喫茶店はカオスの香り
おおよそ大人というものは、朝仕事に出かけ、終われば家に帰る。それから、家庭がある大人ならば家族と相対し、ない大人は趣味とでも相対する。
少なくとも世間の大人の9割はそうした人生送るものだと久三は考えていたが、新橋のこの喫茶店でアルバイトを始めて3ヶ月で、その価値観が如何に「世間知らず」であったことかと、つくづく考えさせられていた。
「ですからね。このバイナリーというプランは、アップラインがあなたのダウンラインの半分を作ってくれるわけです。」
今しがたお茶のお代わりを運んだ窓際席で、いい歳した大人が2人の青年を前に、笑みを浮かべ、ちょっとオーバーな身振り手振りを交えつつ話しをしている。
その3人組を一瞥した久三の目は虚ろだ。
(ネットワークビジネスの勧誘。ホントに聞き飽きたわぁ。あ~。目を輝かせている青年が、訝しげな顔をしているおそらく友人を、上の人間に口説いてもらってる図式ね。しっかしその会社の名前、消費者庁から指導が入ってるって、昨日別のお客が言ってたような?まあいづれにせよ、ありふれたくだらない話だ。)
久三は、社会学という今ひとつ非実用的と思われる大学のゼミに入っており、就職活動もやらなくてはならないのだが、それよりも、松山の実家からの仕送りも細細としているがゆえ、アルバイトに明け暮れざるをえない。親の懐具合も考えると留年という出費も心苦しいわけで、目下に直面する課題は、アルバイトで生計を立てることと、卒業するための卒業論文のテーマ決めであり、その両立を可能にする方法を、ある世慣れた風の先輩に相談をし「喫茶店でアルバイトすれば、お客から興味深く取り組めるテーマを立ち聞きできるんじゃない。」というアドバイスを間に受け、新橋のこの喫茶店で働くようになった。
実際、働いてみると、確かに先輩の言うことには間違いはなく、朝っぱらから「大の大人が」たいして人目も憚らずに堂々と怪しげな話をしている興味深いテーマの宝庫であった。
もちろん立ち聞きと言っても、接客の合間を縫って、さり気なく耳にする程度であるが、人間観察と耳に残るキーワードを、スマホでちょっと検索するだけで、会話の内容が朧気ながら見えてくる。それだけでも卒業論文テーマの取捨選択に迷うくらいの量なのだ。
ネットワークビジネスや宗教の勧誘、怪しげな不動産ブローカーの商談、胡散臭い商売への投資話、タレントスカウトに見せかけたAV女優のリクルートや、詐欺とかどう考えても犯罪と思える内容の打ち合わせ、挙げればキリはない。
社会学という雑食的な立場上、そういう世間の裏側についての考察というのは、卒業論文のテーマとしては申し分ないものであると久三は考えている。
喫茶店はカオスの香りが濃密に漂う。だからこそ、半ば公の空間で堂々と怪しげな話ができるのか。それともそういう怪しげな大人が集まるからカオスの香りが漂うのか。
どちらにしても、久三にとってここは、バイト代と論文テーマが得られる一石二鳥の場所なのだ。