力で抓り上げて反省を促すと、ようやくビリーは大人しくなった。

 食後は中庭に出て、しばらく雑談に花を咲かせた。

 授業のこと、友達のこと、家族のこと、バイトのこと……。俺の今日の調子の悪さの原因が少しでもわかるかと思って熱心に聞いても、やはり正体は掴めないままだった。

 どの話題に触れても、納得が出来た。とても俺の奥底が危惧しているような、辻褄の合わなさなど無い。不気味なくらいに完璧に一致している。

 何だよ。俺だけなのか?――今まで、こんな風じゃなかった筈なんだ。

 俺の昼食気晴らし作戦も無駄に終わり、一日の授業を終えて陽が沈んでくると、いよいよ居心地が悪くなってきた。

 誰に訊いても俺の疑念のような違和感を理解してもらえない。

 ――それこそが証拠じゃないのか。

 これだけ魔導士が居て、一人も共感してもらえないなんてこと、あるのか?

 俺がアンリミテッドだから……?

 ……いや。アンリミテッドだから分かるなんて感覚、生まれてこのかた一度も体験した記憶ねーし。

 胸がざわつく。こういう時は妙にあいつの顔が見たくなる。

 俺はヒスイの誘いを断って教室を飛び出すと、そのまま速足で中庭へ向かった。

 途中の廊下で友人のグレンとロジェロのバカップルに呼び止められたり、珍しく地上に出ていたモーリスが抱えきれず落とした本を拾ったり、ディアナちゃんとマーニちゃんのコンビに遭遇するうち、俺の中の不安は大きく膨らんでいった。

 全員が知っているようで――知らない誰かに思えるのだ。

 全員が俺の知り合いの皮を被って、演技をして俺を騙しているんじゃないか。そんなバカバカしい妄想にすら憑りつかれそうになる。

 中庭から続くカフェテリアの窓に、またしても見知った人影があった。

 二人の女子は俺を見つけるなり手招きして、中に入るよう促した。

 ヤツの姿を追っている俺としても、学園内で一番親しいであろう彼女らに話を伺いたいところだ。

「ネブラ先輩、ミヤコ先輩」

「あ、ザックくんちょうどいいところに」

「チッ」

「いきなり舌打ち……!?」

 三年生で首席のネブラ・グリュケリウス先輩と、学園最強魔導士のミヤコ=アカツキ先輩は、いつものようにふてぶてしく足を組んで席に腰掛けて、ミヤコ先輩の煙管から漂う紫煙のなかでカードゲームに興じている最中だった。

「あはは。ネブラってば、さっきあの子にフられたから機嫌悪いの」

「フられてない」

「ザックに会いたいからって、きっぱり言われたじゃない」

 俺からしたら機嫌の良いネブラ先輩をお見かけしたことがねえんですが……。

 あの子、とはまさに俺が探している張本人のことだろう。三人が友人であることは変わらないが、その割りにはお互い雑に扱っている印象がある。

「あいつ、どこに行ったかわかりますか?」

「研究棟のほうをウロウロしてたと思うよ」

「どうせまた取り巻きに呼び出されてんだろ」

「最近多いよねえ~。私たちのお陰かな?」

「……」

「ヤダ、ザックくん顔こわ~い」

「男の嫉妬は醜いぞ」

「失礼します!」

 先輩がたの煽りを背に、俺は人探しを再開することにした。誰が共依存メンヘラバキバキ彼氏か。

 この人たちに付き合ってると神経が持たない、色んな意味で。

 ――と、そうだ。

 その前に、この学園内でもトップクラスに頭の切れる二人に訊ねておかなくてはならないことがある。

「あの……」

「なに~?」

 顔の半分に火傷を負った令嬢と、黒狐の獣人女性を改めて見比べる。……いや、人をあんまりジロジロ見たら失礼だけどさ。

 ――記憶を精査する。

「ミヤコ先輩って、毛皮、他人に触らせないですよね?」

「え?う、うん。好きな男の子以外には触ってほしくないかな~!」

 わざとらしく、でも可愛らしくウインクするミヤコ先輩に、ですよね、とだけ返して。俺は研究棟への道を急いだ。

「何アイツ、キモッ」

「様子ヘンだったね~」

 背後から先輩たちの会話が聞こえてくる。うう。女子からのガチトーンのキモイ発言はめっちゃ心抉れるけど。

 これでハッキリした。

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 あの首回りの毛並みの感触をはっきり覚えている。

 しかし、俺とミヤコ先輩の間には、一切、ビタイチ、彼女が言うような関係は無い。

 誰かの席に別の誰かが置き換わっているのはいいとして、やり取りそのものが無かったことになってんのは、いくら何でも、だろ。この世界はぶっ壊れてる。




.

