姉の戦い
「公爵になってしまうとは…残念なことだな」
王太子の指から、ようやく自分の手を離すことに成功したレイシェスであったが、一度近づいた身を、勝手に下げることも出来ず、彼の前にかしずき続けているしか出来ない。
「5公爵の娘なら、側室に上がってもおかしくないだろう」
からかっているのではないとしたら、彼女の容姿をひどく気に入ったということだろう。
側室。
王や王太子は、最初から正妃と決めて女性を娶らない。
公爵の子女や王の親族である貴族が嫁ぐことが多く、互いに不平等にならないためである。
誰が嫁いでも、嫡子と認められる子を産み、その子が王となって初めて正妃として認められるのだ。
だが、ロアアールは、5公爵の中でただひとつ、王に娘を送ったことのない地域。
気骨あふれる守りの地は、媚を売ることなど良しとしない。
だから、たとえレイシェスが跡継ぎでなかったとしても、この男の希望など叶うことなどないのだ。
いや、正直に言えば危なかっただろう。
王太子が、本気で望めばロアアールに圧力をかけることなど、造作もないはず。
しかし、常識的に考えて、公爵となるべき女を王宮に引きずっていくわけにもいかない。
己の肩書きが、初めてレイシェスを守った瞬間だった。
なのに、王太子はその傲慢な灰緑の瞳を、残酷な色に細めるではないか。
「そういえば、確か……お前には、妹がいたな?」
ぞくっとした。
二つの意味で、だ。
ひとつは。
「妹は、お前によく似ているのか?」
王太子が、妹に興味を示すこと。
「いいえ、まったく似ておりません……指先ひとつ、爪の先ひとつ、まったく似ておりません」
ウィニーを、この男の慰みものにするわけにはいかない。
あの明るい妹が、この王太子とわずかも合うはずなどないのだ。
ぼろぼろに傷つけられるのが、関の山だろう。
ウィニーは、もう十分傷ついたではないか。
妹には、幸せな結婚を──レイシェスの願いの中に、王太子はとても入れられなかった。
「似ていなくても、美しいのか?」
「妹の噂は……聞かれておいでではないでしょう?」
ウィニーがこの場にいたら、間違いなく傷ついただろう。
レイシェスに、これほどのことを言われるのだから。
しかし、もし妹が絶世の美女であったとしても、同じことを言っただろう。
それが、彼女を守るためと信じて。
だが、話はそこで終わりではなかった。
「では……」
前よりも更に、ぞっとする。
レイシェスの考える、もうひとつの恐ろしいことを、この男が考えているのではないかと思ったのだ。
「では……ロアアールは、妹が継げばいい」
息が、止まるかと思った。
彼女が一番恐れている言葉を、どうしてこの男は、こともなげに言い放てるというのか。
レイシェスには、公爵になる以外の道はない。
ウィニーが、それに相応しくないと言っているのではなく、レイシェスはそうなるべく、それ以外をすべて捨ててこれまで生きて来た。
今更、別の道など歩けない。
別の道を歩く方法も、歩く靴もないのだから。
自分が、真っ青になっているのは、分かっていた。
その道を奪われたり否定されたりすることが、これほど息苦しく、目の前が暗くなるようなことだとは思ったこともなかった。
「わた……」
言葉が、もつれる。
「わた……くしには……公爵以外の生きる道はございません」
わなわなと震える唇で、それでもレイシェスは言い切った。
どれほどの不興を買うかなど、この時の彼女には考えることが出来ず、それでも言葉にしなければ、とても自分が保てそうになかったのだ。
レイシェスという女の輪郭がぼやけて、霞になってしまいそうに思えた。
キシっと、すぐ側の椅子がきしむ。
王太子が、身を乗り出したのだ。そのまま、青ざめて震えるレイシェスの顔を眺め回す。
「屈辱に歪んだ顔も……美しい。美しいとは、つくづく得だな」
王太子なるものは、かくも残酷に女を辱めるのか。
彼もまた、別の意味で美しい顔をしている。
この世の善の美しさではなく、悪の美しさ。
女の白い肌に爪を立てて、いたぶる習性でもあるのかと疑わずにはいられない酷薄な笑み。
「公爵などという、こんなつまらない地位より……次の王の母になる方が、女としての出世だとは考えないのか?」
こんなつまらない。
その言葉が、痛いほどレイシェスに突き刺さる。
本当に、こんなつまらないことはない。
王太子の前に跪かされ、言葉で嬲られ、それでも罵ることも立ち去ることも、許されないのだ。
女に対してこんな人間が、男を相手にしたとしても優しいはずなどない。
父も、どれほど王太子や王に辱められただろう。
しかし、父は耐えた。
耐えた挙句に、身体を壊したのだろうか。
どんなことにも耐え、ロアアールの領民を守るために生きる公爵。
必要以上に、イスト(中央)に媚びることなく、ここまでの歴史を紡いできた北西の地。
媚びないということは、風当たりがきついということ。
これもまた、その中のひとつ。
キッと、レイシェスは上にいる王太子を見上げた。
「私は、どんなにつまらなかろうと、必ず公爵になります」
そう。
これが──ロアアールの答え。
ギシと、王太子は椅子の背に身を預けた。
不機嫌なため息をひとつ、あらぬ方へと吐き出す。
「もういい……下がれ」
ようやく、レイシェスはその地獄の場所から、立ち去ることを許された。
ここにいる、ほんの短い時間で、どれほど彼女は苦しめられただろうか。
「失礼いたします」
心の根元まで抉り出され、弄ばれたのだ。
初めて肌で知る、男の政治の世界。
一瞬でも気を抜けば、心をへし折られるか、媚びた方がマシだと思わされる。
レイシェスは、心をがちがちに凍らせ、その中にさっきの衝撃を閉じ込めようとした。
今後、あの王太子とずっと付き合っていかなければならないかと思うと、憂鬱を通り越して、床に伏して閉じこもりたくなる。
そんな、酷い精神状態のレイシェスは。
「姉さん、おかえりなさい!」
ウィニーの明るい笑顔で、わずかながらでも救われた。
祖母がそうだったように、彼女も人を明るくする笑顔を浮かべられるのだ。
「姉さん、顔色が悪いけど大丈夫?」
慌てて駆け寄って心配してくれる、丸い瞳。
ウィニーは、確かに美人ではない。
だが、自分の周囲の人たちの中で一番──温かい。
「大丈夫よ……ちょっと緊張しすぎただけ」
その温かさに、ようやく自分が呼吸をしていることを自覚して、レイシェスは大きく息を吐いたのだった。