一大事
フラの北部の軍の駐屯地は、蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
ロアアールへの帰り道、休息のためにそこに立ち寄ったウィニーは、まさにたった今、故郷から早馬が届いたことを知ったのだ。
イストに駐留していた護衛官が、書状を託すやぶっ倒れたと聞き、彼女は寝かされている彼の元へと駆けつける。
「何があったのですか!?」
これほどの火急の早馬は、尋常なことではない。
護衛官の男は、目の下に真っ黒なクマを作った焦燥した様子で、床から起き上がろうとする。
ウィニーは、慌てて彼を押しとどめた。
「詳細は私にも……しかし、ロアアールの命運のかかった重大な書状だと聞き、寝ずに馬を走らせて参りました」
恐縮しながら報告する護衛官の言葉に、彼女はまさか、と思った。
隣国の襲来が、最初に思いついた「まさか」だった。
しかし、それならば書状の内容を隠す必要はない。イストの文官たちも、それは知っていなければならないはずなのだから。
もうひとつの「まさか」は、漠然としたものだった。
ただ、脳裏に『彼ら』の顔が思い浮かんだこと。
ギディオンと、スタファだ。
しかし、ウィニーの想像力にも限界がある。全てを今、理解することは出来ない。
ただ、分かることは。
「休憩は取りやめ、一刻も早くロアアールに戻りたく思います」
いま、自分の発した言葉通り、故郷への道のりを急ぐことだった。
「はっ!」
それにキビキビと答えたのは、彼女をロアアールまで送る任を受けた護衛隊の隊長である。
騎馬戦の優秀者として、彼女の前に膝をついたフラロアアの男だ。
あの戦以来、何かとウィニーの護衛につくことが増え、ついに護衛隊の隊長に抜擢されたのである。
ウィニーにとっては、心強い味方だった。
彼もまた、この事態を一大事と受け止めてくれたらしく、すぐさま最短でロアアールまで向かうスケジュールを組み直し、ウィニーに提案してくれたのだ。
相当な強行軍ではあるが、自分が言い出したことである。
ウィニーは頷き、そして故郷への道程をひた走ったのだ。
※
ウィニーたちの馬車に追いついたのは、フラからの早馬だった。
相当に飛ばしている彼らに追いつくのだから、伝令の者もまた。無茶の限りを尽くしているのだろう。
「フラの軍が、すぐに援軍として出撃致します!」
疾走する馬上から、追い抜き際にフラの軍人がそう叫んだ。
援軍!?
それは、何に対しての援軍なのか。
やはり、ロアアールはまた攻められているのか。
「何があったのですか!?」
概要を理解出来ないまま、ウィニーは馬車の窓から顔を出し、大きな声で問いかける。
「公爵弟閣下の……一大事にございます!」
風に邪魔されながらも、どうにか届いたその言葉を噛み締めるより先に、伝令の馬は少しずつ前へと消えて行った。
公爵弟──スタファの一大事。
そう、彼は言ったのだ。
「あ……あははははは」
最初は力なく、そして、だんだんとウィニーはおかしさが強く自分の全身をつづんでいくのが分かった。
スタファの一大事を、ロアアールが伝えてきた。
その事実が、おかしくてたまらなかったのだ。
ああ、そう、と。
隣国へ潜入した彼らの声が、北西の回廊を越えてきたのである。
真夏でも過酷な、しかし、一番マシな季節である今を、まるで待っていたかのように、その声は届けられたのである。
それに、フラ軍が動く。
フラ軍が動くのに、ロアアール軍が指をくわえてみているはずがない。
前回の戦いで助けに来てくれた、スタファの一大事なのだから。
一体、何してるの!?
彼の名前は、たった一度も出てきていないというのに、ウィニーにはそこにはっきりとギディオンが見えた。
彼の号令では動かせないはずの二つの軍を、あっという間に巻き込んだのである。
ウィニーは、『丸くおさめて』とお願いしたというのに、それにギディオンは、こんな嵐のような答えを返したのだ。
これが、笑わずにはいられようか。
本当に、メチャクチャな人だった。
そして、そのメチャクチャは、現在進行形だったのだ。
ひとしきり笑いきった後、ウィニーはすっかり疲れてしまって、揺れる馬車にその背を預けて、ぼんやりと窓の外を見た。
フラから遠ざかるごとに、下がって行く気温。
北上しているのだから、それは当たり前だ。
しかし、いまのウィニーにとっては、ギディオンに近づいていくごとに、温度が下がっていく気がした。
ロアアール生まれの彼女が──それを不快に感じるはずなどなかった。