ロアアールへの手紙
レイシェスの手元には、三通の手紙が届いていた。
イスト(中央)から一通と、フラから二通。
イストからのものは、ウィニーの結婚式の延期の通知だった。
しかも、無期限延期である。
それは、ウィニーがいまロアアールにいないせいではなく、結婚相手であるあの男が、イストから消えたせいだ。
勿論、そんなことはおおっぴらに中央が明らかにするはずもなく、フラの公爵からの手紙で真相は明らかになった。
彼は、船に乗って異国へ旅立ってしまったというのだ。
生きて帰って来られるかも分からないところに、身分を隠して渡ったのである。
ほんの少しの運命のいたずらでも、あの男は命を落とすかもしれない。
それに、彼が帰る気を失えば、簡単に行方不明になることも出来るだろう。
だからこその、無期延期なのだ。
その日がいつくるのか、本当に来るのか、旅立った本人以外は決して知りようがないのだから。
実質、中止と言ってしまいたいのだが、中央の面子がそれを許さなかったという風にしか取れない。
ほっとしていいのか悪いのか、レイシェスはその通知を見ながら苦笑してしまった。
軍部は、相変わらずこの件に関して、折れる素振りはない。
だが、自分たちが公爵家に対し、従順でなかったことだけは、三将軍すべてが自覚していることで。
どうぞ、自分の首を切って下さいと、全員に太い首を差し出され、レイシェスを困らせる羽目となった。
一気に将軍全ての首を挿げ替えて、せっかく収まった隣国の侵攻感情を、刺激するわけにもいかない。
現在は、筆頭ハフグレン将軍を、謹慎処分にして様子を見ているところだ。
軍とフラを巻き込んだ、ウィニー婚姻騒動は、思いがけない展開を迎え、レイシェスは、悩ましさに包まれていた。
その悩ましさを、更に悩ましくする手紙が最後の一通。
スタファからのものだ。
──色々ありまして、これからあの男を殴りに行くことにします。しばらく、手紙をお送りすることが出来なくなりますが、私の心はずっとあなたの側に寄り添っています。
力強くも流れのある文字が、彼女の目の前でそううねっている。
あえて個人名が出されていない『あの男』が、一体何者なのか、レイシェスには考える必要さえなかった。
スタファもまた、国外へ出るというのだ。
あの男を殴りに行くためだけ──では、きっとない。
彼女は、執務室から窓の外を見つめながらそう思った。
ロアアールの、短い夏の盛り。
寒さに強い果樹の、白い花が咲き乱れる山を遠くに見ながら、レイシェスは南の男のことを思った。
彼は、本気の人だ。
本気で、レイシェスの元に婿入りを考えている男なのである。
あの男の目的が、侵攻であるというのならば、隣国へ潜入するために旅立ったのだろう。
その男を追って行くということは、スタファもまたその国に行くのだ。
伝聞でしか聞くことの出来ない、近くて遠い国。
己のために、そしてロアアールのために、彼は顔の見えない隣国というものを見に行くのである。
危険ではあるが、それはどれほど有用で得がたい体験となるだろう。
それに、フラの公爵が反対する姿は、どうしても想像がつかなかった。
あの男ほど無謀な飛び込み方はしないだろうし、下準備もきっちり行うだろう。
危険の濃度を薄め、確実にかの地を踏んでくるはずだ。
結果的に言えば、あの男は時代を引きずるように先を歩いている。
動かすことのないはずの国境線を変えるために、ロアアール軍の非協力な行動を知るや、さっさと異国へ行く道を選んだのだ。
おとなしく、観光するような性質ではない。
彼が引き起こすことは、隣国にとってはおそらく良いことではないだろう。
何しろ、自国の味方のはずの人間さえ、敵に変えてきたのだから。
だが、そんな男が、たった一人だけ味方につけようとした人間がいる。
ウィニーだ。
レイシェスの愛すべき妹は、あの男を変えた。
どう変わったのか、いまだ彼女は直接知ることは出来ていないが、磨きのかかった奇行は、他人を傷つけるため以外の動きを始めている。
そんな男を、スタファは追っている。
互いの命が尽きなければ、どこかで出会うだろう。
身分を表す椅子もなく、互いを強く守るものもない環境で、彼らは向かい合ってどうするのか。
殴りに行く。
レイシェスは、手紙に書かれたその文字を、指でなぞるようにもう一度見つめた。
「……お気をつけて、いってらっしゃいませ」
胸の締め付けられる切ない気持ちが、彼女の中であふれ出す。
父の喪があける三ヶ月後に予定されている、レイシェスの公爵叙任式には、妹も彼も列席することはない。
彼らは、彼らなりの戦い方を選んでいた。
レイシェスもまた、一人で立たねばならない。
そこにある不安と、いま彼女の内にある切なさは──もはや違う色のものだと彼女は分かっていた。