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羽化

 細くくびれた回廊の向こう側。


 いつの時代も、ロアアールを苦しめた異国の世界が、その向こう側にある。


 ウィニーは、それを当たり前だと思っていた。


 それが、この地の宿命なのだと。


 だが。


 彼は、違った。


「国境を越えて、攻めに行く」


 素肌の背中の後ろから、そう告げられた。


 ロアアールに来て、実際に防衛軍を見て、隣国という存在を肌で感じた彼は、あっさり国境という線を越えようとしたのである。


 最初は、己の身で越えようとした。


 愚かで馬鹿馬鹿しい行為。


 しかし、彼はその愚かな行為を、違う形に変えたのだ。


 隣国を侵攻して領地を拡大する、と。


 そのために、彼は王太子を降りたのだ。


 王太子という地位や肩書のままでは、思うように前線に出ることが出来ないからだろう。


 そして。


 彼の思想や行動は、父である王の承認を得た。


 どうせ攻められるのならば、逆に攻めて領地を取ってしまえばいいのだ。


 そうすれば、防衛の戦線は変わって行く。


 ロアアールに国境線があるから、ロアアールが戦地となる。


 しかし、ロアアールの向こう側に別の領地があれば、そうではなくなる。


 ウィニーの姉を、父を、先祖を苦しめていた世界は、がらりと変わってしまうのだ。


 彼は、勝ち得た領地の最前線の主になるべく、北西の地に来るというのである。


「だから、今は『生きるのに忙しい』から、お前を抱く暇がない」


 ウィニーの背中の傷に触れながら話をした後、彼はそう言った。


 思わず、振り返っていた。


 自分が、肌着で胸を押さえているあられもない姿だと、分かっていながらも、彼を見ずにはいられなかったのだ。

 

 同じように、見えた。


 これまでウィニーが知る彼と、何ら変わらないように見えた。


 黒髪も、冷やかな灰緑の目も、皮肉な口元も、何もかも同じに。


 だが。


「ギディオン、だ」


 彼は、言った。


「私は……いや、俺は……ギディオン・イスト・バウエニスだ」


 名前は、名前に過ぎない。


 誰にでも名があるのと同様に、彼にも個人を指し示す符号があるだけ。


 ドクン。


 なのに、ウィニーの胸を打った。


 王太子という名の分厚い殻が、バリバリと音をたてて破れて行く。


 中から現れた男は──違う名前を持っていた。


 彼はいま。


 自分自身に、名前をつけた。


 それは、『どうでもいい』ことではなかったのだ。


 名前も知らない『王太子』という化け物に、これまで自分が対峙していたのだと気づかされる。


 姿は、同じだ。


 だが、違う名の男。


 その男と、ウィニーはいま、初めて向かい合った気がした。


 脳裏に巡りゆく、これまでの不幸な記憶。


 大嫌いの記憶。


 それらは、簡単に水に流してゆけるものではない。


 信用できるわけでもない。


 けれども、彼は己の名の元に、隣国を攻めると言った。


 それもまた、『どうでもいい』ことではない。


 ウィニーは、目を伏せた。


 いまの自分の姿も、彼と結婚せねばならないという事実も、この一瞬だけは彼女の脳裏から消え失せ、ただこの男──ギディオンの心を、ただ一心に考えたのだ。


「それは、『面白い』から、ですか?」


 この世界が、退屈でつまらないものだと思っているギディオンの、壮大でハタ迷惑な暇つぶし。


 ウィニーは、彼の言葉をそう位置づけた。


「そうだ」


 返答には、一瞬の間も、一分の否定もない。


「私は、あなたに兵の一人一人を慈しむ心があると思いませんが」


「そうだ」


 敬意の薄い、『あなた』という表現にも何の反応もせず、やはりギディオンは即答する。


 だが、今度はその答えだけでは終わりではなかった。


「だから……お前がいるのだろう?」、と。


 え?


 思わず、ウィニーはきょとんとして、彼を見た。


 そこに、いきなり自分が現れるとは思ってもみなかったからだ。


「お前は、使える。お前のその、頭に馬鹿のつくロアアールへの愛とやらは、俺の役に立つ」


 とても、褒められているとは思えない言葉だった。


 だが、存在価値がある人間だと、この男が認めて口に出したことの方が、ウィニーにとっては驚きである。


「面白いことに、お前の愛とやらは……使い捨てではないようだ」


 ギディオンは、薄く笑った。


 これまで多くの感情を、使い捨てて来た男にとって、それは珍しいものなのだろうか。


 ウィニーは、彼の心を見ようとした。


 光を通さない濁った沼の水の底に、何が棲んでいるのかを知ろうとしたのだ。


「婚姻の誓約書を書いてやろう……お前が、俺に名乗れば、な」


 沼の水底から現れた男の声は、甘くもなく優しくもなく。


 危うい強さと、冷やかな痛みを引き連れて、彼女に手を差し出すのだ。


 ウィニーの答えは、最初から決まっていた。


 ただ、この手に応えることは、最初に考えていたこととは違う。


 彼女は、ギディオンの暴走を、妻となって命を賭けて制御しようと思っていた。


 しかし、この手は違う。


 彼が求めているのは、『共謀者』だ。


 共に、異国への侵略を策謀するための、相棒である。


 だから、彼はウィニーの身体を、抱く必要がない。


 彼女のことを、ギディオンは力で屈服させることを──やめたのだ。


 何が変わったのか、ここまできてようやく分かった。


 ギディオンは、初めてウィニーを下に見なくなったのである。


 王太子という地位を降り、ついにその高い段差の上から、降りてきたのだ。


 同じ地に足をつけて、彼は手を差し出しているのである。


「ウィ……」


 呟きかけて、彼女ははっと唇に力を込めた。


 キッと、半ば睨むほど強い視線を、ギディオンに向ける。


「ウィニー・ロアアール・ラットオージェンです」


 その強い眼差しを、彼は表情ひとつ変えずに見ている。


 そして。


 ギディオンの唇が。


 動いた。


「ウィニー、か」


 生まれて初めて、彼に名前をなぞられた。




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