第7話 覚醒
咲希が手を伸ばした先には、頭から赤い液体が滴り落ちている少女がいた。その少女は微かに口を開いた。
「さ、き……」
咲希と同じように手を伸ばしていた少女の手が下に垂れていく。
「ゆ、り……?」
奇妙な風が吹き、周りの木々がざわめき出す。微笑んでいたその目は瞑っていき、体が倒れていく。そして少女は咲希の視界の下へ下へと落ちていった。地面に横たわった少女に咲希はふらふらと歩み寄った。
「ゆ、り……? ねえ、由里……?」
咲希は何度も何度も少女の名を呼びながら歩み寄り、少女を抱きかかえた。
「由里……ねえ、目開けてよ。由里、由里、ねえ! 由里!」
叫びながら咲希は俯いた。そこへ男二人が歩み寄っていった。
「あぁ、かわいそうだねえ。大切な『仲間』だったんだろう?」
しらじらしい言葉が咲希に投げつけられる。その言葉に続けて、薄ら笑いにも似た声が聞こえた。
「まあ、安心しろよ。すぐに同じところへ連れてってやるからさ」
そして再び咲希に拳銃が向けられた。その時、ざわめいていた木々はより一層うるさく揺れ出し、月の光は雲で遮られ、辺りはカラスにも似た鳥の声など様々な声で満たされていった。辺りのその不穏さに皆はとてつもない不安を感じていた。周りでライフルを構えていた人々がざわめき出した。
「これって……相当やばいんじゃねえか?」
「俺ら、本当にデウスを怒らせちまったんじゃないか?」
口々に言う人々に男は一喝した。
「お前らごちゃごちゃうるせえぞ! こんな子どもに何ができるっていうんだよ!」
こんな子どもには何もできやしない、そう自分に言い聞かせた。その時であった。急に強い風が吹いた。それに驚き、男は咲希の方に振り向き、目を見張った。辺りを包んでいた霧は咲希を中心に渦を巻き始めていた。咲希の短い髪は風で乱れ、シャルムは咲希の顔辺りまで浮き、光を放っていた。シャルムが揺れ動くその先に鋭く殺気に満ちた眼差しがあった。その眼を見た瞬間、男は寒気を感じた。このままだと殺される、そう感じたのだ。男は手を振り上げ、皆に叫んだ。
「全員退け! 早急にここから離れろ!」
そう皆に指示を出している時であった。咲希が右腕を水平に横へ出すと同時に、ものを切り裂くような突風が吹いた。その風は男の右目を切り裂き、また周りにいた人々の腕、脚、様々な部位を切り裂き、傷つけていった。鳥や獣の声に混ざり人間の叫び声、うめき声が森中に響き渡っている中、剛太は呆然と立っていた。この時、剛太は祖母の言葉を思い出していた。
『神様と悪魔は紙一重の存在なんじゃよ。ある人にとっては恵みを与えてくれる神様のように感じ、またある人にとっては我々から大切なものを奪う悪魔のように感じるものじゃ』
自分の放った弾丸で倒れた由里を抱えた咲希は剛太の知っている彼女ではなかった。いつも笑い、温和であるあの〝咲希〟はもうそこにはおらず、鋭い目つきをし、人を傷つけることだけに囚われた〝ディアボルス〟がいた。周りの人々が逃げ惑う中、その流れに逆らって剛太はディアボルスに向かって歩を進めようとしていた。
「咲希、もうやめてくれ……」
歩を進めるにつれ、突風が肌を切り裂き、痛みが走った。剛太の肩と誰かの肩がぶつかり、早く逃げるよう声をかけられる。しかしその声は剛太の耳には届かず、ただ剛太は咲希へと歩を進めた。
「お願いだから、もう――」
その時であった。どこからとなく現れた頑丈な腕に剛太は攫われ、みるみるうちに咲希から遠ざかっていった。こうして咲希の周りから人がいなくなった時、咲希は鋭い目つきから悲しみの瞳へと変わった。風は止み、鳥や獣の声が止んだ。そして次から次へとこみ上げてくる涙が冷たくなった由里の顔へと落ちていった。声にならない声がそこにはあった。
