第6話 五十二年前
今から五十二年前――森は青々と生い茂り、ミンミンゼミとポッポー、ポッポーというカッコウの声が響いていた。そんな中、アフロディでは無邪気な子どもの声と必死な女性の声が響き渡っていた。
「コラ、輝雅! 待ちなさい!」
当時二十六歳の剛太の祖母・佐那江は大きな布を頭からかぶった小さな姿を追いかけていた。その布は彼女の手をひらりとかわし、また駆けていった。
「キャハハ! お空を飛んでるみたい!」
布をバタバタとはためかせ、その小さな姿は人々の合間を縫っていった。周りの皆は微笑みながらその姿を目で追い、ある声は佐那江を茶化していた。彼女は少し頬を染めながら走っていると、前を行く小さな姿は途中で大きな何かにぶつかり、しりもちをついた。彼がおしりをさすっていると、頭上から聞き覚えのある声がした。
「お、てる! こんなところで何してるんだ?」
大きな布から小さな瞳を覗かせると、そこにはライフル銃を肩にかけたごつい体つきの男がニカッと笑って立っていた。
「お父さん! お仕事終わったの?」
それを見た少年・輝雅は彼に駆け寄った。彼は勢いよく脚に抱きついてきた輝雅の頭を乱暴になでた。
「ああ、ちょうど終わったところだ。てるは三歳のチビヒーローごっこか?」
彼が輝雅に手をかけ勢いよく天にかざすと、再び高らかな声がアフロディに響き渡った。するとそこに少し安堵した顔で佐那江が近づいてきた。
「晴康さん、お疲れ様。今日は…どうでしたか?」
その少し躊躇った声を聞いた彼は輝雅を腕に納め、彼女を真っ直ぐ見ながら苦笑した。
「ああ、まだ揉めてるよ」
当時のアフロディは、デウスを守り、崇め奉るという『デウス保守派』のコロニーであった。しかし、アフロディ内で『デウス殲滅派』の派閥が現れ始め、双方の勢力は拮抗状態であった。当時のアフロディの長は老もうで、先が長くないから皆で話し合って次期アフロディ長を決めてくれとすべてを他の者に任せた。その結果、両派閥がぶつかり合い、アフロディ内で大きな溝ができてしまった。『デウス保守派』である晴康は話し合いでどうにかしようとするものの、『デウス殲滅派』の畔は話を一つも聞こうとしなかった。
「畔の奴、俺の話を聞けって言ってんのに、一言も聞こうとしねぇんだよ」
微かな光がテントの布の上で揺れ、晴康の口から酒臭い息が漏れた。それに対して晴康の父も強く頷いていた。そんな彼らの前に佐那江はみずみずしいキュウリを置いて椅子にかけた。
「どうにか話し合いができる状況にだけでもなればいいんですけどねぇ」
そう話していると、彼らの横から風が通り過ぎていった。風上に目をやると、そこには晴康に似た青年が立っていた。その姿に気づいた輝雅は彼に駆け寄り抱きついた。
「えいちゃん!」
その元気な声に彼は「ただいま」と笑って答えた。佐那江も輝雅の後を追うように彼に駆け寄った。
「衛次さん、お帰りなさい。こんな夜遅くまでお疲れ様」
その言葉に少し照れながら、彼は笑って答えた。
「ただいま戻りました」
彼――衛次は晴康と十一歳差の兄弟である。彼は気象観測の仕事を受け持つことを自ら志願し、数年前からその家系の者から教わっていた。空を見る習慣のない者がこの観測を行うことは難しく、長い月日を要すると言われている。実際、衛次は独りで観測できるようになるまでに一年半を要した。その彼は今夜間の観測から戻ってきたところであった。
夜が更け輝雅が寝息を立て始めた頃、外ではコオロギの声が広がっていた。その声をつまみにでもするかのように晴康とその父が静かに飲んでいた。その彼らの横に衛次は静かに腰をかけた。
「あのさ」
その言葉に彼らは杯片手に振り返った。彼らの顔を正面から見た衛次は一瞬言い淀むが、拳に力を込め言葉をふり絞った。
「俺、旅に出たい」
その言葉に佐那江は目を丸くし勢いよく振り返るが、二つの視線はジトッと衛次を見ていた。彼は一度唇を噛み、言葉を続けた。
「こんな大変な時に馬鹿なこと言ってるってわかってる。だけど俺、いろんな世界を見てきたいんだ。この森には何十というコロニーもあって、その先には周りすべてを見渡せる大地やそれよりも広い水の世界がある。ここ以外にこことは違った世界があるなら、俺はそのすべての世界を見たい。もしかしたら、その中で異なった意見を持ち合う人々が解り合う世界があるかもしれない。だから――」
「衛次」
息巻く彼に晴康の声が重なった。衛次は二人が真剣な目で彼を見ていることにその時やっと気づいた。口をつぐみ、眉をひそめる彼に晴康は静かに口を開いた。
「行ってこい」
その言葉に衛次は目を見開いた。辺りを見渡すと彼の父も佐那江も温かい目で彼を見ていた。呆然とする彼に晴康は言葉を続ける。
「『こんな大変な時』とか大人ぶってんじゃねぇよ。子どもは子どもらしくやりたいことやってればいいんだよ」
その言葉に、さっきまでの静かな雰囲気など忘れて、彼は怒りを露わにした。
「俺はもうとっくに成人してるだろ!」
「成人つっても、まだ十七だろ。そんなのまだまだガキンチョって言うんだよ」
