第8話 再会
辺りに荒い息がこだました。無作為に目の前に広がる幹は剛太の行く手を幾度となく阻み、彼を苛立たせていた。彼が木を通り過ぎる度鳥は飛び立ち、彼の周りから様々な音が離れていった。しかし彼には周りを気にしている余裕などなく、頭の中では彼女に対する言葉ばかりが溢れていた。会いたい。会って彼女に言わなくてはならないことがある。何度願ったことか。何年待ち望んでいたことか。
(もう二度とお前から目を逸らしたくないんだ!)
いくつもの木々が彼の横を流れていくが、一向に彼女の影すら見当たらなかった。遠く高い空に浮かぶ雲は長い間見ていてもわからないほどにゆっくりと流れているのに、近く低い空に浮かぶそれは大切な何かを持ち去って逃げるように彼の頭上から逃げていった。何度か頭上から彼に影が落ち、その度に森のざわめきが彼の耳に届いた。彼の彼女に対する言葉の雑音の中で、時折優の言葉が響いた。
『プラエっていうコロニーにいるって――』
その言葉が彼の脳裏に通り過ぎる度に、より彼の中の罪悪感が増していった。
(『プラエ』とはpraecox――キブシの種小名だ。キブシの花言葉は、『嘘』。なんでそんなわかりやすい嘘を――)
まるで見つけてくれと言わんばかりの彼女の嘘が、余計に剛太の胸を締めつけた。言葉にできない彼女の声がそこにあるのに、彼はそれを見つけ出すことができなかった。
(俺はまた何が大切なものなのか見抜けずに、それを失うというのか?)
霧の夜の銃声が頭の中に鳴り響く。その音と共に彼の手が痺れ、身体が鉛のように重くなった。目の前の草木をかき乱していたその足は徐々に速度を落としていき、両足を地につけたまま動かなくなった。影の湿った土の匂いが微かに彼の横を通り過ぎていった。遥か遠くから聞こえる鳥の声は、共に家に帰る友を呼んでいた。荒い呼吸の中、胸が締めつけられていき、彼は唇を噛んだ。渇ききった口元を一度結び、彼は心からの声を吐き出した。
「咲希! 近くにいるんだろ⁉ お願いだから返事してくれ!」
森中に響き渡るほどの叫びは風と共に草木を揺らした。大きく揺れる彼らは徐々に平静を取り戻し、何もなかったかのように再びそこに立ち尽くした。彼女に届かないその声は空しく彼の胸の中に沈んでいった。頭上の遥か遠くから彼に影が落ちる時であった。今までとは違う優しい風と共に目の前の木が揺れた。彼がゆっくりと顔を上げると、その木の上にはフードを頭から取る少女がいた。そのパーカーは四年前ブカブカの袖を捲し上げていたそれで、前髪の左側には見慣れたM字の分け目があった。髪はとても長くなりながらも、彼女が咲希であることはすぐにわかった。息をすることも忘れていた彼は思い出したように口を開き、一歩彼女に近づいた。
「咲希…咲希だよな⁉ 俺ずっと…ずっとお前に言わなきゃいけないことがあったんだ!」
彼女の瞳は四年前のように優しい瞳ではなく、どこか翳りのある少しい厳しい目つきをしていた。眉をひそめる彼女は少し視線を落とした。口を開く気配のない彼女に彼は静かに、そして決して目を逸らさないようにゆっくりと話し出した。
「四年前、あの霧の夜、由里を殺したのは俺だ」
風で草木が静かに揺れた。彼女の長くなったその髪も何かを探すように小さく揺れ、彼女の頬を優しく撫でた。横から差し込む小さな淡く紅い光が彼らの頬に、瞳に微かに映し込んだ。真っ直ぐと彼女を見る彼に紅く強い光が差し込み、彼は目を細めた。
「許されようだなんて思ってない。許されないことだってわかっている。だけど、咲希にだけは言っておかなければならないと思っていた」
歯を食いしばり、鼻の奥に感じる違和感に耐えながら彼は彼女を見つめた。一度も口を開こうとしない彼女に無理矢理小さな笑顔を向け、彼は小さく呟いた。
「そんなこと、今更言われたって困るよな。ごめん、俺のワガママに付き合ってくれてありがとな。もう二度と会えねぇかもしれないけど、元気でな」