咲希が見えなくなるまで来たその時、剛太はその腕の主を見上げた。そこには瞳に影を落とした純がいた。そこで我に返った剛太は純に飛びかかり、胸倉を掴んだ。
「おい、これはどういうことだ! ちゃんと説明しろ! バカ兄貴!」
純は幹に身体を押し付けられながら、剛太を見た。その視線はいつになく冷たく、口を開く気配は全くしなかった。その姿に剛太の腹の内では怒りがふつふつと沸き始めていた。
「兄貴は、知っていたのか……?」
月を隠していた雲が霞み、微かに二人の顔を光が照らす。剛太は相手が誰であることかも忘れ、怒りを露わにした。
「兄貴はこのヌラムが咲希を殺すためだったって知っていたのか!」
声を荒立てた剛太に純は眉ひとつ動かさず、冷たい視線を送った。
「だったらなんだ?」
やっと開いた口からは今までに聞いたことがないほど冷たく、殺伐とした言葉が聞こえた。たったそれだけの短い言葉は剛太の心を粉々に砕いた。先ほど剛太の体中にできた傷が疼く。純は今まで剛太に対して厳しい態度をとることはあったが、冷たい心のない言葉を投げつけることはなかった。影を落とした瞳を少し開き、純は再び口を開いた。
「そうか、お前はまだアレを聞かされてないからそんなことを言っているのか。お前はまだ十になったばかりだもんな」
その言葉は嘲笑を含み、その眼で剛太を見下ろした。それを聞いた剛太は、生誕祭を境に純が変わってしまったことを確信した。呆然とする剛太をよそに純は続けた。
「特別に聞かせてやるよ、『言い伝え』ってやつを」
咲希はデウスであること、デウスを殺すべきだということを聞いた剛太は手を震わせていた。
「そんな……そんなことのためだけに咲希を殺すっていうのかよ」
剛太は力強く奥歯を噛みしめた。そして純の胸倉を掴んでいた手にも力がこもった。
「まだ何もしていない罪のない奴を、そうやってお前らはこれからも殺していくっていうのかよ!」
純は何も答えず、冷たい視線だけを返した。剛太は何とも言えない感情を右の拳に込め、純の頬に振りかざした。純は避けようとする素振りを全く見せず、口の端に血を滲ませた。剛太の右手に鈍い痛みが残るもその拳を握りしめ、鋭い視線を純に向けた。
「もうお前らのことは一生信用しない。誰も信用しない」
この時、剛太の瞳にはもうすでに光はなかった。剛太は純の胸倉を掴んでいた手を振りほどき、純に背を向けて歩き出した。そして小さな声で呟いた。
「もうお前らの自由にはさせない」
乾いた冷たい風が彼らを通り抜けていった。純はその背中を見つめ、空を仰いだ。
その夜、ヌラムは無事に終わった。とはいっても、咲希との戦闘で負傷した者が多く、荷崩しよりも先に負傷者の手当てと緊急会議が行われた。
このヌラムは、アフロディのコロニーの規模が小さくなってきていたことから、カリオフィと合併する目的も含まれていた。合併という名目であったが、実際アフロディが吸収される形となり、この会議の結論はカリオフィの意向に準ずる形となった。その結論とは『咲希を危険人物とみなし、見つけ次第早急に駆除すること』であった。そのことはこのコロニーだけでなく、この地すべてのコロニーに伝えられた。
それを横目に剛太は人々から背を向け、何も知らない咲希は悲しみに暮れていた。いつになく冷え切った寒空が二人を見つめていた。
序章はこれにて終わりとなります。
第一章「冬」は2016/12/22(木)からの更新となります。