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文学中毒とバリアフリー

作者: 山科晃一

『エントランスホールを抜ける。同じ電車に乗っていた社員と不安定な挨拶を交わして、同じエレベーターに乗るのを避ける。行く先は、定番のトイレ。トイレに行く行為は人間の摂理的な現象であるという共有から、会社の人との社交を一旦中断出来る。障害者用トイレで鏡に向かって笑顔を作る。トイレは確か、あまり良い運気が漂わない場所だとスピリチュアルな芸能人がテレビで言っていた事を思い出す。スピリチュアルな事を気にし始めると、良い人間でいなければと焦る。鏡を見て、敢えて凛々しく佇む。急いで塗ってきたファンデーションが目元に残っているのに気が付いて処理する。障害者の方の便意に対する焦りとわたしのような五体満足の人間がただ鏡をみるだけの刹那な瞑想に対する安定に不釣り合いを感じる。ならばと、微々たる尿意を呼び起こして、時間をかけて用を足す。出て行く間際に、会社に対する不安を覚える。再び鏡を見る。鏡を見て笑顔を作れば、気分が良くなるというが、本当にそうなのだろうか。鏡の中の自分が笑っている意味が分からなくなり、恥ずかしくもなる。そう言えば、最近車椅子に乗った障害者を見掛けた事があった。腕を脚のように利用するせいか、かなり筋肉質になった腕と爽やかな表情で道を無駄なく真っ直ぐと進んで行った。わたしの拒食による細々とした頼り甲斐がない腕と人と真正面に向き合わない為に作った長い前髪とは打って変わっての、魅力的な要素であった。と同時に、障害とは何か。社会に出て人に対しての恐れから逃げて、道を外れる自分の社会への不適性は障害ではないのか? 車椅子のマークが貼られた障害者用トイレというバリアフリーの享受者としてわたしの存在の仕方は正しいのではないか。

エレベーターで登る。仕事場の階までに止まらないエレベーターの中で叫んでみる。誰にも聞こえないだろう。叫びは自分に対する誓い。今から8時間、あの面接の時のわたしを演じ通さなければならない。会社とはそういうところだ。エレベーターが開くと、何歳も年上の警備員がわたしにこうべを垂れた挨拶をする。なぜ、ここまで頭が下がるのだろうか。その角度の対価は何だ。給料か? 明らかにここの社員よりも給料は低い。しかし、その白髪頭の警備員達からは欲望さえ感じられない。喰いたいものを喰うのか? オナニーはするのか? わたしを演じるわたしはその疑問一つ表情に出さない笑顔でとりあえず返事をしておく。新入社員は笑顔で元気に素直に返事をしておけば良いとネットに載っていた気がする。すれ違う先輩社員は自分の必要以上に明るい挨拶に対して、優しく返してくれる。少し気分が良くなる。そんな事にさえ気分が良くなったわたしの単純さに嫌悪する。そして、自分への嫌悪は周りへの嫌悪へと変化する。しかし、その嫌悪感は自分の感性を守り抜きたいというあのエレベーターの中での魂の叫び。自分が役者である事を言い聞かせる。誰にも分かってもらわなくても良い。自分の障害は自分の感性。あの、障害者トイレの中のわたしがわたしだ。鏡の中で笑っていたわたしは、わたしが演じたわたしだ。

仕事場に15分前に辿り着く。仕事に対する、不安と憎しみと怒りが自分の仕事の歯車をきっちりと回すはずだ。先輩社員が出勤する。

「〇〇さん、今日朝から出勤だっけ?」

出勤時間を間違えた。あんなにも、来たくなかった会社に3時間前に到着してしまった。何故だ。会社に対する興味の無さ。自分の滑稽さを周りの先輩が笑う。わたしも笑って欲しいとその空気に依存するが、すぐにその笑いは止んで沈黙が訪れる。

「もう午前から出勤で、良いんじゃないの?」

させるか!

「いえ、わたしは時間を潰すのが得意なので」

鞄をまとめて、勢い良く会社を出て行く。沢山の資料を抱えた後輩と出会う。彼女は健気に、廊下を急ぐ。その横を何かに追われているかのように挨拶をごまかして去る。

紆余曲折。真っ直ぐ爽やかな表情で進んでいったあの車椅子の男性よりも、明らかに様々な壁に頭をぶつけているのではないか。

反省。反省とは何か。頭をぶつけた事を、何故ぶつけたのかを理解して、次はぶつけないようにする事か? しかし、わたしはそんなつもりがない。頭をぶつけた事を笑える。自己嫌悪に陥る自分こそ本当の自分。賢者モードなどいらぬのだ。その覚悟が出来ているはずだ。人間は完璧ではない。わたしは人を憎む、嫌がる、馬鹿にする。しかしそれと同じだけ人を愛して、好きになって、尊重だってする。わたしはそういう生き方をしたい。エレベーターの中で叫んだ事が誰かの飢えを満たせば良い。バリアフリーなど求めるな。障害そのものがわたしだ』

太宰治や司馬遼太郎、夏目漱石、森鴎外などの単行本が本棚に収まりきらず床に重ねられた部屋に、オレンジのLEDライトが照らす。玲子はシャープペンシルを置く。頭を抱えて、社会人になってチャレンジしたブラックコーヒーを一口啜る。シャープペンシルで無地のノートに書き殴った文字は荒々しく、決して女性の字とは思えない。スマートフォンを取り出すと、Facebookの友人の投稿を開く。会社の人との旅行写真をやや眺めると、いいねボタンを押してベッドに投げつける。再び頭を抱えると立ち上がり、太宰治「グッド・バイ」に触れる。


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