.

.




 ワインレッドの髪が風に靡いて、黄昏色に輝く。それは彼女の故郷によく似た光景だった。

「ザック」

「ジークリンデ」

 魔界の大公、ジークリンデ=ハーゲンティは、その過敏な聴力で、俺が呼びかけるよりも速く、こちらの気配を察した。

 燃えるような金色の瞳の中に俺の姿を閉じ込めて、不敵に笑って見せる。

「どうしたの、そんな泣きそうな顔して」

 そうしていつも、俺が一番暴かれたいと思っている真実を、容易く見透かす。

「そう見える?」

「貴方の事なら何でも分かるわ」

 ふふん、と鼻を鳴らして得意げにするジークリンデに心底安堵したのだが、絶対口には出さないでおく。あとでどれだけ調子に乗るかわかったもんじゃないからな。

 俺は研究棟の煉瓦の壁に背を預け、全身に回った毒素を放出するように溜息を吐いた。

 俺の険しい表情を覗いたジークリンデも、俺に倣うように隣に寄りかかった。

「……ジークリンデ。俺……おかしくなったのかな?」

 俺の呟きにもジークリンデは眉一つ動かさず、ただそっと俺の手を握った。

「大丈夫よ。ゆっくり話して」

 ――いいやつだな、こいつ。魔族特有の皮膚の冷たさが、今は心地良い。

「何か……すごい大事なことを見落としてるみたいな……俺が……俺じゃないみたいな。世界がいつもと違うように見えるんだ」

 一縷の望みを懸けて、全てを吐露した。

 なんなら“コレ”は、今朝起きたときから始まっている。

 それが、みんなが感じていることならまだいい。

 問題は、俺が孤独だということだ。まるで味方のいない結界の外で必死に叫んでいるようなものだ。

 藁にも縋る思いで相談したのに、返ってきたのは、

「それはきっとアレね、私に恋してるから世界が輝いて見えるのよ」

という不遜な答えだった。

「どっから来るんだよその自信……」

「ザック。例え何があっても私が貴方の味方よ。貴方の為に私が居る。独りじゃない」

「……大ゲサなヤツ」

「至って真剣だけど」

 いやふざけてるだろ、真顔やめろ。澄まして黙ってれば背筋が凍るような美人なのにな。なぜ頭の中が恋愛脳に支配された残念なせいぶつになってしまったんだ。その原因の一端が俺にもあるというのが悩みの種でもあるわ。

