ザラと雪の皇帝・4
ヴィズの新しき皇帝を讃えた街路は、既に凍りきっていた。
ウェンディゴ憑きも、そうでない人間たちも関係なく、区別なく。誰かが指先で突けば全てが砕け散る氷雪の塊となって、この世に存在するあらゆる温度を拒絶していた。
硝子のように透き通った氷の衣を纏った精霊が、その冷ややかな視線を聖人カミロに注ぐ。
しかしカミロは、確かな血潮を以て、同化の誘惑を弾き返した。
「ウェンディゴ、アンタ天界人だろ。ここは人の世だ、大人しく帰えんな」
精霊はゆったりと首を横に振った。
『この雪の大地には――積年の怨嗟と悲鳴が渦巻いています。これを振り撒く人間たちを消去しなければなりません』
人間たちの祭り騒ぎで目を覚ましたウェンディゴは、真っ先に使命感に駆られた。
雪の下に眠る屍と呪い、争いの記憶たち。自分よりも弱い精霊たちが、汚染された魔力によって力を失っていくさまを垣間見た。
――そも、天界に籍を置きながら邪悪な存在とされる自分が目覚めたこと、それこそが、粛清の刻であると理解した。
ウェンディゴにとって、これは浄化であった。人食いの衝動に負けて滅ぶ文明であるならば――ここで絶つべきなのだ。
「気持ちは分かるが、ここでバチバチやってたのァ、もう昔のことだ。アンタの出る幕じゃない」
『いいえ。戦争と喧騒によって、この地は穢されてしまった。許容量を越えたノイズは世界のバランスに重大な不具合を生みかねません。原生の営みを管理することこそ、我々の存在意義でしょう』
「ったく聞きやしねぇ……」
既に交渉は決裂した。
ウェンディゴが背負った氷の棺から、龍の咆哮がごとき吹雪が唸りを上げて、カミロを飲み込まんと暴れ狂う。
「効かねえっての。――“蒼穹の天燐よ、聖なる裁きの剣と成り、我が敵を討て!”」
カミロの放つ超上位魔法が、光を帯びてウェンディゴの身体を貫く。
――呆気ねえもんだ。
狙い通り、ウェンディゴは雪の上に膝をついた。
同じく天界の住人といえど、仮初の分身で現界している精霊と、実際の人間界の魔力で活動している聖人では能力も出力も頭一つ違う。
しかし土俵が違えば、負けていたのはカミロの方であるのも事実だ。天界では人間界で発揮される耐魔力など、紙にも及ばない。忌々しい可能性に舌打ちをしながら、カミロは蹲るウェンディゴに近づいた。
「これ以上手出しするなら殺すぞ」
『――いいでしょう。私とて引き際を誤るほど動作不良を起こしていません』
「……アンタもアンリミテッドの魔力にアテられただけだ」
『そのようです。計算が狂いました。吸血鬼がやってくるのを待つとしましょう』
やっとこ正気に戻ったか、と。安堵したカミロを誰が責められるだろうか。
『――ですが、やはり瑕疵を放置することはできません』
ウェンディゴは、カミロの背中越しにやってくる二人の若者を射貫くべく、自身の姿を氷柱の矢に変じさせた。
自分の存在そのものを賭した捨て身の変換魔法は、カミロの理解とこめかみを追い抜いて、ザラとアルス目掛けて一心に、ただ真っ直ぐに、弾道を描いていく。
カミロの脳裏に、走馬灯が疾走る。
守れ、護れ。術の発動も間に合わない。神経の伝達よりも速く足が動く。
――これでいい。
心臓に亀裂が入るような衝撃で、カミロは意識を手放した。
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氷の矢から私たちを庇ったカミロが、音も無く、ヴィズの冷たい煉瓦道にくずおれていく。
『――カミロ!!』
呆気に取られていた私たちは、ミストラルの声で、弾かれたようにカミロのもとまで駆け寄った。
「カミロ、しっかり!」
アルスが雪に濡れたカミロの体躯を抱き起こす。その胸には、まるで処刑の杭のように、鋭利な氷柱が突き刺さっていた。
「あ゛ー……あのヤロ……最後っ屁たァ……やってくれるぜ……」
息も絶え絶えにカミロが悪態をついた。その表情は、視界が滲んで確認できない。
「何で俺たちを……」
「そりゃ……聖人だからだっつの……」
そうだった。彼はそういう人だ。性格も態度も口調も最悪で、見習うべきところなんか何もない正真正銘のクズなのに。人間の生命に関してだけは、絶対的に真摯だった。生を笑わず、死を拒んだ。――たったひとつ、自分を除いて。
カミロが白い息を吐くたび、なんだか、口から魂の欠片が空に登っていこうとしているみたいだった。
氷の鏃を上下させて、カミロが言葉を絞り出す。
「あんな……嬢ちゃんの力な……オレのせいなんだわ」
「え……!?」
オッドアイに雪の結晶が侵入していくのも気にかけず、カミロは瞬きを忘れて、私を捉え続けた。
「お前が生まれてくるとき……オレが祝福しちまった……。とびっきりの……幸運をってな……」
――家族写真のなかに紛れた、色褪せたカミロの姿を思い出す。
お父さんは、聖人であるカミロに娘の誕生を祝われるほどの人だったのか。
告げられた真実について思うのは、文句や悲嘆よりも先に、そんな他人事みたいな感想だった。
「いいか……お前の親父は……今でも生きてる。お前を普通の人間にする為に……旅に出たんだ」
「お父……さんが……」
「きっと、すぐ会えるぜ……お前が……望めば……」
ああ神様。もしかして。そんなちっぽけな答え合わせの代わりに、カミロを連れて行こうというの。
お父さんのことは気になる。だけど今、目の前に居るのはカミロだ。
天界のひとなら、何とかしてよ。この人は何も悪いことなんかしてない。
ただ常に酔っぱらって賭博に忙しかっただけだ。私なんかに無限の魔力を授けられるなら、カミロにも同じだけの命を与えてあげてよ。
カミロの手を握る。さっきと同じ、冷たい手だった。
「ぐ、がはっ……!!」
真っ赤な鮮血を吐き出して、カミロは動かなくなった。
「カミローッ!!」
白く淡い雪に、カミロの肉体から零れたワインが浸食していく。私はただ、その滑らかな軌跡を目で追うことしかできないでいる。
――聖人の死は、葡萄の香りがした。
……葡萄?
