命の書状
レイシェスに『その報』が届いたのは、ロアアールの短い夏が折り返す、夏至直前のことだった。
北西の回廊の国境に、一人の男が現れたというのだ。
国境と一言で言っても、地面に線が引いてあるわけではない。
細く険しい地帯の、唯一通ることの出来るだろう細道に、ロアアール軍の国境警備隊はいた。
そこへ、息も絶え絶えの男が、国境を越えてたどり着いたのである。
それは近年、稀に見る大事件だった。
隣国側にも国境警備隊はおり、国境の地形を知り尽くした彼らをかわしてやってくる人間など、ここ100年の資料でただ一人も出てこなかったからだ。
そんな珍事に、国境軍は動揺しながらも彼を捕らえた。
問答無用で殺されてもおかしくなかったのだが、国境越えの過酷さを物語る衰弱が、男にとっての幸運となった。
倒れたところを簡単に捕縛され、無理やり起こされた男は、「ああ、よかった」と言ったという。
そして。
「私は、フラの公爵弟補佐官です。ロアアールの公爵妹付き侍女ネイラの婚約者でもあります。大事な報せを持って参りました」
死にかけながらも、そんな長口上をべらべらと並べ立てたというのだ。
驚いたのは国境軍である。
まさか、国境の向こうからフラの盟友が現れるとは思わず、大慌てで本部へ真偽の問い合わせを送ってきた。
彼の顔を知る軍人を同行させ、間違いないと分かるや、すぐに彼は釈放された。
だが、即座に早馬に乗って来られるほど、フラの補佐官の体力は戻っておらず、彼がこの国に持ち込んだ書類だけが、レイシェスの元へ届けられることになった。
それを見るや、レイシェスは顔色を変えて三将軍を呼び出す。
これは、自分だけで見てはならないと、即座に分かったからだ。
精緻に描かれた隣国の地図、回廊の向こう側の町周辺の、更に詳細な地図、その他、すぐ近くの地にいても手に入ることのない、ごまかしようのない数字による情報が、びっしりと粗末な紙の上に記されていたのである。
三将軍を待っている間に、彼女は同封されていた書状を開いた。
すると、封書が二つ現れるではないか。
ひとつは、レイシェス宛。
もうひとつは、フラの公爵宛だ。
自分宛の封を切り、彼女はそこに並んでいる文字を、懐かしく、そして愛しく思いながら見つめた。
それは、スタファからの書状だったのである。
──いろいろ略す無礼をお許し下さい。けれど、きっと今日も貴女は美しいのでしょう。今この瞬間、貴女を見ることの出来ない自分が、残念でなりません。
そんな書き出しから始まる文章に、思わずレイシェスの唇から「まあ」という言葉が洩れた。
略すと言っているのに、彼女への褒め言葉だけは略されていなかったからだ。
こんな文章、スタファ以外の誰が書けるというのか。
補佐官とは違い元気そうな様子に、レイシェスは我知らず微笑んでいた。
その表情を、すぐに真顔に戻す。
次の行から書かれている文章は、それほどに厳しい内容だった。
隣国に潜入した彼らは、国境沿いの町で──暴動を起こしたのだ。
民衆の不満に火をつけ、内側から隣国を崩そうとしたのである。そして、驚くべきことに、国境の警備軍を壊滅させるに至ったという。
──暴動は成功をおさめるでしょう。しかし。
文章の『しかし』の後は、読むまでもない。
隣国の国軍が、暴動を鎮圧するために出て来るのは、火を見るより明らかだ。
遠からずこの暴動は、物量によって押しつぶされることだろう。
なのに。
──これは、『好機』ですが、貴女に無理強いをしているわけではありません。その代わり、どうかもう一通の書状を、兄に届けて頂けませんでしょうか。
好機!?
レイシェスは、その文字に驚きと呆れを隠せなかった。
彼は何と勇敢で、そして愚かなのかと。
スタファは、己の命をかけてその舞台を作ったに過ぎない。
もしここで、ロアアール軍が動かず、フラの援軍の到着が遅れたら、彼はその命を持ってして幕を引かねばならないのだ。
そして、その舞台を演出したのは、スタファだけではない。
計画の厳しさの影に、レイシェスはあの男の気配を痛いほど感じていた。
元王太子──ギディオンの気配を。
この手紙を、もしも彼の名で出したとするならば、ロアアール軍が動くことはまずないだろう。
それは、ギディオン自身も、そしてスタファも分かっているはずだ。
だからこそ、スタファが書いた。
ロアアールにおいて、自分の方が命の価値が高いと理解し、まごうことなきその命を天秤の片方に乗せて、レイシェスに送ってきたのである。
その上で、彼は『好機』と書いた。
スタファ自身がそう考えたということは、あの男の計画を受け入れたということだ。
ありえないとは、思わない。
しかし、一年ほどの時間で、あの二人が分かり合える関係になったとも思えない。
それでも、スタファは彼の計画を受け入れた。
少なくとも、ギディオンのことを認めはしたのだ。
レイシェスの知る、世界というものの構造が、いま激しくきしんでいるのが肌に伝わって来る。
国境の線が、みしみしと悲鳴をあげている。
その音が、頭の中で響き渡る中、執務室の扉がノックされた。
もう三将軍が到着したのかと思いきや、それはウィニー付きの侍女、ネイラによるものだった。
扉のところに突っ立ったままの彼女の表情は、青ざめ、指先は震えている。
「わ、私めに、仕事はございませんでしょうか?」
声までも震わせながら、深刻な声音でレイシェスに訴えかけるのだ。
ああ、とレイシェスは理解した。
国境を越えてきた、死にかけの男。
彼は、この女性の婚約者だというのだ。
きっと、彼のことを心配して来たのだろう。
レイシェスは、そう思ったのである。
しかし。
それは、違った。
「もし、フラに急ぎで運ばねばならない書状がありましたら……私の命に代えても、必ず届けてみせます」
それは──違ったのだ。
ネイラは、かの男が命賭けでロアアールへ届けた書状を、同じく命賭けでフラまで届けようと決意して、ここへ来たのだ。
いまは亡き、シャーヒン翁の唯一の子孫。
レイシェスの祖母の命を受け、本当に命を賭してフラまで駆け抜けた男。
その男の孫娘は、祖父の誇りと婚約者の誇りの両方を、己で背負い込もうとしているのだ。
レイシェスは、己の目に涙が浮かんでくるのを感じた。
「ネイラ……私の祖母は、ロアアールの未来のためを思い、あなたの祖父に命運を託しましたが、それは間違いだったのではないかと、時々私は思っていました」
その涙をこらえ、彼女はふいと窓の方を向いた。
背中で、ネイラがびくりと驚いた気配を発したのを感じる。
「祖母は……父に相談すべきだったのです。そして、正式にロアアール軍から、伝令を送るべきだったのです。その方が、きっと早く……そして確実でした」
ネイラの祖父の命を、がりがりと削り落とす必要はなかったのだ。
「書状は、我が軍の手で正式にフラへ届けます」
この場所から、南の駐屯地まで最速で馬を走らせ、その駐屯地から、また次の軍人がイストまで走る。イストに駐留している文官の護衛隊に書状を受け渡し、フラまで走らせる。
そんな最高速の早馬のルートが、レイシェスの頭の中で出来上がった。
彼女は振り返り、動けないままのネイラを見る。
「ネイラ……貴女の誇りは、私の命を賭けて受け継ぎます」
もはや──その目に涙はなかった。