 ――まあ、でも。

 こいつの根拠の無い自信や激励に、俺は何度も救われて、寄っかかってきたのも事実だ。

 バカみたいな自信家で高飛車で、だけどその芯が揺らいだことなんか無くて、その強さに惹かれている。

 きっとこいつが男でも女でも、どこで出会っていようとも、俺はジークリンデという魔族に憧れる。

「……俺、このまま、ここに居ていいんだよな……」

 らしくない弱音が出るのも、ジークリンデへの信頼からだ。

 何だっていい。間違っててもいいから、偽物じゃない確かな言葉が欲しかった。頼むから、証明してくれ。

 ジークリンデは俺の瞳を射すくめるように真っ直ぐに捉えると、視線を通して体温を送るようにゆっくりと瞬きをした。

「私は、貴方に側に居て欲しい。貴方の為なら世界中敵に回したっていい」

 想像を上回るような、あまりにも真剣な面持ちでそう言うもんだから、俺はつい、堪えきれずに吹き出し笑いをしてしまった。

「世界中って……俺、何したんだよ」

「うーん……公然カッコイイ罪とか?」

「訳わかんねー」

 てか俺のことそんなにカッコイイとか言うのお前だけなんですけど。これだけの女子に褒められると自分がいい男だと勘違いしちゃうからやめてくんねえかな。

 ……とか思っていたら、なぜだかジークリンデが目を瞑って静止していた。

「……お前ソレは何待ちなの?」

「キス待ちに決まってるでしょう!今ので私のことを愛おしいと思わないの!?」

「ヒスんなや……」

 声でけえし。やめてくれませんか、こちとらお前さんが一言キャーと叫べば立場も権利も何もかも失うんですよ、もっと丁重に扱えください。

 俺の抑止もお構いなしにジークリンデはどんどん距離を詰めてくる。やめろ。

「じゃあキスはいいから結婚して」

「何がじゃあだよ。てかそれなんだけど、お前マジで魔界でも俺のこと言いふらしてるだろ。婚約者だって」

「嘘は言ってないわ」

「俺の意志は無いのかよ!」

「私のこと好きでしょう!?」

「それとこれとは別だ!そのー、さ、最低三年はだな……」

 いつものように、隙あらば俺に抱きつこうとするジークリンデを避けているうちに取っ組み合いになる。くそ、こいつ腕力ハンパないな。

 ふぬぬぬぬ、例え身体能力三倍の魔族相手だろうと負けるか……!!

 傍から見たら本気で手押しレスリングやってる謎のカップルに見えることだろう。けどこうでもしないと俺はあっという間に既成事実を作られてしまう……!!何よりもそれが恐ろしい……!!

 研究棟なんだし、誰か助けでも通りかからんものかと、一瞬よそ見をしたのが敗因だった。

 勢い余ったジークリンデにタックルされ、俺はキツめに尻もちをついた。

 てめえ、と声を上げようとジークリンデより先に立ち上がったとき――研究棟の裏に消えていく二つの人影が、ふいに視界の端に入った。

「フュルベールくん、ベルナールくん……」

 気が付くと俺は、ジークリンデを放って走り出していた。

 悪夢の扉を開ける鍵を見つけたような感覚。路傍の石のなかに、欠けていた筈の自分の身体の一部を見出したような。

 あの二人を――追わなければ。きっと俺はこのまま形のない恐怖を抱き続ける。

 その間にも、頭のなかは混濁していく。

 ここはどこだ、俺は、私は誰だ。何をしていたんだっけ。追え。何を。兄弟を。姉妹ではなくて兄弟を。

 走っても走っても蜃気楼のように追い付けない。学校の敷地内がこんなに広いわけないのに、どこまでも永遠に煉瓦の空が続く。

 音はしない。声もしない。匂いもしない。光もない。気配もない。ただ足を動かし続けないと、俺は、私は、僕は、もう戻れなくなる。

 戻るって一体?

 学園を過ぎ、町を過ぎ、川を越えた先の丘に、二人は待っていた。訊きださなければ。

「何で……何で君たちは変わってないの!?」


「何のこと?」


 ――え。

 私は、フュルベールくんとベルナールくんに見上げられていた。

 私が大きくなったんじゃない。二人の人影は、兄弟の面影を残した子供にいつの間にかすり替わっていた。

 一体……一体何が。

 私は確かにあの子たちを追っていた筈。

 動悸が、激しくなる。これは、走って来たから、息が苦しいの?それとも、目の前の不気味な現象によるもの?

 私の息切れが、虚しく響く。

 私の言葉の代わりに、有翼の少年が、待ちぼうけを食らって困惑している兄弟たちのもとへ駆け寄った。

「グリムヴェルト……何で、お前まで」

 ――あれ。

 私の喉から出たのは、私の声じゃなかった。

 低い男性のもので、思っていたこととも少し違う台詞が飛び出した。

 咄嗟に自分の首元を確かめてみると、なんだかごつごつしてた。もう、ほんとにどうなってるのよ。

 その手だって、黒い革の手袋を嵌めていて――まるで、じジークの体の内側に、私という幽霊が入り込んで、彼を通して物事を見ているような不思議な感じがした。

 ……いけない。気を取られてたけど、目の前には――因縁の宿敵・グリムヴェルトが居るんだ。

 彼が登場するのに場所や時間を選ばないのは分かっていても、つい、ちょっと、情報量が多くて。

 でも――今日のグリムヴェルトはいつもと違う……というか……。

 敵意が感じられない。幻魔を引き連れている様子もないし。

 むしろ私を窺う視線には――親愛、すらあるような。

「父さん、どうしたの」

「と……!?」

 グリムヴェルトは突然そんなことを言い出した。言うに事欠いて。お母さんですらなく。

 しかしこの場で、その呼称に驚愕しているのは私一人で、幼くなったフュルベールくんとベルナールくんも、笑顔で近づくグリムヴェルトの姿を見るなり、無邪気に丘に生えた木に登り始めた。