『……本当に血か?』
血にしては妙にうっすいソレに違和感を覚えたアルスが、試しに指先で掬ってみていた。
「ワイン……っぽい色してるな。てか酒くさっ」
私も同じように鼻を近づけてみると、喉を絞められるような強烈なアルコール臭がした。これだけで気分が悪くなりそう。
「おい。起きろ」
「ウーンムニャムニャ……もう飲めないよ」
アルスがミストラルの刀身で横っ面を叩くと、カミロは酔いに浮かされた恍惚の表情と呂律の回らない譫言でしっかりと、自分が無事であることを報せてくれた。
「……ほっとこっか」
「そだな」
『この寒さも酔い覚ましには丁度よかろう』
満場一致。
私たちはカミロを放って、王宮まで戻ることにした。
そろそろジークの薬も完成するころだ。クソバカオヤジは野晒しにして、私たちはウェンディゴ憑きによって傷つけられた人たちを介抱する役目に専念しよう。どうせ何か言ってたのも全部嘘だろう。
時間を無駄にしたな。
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カミロが用意した特効薬は本当に本物だったみたいで、ジークが薬を量産し、傷を負った人たちに配り終えると、あっというまにウェンディゴ憑き・ウエンディゴ化の感染は収束した。
どういう訳かその後にもウェンディゴ憑きになった人はぱったり現れなくなり、シルヴァ・ブリュンディッジには平和が戻ってきた。
オリバーくんを初めとする王族やその部下、町民や他国からの客人(主にジークとか)の尽力もあって、二次被害もなく、ヴィズの戴冠式パレードは一日掛けて立て直し、私たちも無事晴れやかな気持ちでアトリウムに戻ることが出来たのであった。
結局、当の事件の張本人らしいウェンディゴという精霊とまみえることは無かった。
それが良かったのか悪かったのか。いつもの私ならバッタリ出くわしそうなものだけど。とにかく平穏無事に、一件落着して何より。
私は思い出したように寒がるジークとアルスを引っ張って、グレン達と思う存分ヴィズ観光を楽しんだ。
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一方その頃、ヴィズの玉座。
「あのような御仁がヴィズにも居てくれれば……私も三国統一なんぞに貴重な青春を捧げる必要も無かったというのに」
カーネリアンは、戴冠式の騒動で力を貸してくれた魔族の青年にご執心だった。ヴィズは万年技術力不足だ。
あれだけの錬金術を扱える人材が居れば、カーネリアンの治世はより盤石になるだろう……という惜情だった。
「何おっしゃいますか、坊ちゃん。アンタあの時、他の王位継承者候補の誰よりも乗り気だっただろ」
かたや忠臣ケネスは、数年前の主君の武勇とか覇道っぷりを思い出して、いよいよ勘弁してほしい気持ちだった。
当時のカーネリアンは今よりも血気盛んで、三国どころか全世界じゅう平らげようとしているようにさえ見えた。この少年王は、これでも丸くなったほうなのだ。ほんとに。
「……冗談だ。アレはヒトでは無い、恐らくは魔の者だ。力を求めれば、同等かそれ以上の犠牲を払うことになるだろう」
「ま、タダモンじゃないでしょうねぇ」
「成る程、アトリウム王が“人間だけの治世”にこだわるのも頷けるというものだ」
人外の力を借りるのは容易だが、というやつだ。そのリスクもさることながら、人間としての矜持の置き所の是非を問うことにもなりかねない。
「ふうん。使えるものは悪魔でも天使でもってのが、陛下のポリシーじゃないんです?」
「そうなのだ、ケネスよ。善悪はさて置き、現状あの人材が喉から手が出るほど欲しい……!」
なりかねないのだが。
ヴィズは万年人材不足なのだ。倫理観とか誇りとかを論じるよりも前に、直近でカーネリアンの頭を悩ませるものは山ほどあり、あのジークという青年が居れば、それらの六割は解消するのだ。主に武器と農耕作具を作る鋼、鋼が欲しい、とカーネリアンは譫言のように何度も呟いた。
「無理っしょ。あのお嬢ちゃん人質にでも取らねーと」
「ふむ……致し方あるまい……」
「オイオイ。勘弁してくださいよ、オレらだってね、アトリウムも魔界も同時に相手取るなんて芸当はなかなか辛いもんがありますよ」
カーネリアンの臣下たちの心労は、なにも過酷な就労環境だけではない。
この王に仕えるにあたって、ひとつも赦されないこと。それは妥協だ。
つまり集められた優秀なプロフェッショナルが、常に全力の姿勢と結果を提示し続けなければならないことにあった。手を抜かないのは当然のこと、カーネリアンが決めたことであれば、“いいところで折り合いをつける”だとか“最低限の及第点”というものが存在しない。求められるのは百点以上のみというプレッシャーが、臣下たちの胃を破壊して止まない。
「はぁ……歯痒いな……」
そしてそれを知らないのは、当の皇帝ひとりであった。
ケネスはこの日、手の届かないところに居てくれる人外連中に、産まれて初めて感謝したとか。
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ヴィズ編、完結ッ!