彼が踵を返してその場を去ろうとした時だった。微かに彼女の声が彼の耳に届いた。それに気づいた彼は振り返り、彼女を見上げた。目を伏せる彼女は小さく草木の音と共に呟いた。
「由里を殺したのは剛太じゃない」
その言葉に剛太は耳を疑った。草木は西風に大きく揺らされ、東の黒く染まる空を仰ぎ見た。疲れ、老いた葉は空を舞い、当てもなく彷徨った。息の詰まる彼は爪が掌に食い込むのを感じ、淀む胸を押さえながら彼女を見た。
「由里を殺したのは俺じゃない…って、じゃあ誰だって言うんだよ⁉ 俺は確かにこの手で引き金を引いた。それにスコープは確かに由里を捉えていた。俺はあの時素人だったけどな、獲物に当たった感覚ってのはわかるもんなんだよ!」
必死に何かを取り戻すように彼は彼女の言葉を否定した。しかしそれも空しく、彼女は紅い光に照らされながら静かに答えた。
「私は誰がどこから撃ったのか音でわかる。それが何に当たったのかも。あの時、剛太がどこから撃ったのか、その弾の行方はどこだったのか、私は知ってる」
紅い光はゆっくりと霞んでいき、西の空だけに淡いオレンジ色が残った。一度も交わらなかった視線がぶつかり、彼らに一つの時間が流れる。淡い暗闇の中で微かに風の流れを感じた。その風に恐る恐る乗せるように彼は言葉を口にした。
「だったら、一体誰が由里を殺したんだって言うんだよ?」
真っ直ぐと彼を見る彼女は一瞬口を開きかけて閉じた。そして少しの間の後、静かに再び口を開いた。
「剛太にとって大切な人」
その言葉を心の内で反芻すると、ある日の彼の言葉が蘇ってきた。それは凍てつくような寒さが彼らを包んでいた日だった。行く当てもなく彷徨い、ギャップを目の前にたたずむ剛太の横で彼はいつもの調子で話した。
『あの夜僕、剛太の隣にいたんだよ。それで一応僕も撃ったんだ――』
その声はいつものように笑う優だった。それを思い出した途端、剛太の中に冷たく重い何かが流れ込んできた。それは視界をも遮り、世界が淀んで見えた。何かに沈む剛太を覗き込むように彼女が彼に視線を向けた。
「知りたくなかったでしょ? 真実を追い求めても、そこにあるほとんどはあなたが追い求めていたものじゃない。真実は自分の中にはないのだから」
彼女はネックレスを服の下から取り出し、胸の前で握りしめた。そのネックレスを見た彼は、渦巻く霧の中心にいたあの日の彼女を思い出した。あの瞳、あの時の体中の痛みを思い出し、彼は手を握りしめた。
「咲希、二人で真実から逃げよう。この森を出て、何からも追われないところへ行こう」
藍色の空が映るその瞳は真っ直ぐと彼女を見上げた。しかし彼女はその瞳を悲しみの色に染め、首を横に振った。
「私は咲希じゃない。私の名はシーバだ。デウスの名に懸けてこの森を守るのが私の使命」
静かなその言葉は伸ばされた手を振り払った。所在をなくしたその手は再び淀んだ世界に沈んでいった。
「真実から逃げようとしたって無駄だよ。真実はいつか必ず知ることになるのだから」
その言葉の真意を知らない彼はただ呆然と彼女を見た。何も言葉にできないでいる彼を見ると、彼女は寂しそうに呟いた。
「剛太だけでも『今』を生きてよ。過去に囚われるのは私だけでいいから」
その言葉を聞いた彼は「俺は――」と言いかけた。しかしその声は風にかき消され、草木が大きく揺れた。気づいた時にはもうすでにそこに彼女の姿はなく、ゆっくりと舞い散る木の葉があった。木の葉は右へ左へと揺れながらそこに乗せた夏の香りをゆっくりと、しかし確実にこの地に落としていった。辺りに漂う空気は微かに肌にまとわりつき、彼に見えない鎖が繋がれているようであった。
第二章はこれにて終わりとなります。
第三章「夏」は2017/7/20(木)からの更新となります。