 ここが……所謂、現実じゃないのは、分かる。

 何せ記憶がハッキリしない。だからこそ、ここが正常な時と空間を持っていないことは、何となく察せられる。

 私は……もう、自分の名前すら思い出せないけど、とにかく今ある“私”という自我だけは、強く持っていいなくちゃならない、そんな意地だけが、私の正気を保っているような気がする。

「お父さん、こっちこっち!」

「二人とも遅いよー!!」

「兄さんたち、走るの速いんだから。……待ってよー!」

 子供たちとグリムヴェルトは、本当の兄弟のように、じゃれ合いながらどんどん先――見えない光の向こうを目指して進んでいく。

 私もそれを追いかけるのに、何故かやはり、途中で見失ってしまう。

「フュルベール、ベルナール!!」

 自分の身体から出ているとは到底実感できない低い呼びかけも、届かない。

 まるで本当に彼等の父親になったような気分で、私は、どうしてもあの兄弟が心配だった。

 幻界に似た乳白色の景色を見渡してみても、子供たちの姿は見当たらない。

 それどころか、さっきまであった丘も、川も、空も、草原も、どこかへ溶けて消えてしまった。

「いなくなっちゃったね」

「……」

 残っているのは、かたわらの少年だけだ。

 グリムヴェルトだけが、私の顔を覗き込んで、導くように、服の袖を引っ張った。

「父さん、二人ともきっと、もう家に帰ってるよ。僕たちも戻ろう」

「あ、ああ……」

 そうか。

 そうだよね。居ないのなら、きっと家だ。

 あの子たちはいつも勝手に遊び回っているけど、お腹が空くころには必ず帰って食卓について待っている。

 ずっとずっとそうしてきたのだから、今日だってその筈だ。

 グリムヴェルトと手を繋いで、家路を急ぐ。

 しばらく歩いていると、見慣れた我が家の扉が目の前に現れて、私は何の疑問も抱かずに、玄関に進んだ。

 おかえりなさい、と、誰かが言った。二階からは兄弟たちが顔を出して、同じように、そっくりの笑顔で出迎えてくれた。

「母さん、ただいま」

 私とグリムヴェルトの声に振り向いたのは、ピンクブラウンの髪をした、人間種(ヒューマー)の女性だった。


 ――何で。


 何で……私が。()()()()()()()()()()()()どうして。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 その絶望によく似た違和感を突きつけられて自覚した瞬間、ジークの身体から、私の魂だけが置き去りにされていった。

 もはや一家団欒の景色は背を向けて遠のいて、私はまた、幻界の景色に放り出される。

「これって……夢、なの?」

 そして、家族の輪からはみ出したもう一人に、私は問うた。

「そうだよ。私が望んだ夢。手に入れられなかったもしもの世界。私本人はきっと、気付いていないだろうけどね」

 目まぐるしく変化する状況を整理しきれていない私とは違い、グリムヴェルトは余裕たっぷりな態度で、優雅にその場で浮遊していた。

「……本人じゃないんだ?」

 そう言う割りには、灰色の肌もギラギラの角も翼も尻尾も、姿形は全く一緒だけど。

「よく思い出してよ。確率の話さ。幻界の魔素が、たまたまこの光景を君の目に映しているだけ。何万、何億の可能性の海の中から……君の魔力が、偶然にも、こうして私の思念の欠片を掬い出したに過ぎない。全く、あのドール型幻魔も、剣を取り上げるまでは良かったのに。君に関わると本当、余計なことばかり起こる」