言い争う二人に彼らの父と佐那江は口を押えて笑っていた。晴康に詰め寄る衛次の肩に手が置かれ、目の前にはニカッと笑う晴康の顔があった。
「今は周りのことなんか気にせず何でもやれ。若い時に生じた問題なんて後で清算できるんだからよ」
その言葉の後に晴康は父に顔を向け、「そうだよな?」と同意を求めてきた。その言葉をかけられた父は呆れ顔で「そこは最後まで一人でビシッと決めろよ」とため息を吐いていた。笑い合う彼らを見た衛次は小さくぽつりと「ありがと」と呟いた。
数日後、大きな荷物を背にした衛次はアフロディの一部の人々に囲まれていた。人々には挨拶が終わり、これから旅に立とうにも彼の脚にくっつく大きな荷物が取れないでいた。
「えいちゃんが行くなら、てるも行く!」
駄々をこねる輝雅を周りの人々がどうにかなだめていた。どうにもならない状況に参っていると、佐那江が急いで衛次のところへ駆けてきた。
「よかった、間に合った」
彼女は人をかき分け、荒い息を整えながらあるものを衛次に手渡してきた。それを見た衛次は驚いた顔で彼女を見た。
「これは…」
「餌掛けと口餌籠。鷹狩するのに必要な手袋と籠よ」
彼女は膝に手をつきながら柔らかく笑った。彼女は、一つのコロニーに一人や二人程しかいない鷹匠という役職の一人であった。鷹匠は他のコロニーに情報を伝達する大きな役割を担っており、長の次に地位が高い役職だとも言われていた。そんな彼女が鷹匠でもない衛次にそれらを手渡してきた。
「佐那江さん、ありがたいけど俺鷹狩なんてしたことないですよ」
戸惑う衛次に佐那江はいたずらっぽく笑った。
「ええ、だからこれからやってもらうの」
キョトンとした彼の目の前で彼女は指笛を吹いた。高らかに響くその音に答えるように彼の頭上に影が落ちた。そして上を見上げると白に細かい縞のかかった鳥が彼に向ってきた。あまりの恐怖に頭を抱えて少しかがむ彼の背中に重しがかかる。それと同時に後頭部から大きな風を感じた。恐る恐る背の方に振り向くと、黄色いくちばしの鋭い目をした鳥が彼の背の荷物の上にいた。その様子を見ていた佐那江がケタケタと笑った。
「何そんなにビビっちゃってるの」
衛次にしがみついていた輝雅は驚いて彼から離れ、代わりに佐那江の脚にしがみついていた。周りにいた人々も彼から少し離れ、心臓の鼓動を落ち着かせていた。
「そりゃビビるに決まってるじゃないですか! こんな恐ろしい鳥、自分に向かって来たら怖いじゃないですか!」
恐怖心を少しでも紛らわそうと、佐那江を怒鳴った。可笑しそうに笑っていた彼女はふと柔らかい笑顔に戻って彼を見た。
「その子はハヤブサ。これからのあなたの旅のパートナーよ」
それを聞いた衛次は不安そうに佐那江に詰め寄った。
「旅のパートナーって、このハヤブサは佐那江さんの鷹狩のパートナーですよね? そんな、連れていけませんよ」
困惑する彼を見て、彼女は苦笑しながら腕を組んだ。
「この私を誰だと思ってるの? この森一の鷹匠、佐那江様だよ。この森にいる鷹はすべて私のパートナー。選りすぐるなんてことしないんだから」
そう言うと彼女はそのハヤブサに手を伸ばして、指でその子の頬を撫でた。
「その中でもこの子はすごく頭がよくてね。初心者の衛次さんをリードしながら働いてくれると思うよ」
衛次が再び振り返ると、彼を見る鋭く大きな目が光った。よくわからない恐怖心を抱く彼の頭に彼女の手が触れる。そして彼女の肩まで吸い寄せられた。
「元気でね」
その時彼から彼女の顔は見えなかった。しかし彼の頭をひしと抱きしめ少し震えるその肩は、彼はまだ知らない何かを必死にこらえているようであった。衛次は彼女を問いただそうと思ったが、彼女の性格上絶対に口を割らないことはわかっていたので、ただ彼女を抱きしめ返していた。
佐那江は、アフロディに連絡をとったり帰ってきたりする時はそのハヤブサの足輪にメッセージを挟んで飛ばすように衛次に伝え、皆で彼を見送った。彼の姿が見えなくなりそれぞれテントに戻ると、ブツブツと輝雅が不満を言い出した。
「てるもえいちゃんと一緒に行きたかったのにな…」
そう言う彼に佐那江はいたずらっぽく笑いながら彼に言った。
「あのハヤブサにビビって、お母さんの脚にしがみついてたのはどこの誰だったかなぁ?」
その言葉を聞いた彼は頬を膨らませた。
「ビビッてないもん。ハヤブサなんか怖くないし。お母さんの方が怖いもん。
その言葉を聞いた佐那江は「このやろ!」と彼の脇をくすぐり、じゃれ合った。テント内に笑い声が響いているところに、暗い顔をした晴康が外から入ってきた。異様な雰囲気に佐那江は手を止め、晴康を見つめた。
「どうかしたんですか?」
その重々しい空気に、輝雅は二人の顔を何度も見比べた。一度口を結んだ晴康は重い口をゆっくりと開いた。
「長が、亡くなった」
静かに響き渡るその声は重々しく彼らの中に沈み込み、彼の背から差し込む光さえも遮った。外から聞こえる蝉の声は空しくも途絶え、地に落ちた。そこに残されたものはただ呆然と立ち尽くしていた。
次話「真実」は2017/9/14(木)に更新します。