 えーと。つまり……私の夢の中で、グリムヴェルトがたまたま、完璧に再現されていると。

 えっ。下手したら全部私の妄想なんじゃん。なんだかなあ。

 ――でも、待てよ。

 こうしてぼんやりと宙に舞う光子を目で追いかけているグリムヴェルトの雰囲気は、先ほどと同じように穏やかなものだ。普段なら問答無用で幻魔をけしかけてくる筈なのに。

 これなら――いつぞやホワイトサロンで姿を見せたときのように、対話が可能なのでは。

「あ、あの。今、話って、出来る?」

「……出来るとも。言ったろ、この私は私であって私じゃない。ここに居るのは――そうだな。君の為の存在だ」

 言い回しは面倒くさいが、結論オーケーらしい。

 いつもなら煙に巻かれそうなことも、今なら訊きだせるかもしれない。

 思えば、勝手に出てきて一方的にまくし立てられてばかりだったから、こうして対話なんてしたことが無かった。案外、話せば分かるヤツかもしれないじゃない。

 えーと……まずは。

「……どーゆーことかイマイチ分かんないけど、君は……その、私たちを殺したいんじゃなかったっけ?」

 とりあえず気になったことそのいち。

 さっきまでの夢が、グリムヴェルトが望んだものだというのなら、殺意を抱いているような相手と家族ごっこに興じて和気藹々、なんて、辻褄が合わない。

 グリムヴェルトが知っていて私が知らないこと――それは、私たちの因縁について、だ。

 それが今グリムヴェルトの口から語られれば、何か、戦い続けずに済む方法もあるかもしれない。

「違うよ、違う。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ――まるで、本当はそうしたくないのに、と続けそうな表情で。

「……なんで?あの兄弟がいるのが、理想なんでしょ?」

「私が望むのは、私が否定されない世界だよ」

「……」

「でもそれは、この世界が在る限り、叶わない。だから私は、もう、降りたいんだ。だけど、ただでは死んでやらない。君たちに――世界に復讐を果たして、醜悪を撒き散らしてから滅ぶ。それが私だ」

 何となく、分かった。

 以前ホワイトサロンで語っていたときも彼は、自分の死に方についての見解を示していた。

 なんだっけ、大勢の人に惜しまれる……エンターテインメントにしたい、とか……。

 要はグリムヴェルトは……私たちの存在が、彼の死生に対する矜持……みたいなものを邪魔してる、と言いたいのかな……。

 私とジークがこのまま生きていると、グリムヴェルトは生きてもいけないし死ぬこともできない、と。だから、敵対する……?

 思い通りにならないから、全部壊して、消えて無くなりたいなんて――迷惑な駄々っ子どころの騒ぎじゃない。

 彼の根幹にあるのは、自己破滅願望……ううん、まるで怪我をしたフリで母親の気を引こうとする子供の自己顕示だ。

 そんなことに巻き込まれたくないというのが本心だけど、今は私情は置いておこう、またとない機会なんだ、熱くなったりしちゃ駄目だ。

「ザラ、君は――この世界が憎くないのかい?自分という異物を産み出して尚、辛く生き続けることを強いてくる、この世界が」

 同意を求めるような、居場所のない視線に、初めてグリムヴェルトが同じ場所まで来ているような気がした。

 異形の少年が、私と同じ言葉を使い、対等に意思を交わそうと、歩み寄っている。それなら、私も真摯に受け止めよう。

「異物って……確かに私は、他の人とは違うかもしれないけど。でも別に私のせいじゃないし。そりゃあ、子供のころは、多少、アンリミテッドの能力が恨めしかったよ。だけど、そんなの悩んでる暇とか、あんまり無いしさ。家族とか友達とか、大切なひとが居るし……。世界とか憎んでもなあ……私アホだし、そんな大げさに考えたこと無いかも」

 正直に、答えた。

 (グリムヴェルト)もまた、魔族や聖人といった存在たちのように、嘘を吐いたり余計な気遣いをすればその忖度を容易に見透かして、傲慢か、あるいは憐憫と捉えて、私に失望するだろう。

 恐らく彼が欲しいのは、飾らない私の心そのものだ。多少彼が気に入らない返答だろうと、意志をハッキリと示したほうがいい。

 グリムヴェルトは私の言葉に、憤るでも嘲笑うでもなく、ただ静かに読了の合図を出した。

「強いね。とても……強すぎるんだ、君達(このせかい)は」

 伝説の暗号を解き終えた考古学者みたいに、どこか遠くの物語について述べるかのように、他人の白々しい素振りで、呟いた。

 そして自身の身体を抱きしめるようにして、恐怖のなかから懸命に言葉を拾い上げて、ひとつひとつを並べ立てた。

「私には理解できない。いつ起こるとも分からない大規模の災害、魔物という人々の文明すら脅かす害獣の脅威――自分とは違う姿形の亜人と、その思想、その宗教。それらに対して、君たちは大らかすぎる。……怖いじゃないか、そんなの。私なら耐えられない。到底、受け入れられない。自分の命も他人の命も、この世界ではあまりにも軽すぎるじゃないか……。力なきものは、嘆くことすら許されないんだぞ」

「そ……れは」

「どうして、君みたいな普通の女子学生が、毎日命の危機と戦わなくちゃならない?」

 それは、仕方ないじゃない。だって、“そういうもの”なんだから。

 どんな異質な亜人どうしでも協力しあって、身も心も強くなくちゃ、この世界では…………。

 彼はまさに、私たちが描くその“当たり前”に、怯えているのだ。

 ああ、そうか、グリムヴェルトが自分を異物だと呼んだ理由が分かった。

 彼はきっと――本当に、この世界とは別の摂理(ルール)のもとに生きている。

 私が、夢のなかで、漠然と居場所のない恐ろしさを覚えていたように。

 グリムヴェルトにとっては私たちの世界が、悪夢に他ならないのだ。

「……ごめんね。共感はできるけど……多分、あなたにも……私たちのこと、分かってもらえないんだと思う」

 ――それならそれで。適応すればいい。努力して、我慢して、生き続ければいい。

 まさにそう思うことが、彼と私の“違い”なのだろう。

「それでいい。理解し合えないってことが、何よりの証拠さ」

 分かりきっていた答案に丸をつける気軽さで、私たちは決裂した。これが、私たちと彼を隔てる一線。立ち入ることのできない水際。納得、してしまった。

 私には、彼に生きろとも死ねとも、どちらも残酷すぎて言えない。

 鳥が海で生きる苦痛、魚が地上で生きる苦痛に、環境に適した進化をするのを待てと聞かせるのは……それを、断じるには、私ではあまりにも、力が足りない。

「あなた、もしかして……私に助けてほしいの?」

「この私はそうかもね。ただ――救われるのは、救われたいと願う者だけさ、ザラ。外の私は、決してそうじゃない」

 そう。もし、私が差し延べた手をグリムヴェルトが取ってくれていたのなら、いくらでも底から引き上げるのに。

「妄執……というやつかな。もう私自身にも、分からなくなってしまった。何を願って、何を求めていたのか。だからこの夢は……少し、懐かしかったよ」

 虚ろに笑う姿は、人間の少年のものだった。

 私が見落としていたのは、大事なものでもなんでもなかった。

 立ち上がる勇気があるように、留まり続ける自由もある筈だった。

 例えそれで死ぬより酷い目に遭っても――希望を放棄するという選択。

 私はそんな、自分が選ばなかった過去と未来の行きつく先から、目を背けていただけだった。

 何かを、感じてはいけない。

 彼を少しでも憐れだと思うなら、私は、真正面から、彼を否定し続けなくては。それが誠意だ。

「……ん?そういえば、外って……」

 グリムヴェルトの放つ、()()()、というワードに引っかかりを覚えた。外ということは、ここは中。なか……。

「そうだ、ここ幻魔の中じゃん!!」

 ベタにぽんと拳を叩いて、ようやくこの空間が全部、現実じゃないことを把握した。

 てことはまだ多分夢の続きだ。本来ならアルスと一緒に居る筈だもん。そーじゃんそーじゃん、男になったりジークになったりしてすっかり気が動転してた。

 家の前で幻魔に襲われて、そいつにぐわーっと吸引されて来たんだった。

「思い出したのなら、さっさと目を覚ますがいい」

「目覚めるって……、どうやって?」

「鍵は向こうからやってくる」

 退屈そうに言い残すと、グリムヴェルトは煙を吹き出しながら、看板に姿を変えてしまった。

 看板には矢印が描かれていて、指し示すほうを見ると、夜のような暗闇から、会うべき剣士が手を振って現れた。

「アリア……じゃない……」

 ええと、金髪碧眼の美少女じゃなくて。恐らくアルスに該当する人物が、(おれ)の頬を両手で包み込んだ。

「ザック、どうしたの?顔色悪いよ?」

「違くて……」

 集中しろ、(おれ)

 ぐっと強く目を瞑り、もう一度、自分の名を呼ぶアルス/アリアの声に耳を澄ます。

 現実へ繋がる細い糸のような手がかりを頼りに、(おれ)は幻夢の層を段階的に登っていく。

 頂上から、アルスが必死に叫んでいる。

 行かなきゃ、今度こそ。

 丘を過ぎ、家を過ぎ、町を過ぎ、学園を過ぎ。ここまでが一瞬だったような気もするし、一万年もかかった気がする。

 再び名もなき存在になった私は、伸ばされたアルスの腕を、力強く握り返した。






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