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厭わない人

 ウィニーは、荷馬車でゆっくりとしか帰ることが出来なかった。


 自分の足で動きまわれる状態ではなく、馬に跨るなんてもってのほか、だったからだ。


 みっともなくうつぶせに横たわっている彼女の元に、屋敷から侍女のネイラが駆けつけてくれた時は、本当に嬉しかった。


 男の人に、自分の世話をさせるのは、本当に心苦しかったし、恥ずかしくてしょうがなかったのだ。


 皆が自分に親切で、誰一人こんな無様な怪我を責めたりはしなかった。


 それは、ウィニーが公爵家の娘であったせいもあるだろうが、スタファや将軍がうまく言ってくれたことも大きいようだ。


 侍女からもたらされる、荷馬車の外の状況を聞きながら、彼女は二人に感謝していた。


 あの時。


 ウィニーは、目を閉じながら、心の中の時間を巻き戻す。


 あっさりと、己の軍を捨ててどこかへ行こうとする背中。


 また、誰かに迷惑をかけるつもりなのだと、彼女はすぐに分かった。


 だから、連れ戻そうと彼を追ったのだ。


 そんなウィニーを、振り返りもせず山へ分け入る背中。


 すぐ後ろから、同じような足音と呼吸音が聞こえ、ウィニーが振り返ると近衛兵がいた。


 王太子を、追ってきた仲間かと思った。


 しかし、雰囲気が違う。


 目は血走り、既にその手には抜刀した剣が握られていたのだ。


 ウィニーなど目もくれず、ただその視線は王太子に固定されていた。


「危ない!」


 彼女は、声を出した。


 まだ、近衛兵はウィニーさえ追い越してはいない。


 そんなことは分かっていたが、危険が迫っているのだと注意を喚起したかったのだ。


 ウィニーの声に、足が止まった。


 その目は、間違いなく近衛の皮をかぶった危険な人間を映した。


 なのに、王太子はあろうことか、こちらをきちんと向き直り、ただその場で突っ立ったのである。


 驚くでもなく、剣を抜くでもなく、ただの棒立ち。


 ああ、もう!


 ウィニーの事を『愚か』と連呼する彼自身こそ、愚かの塊に見えた。


 自分の命を餌に、どれほど世を乱せば気が済むのか。


 ソンナ男ナド、放ッテオケバイイ。


 ふっと、彼女の頭の中で悪魔が囁いた。


 ロアアールに咎の及ばぬ、イストの内輪もめ。


 彼女が何もせずに、ただ見ているだけで、王太子は殺されるかもしれない。


 その時、何故か母がウィニーの脳裏を横切った。


 もはや、恐怖も怒りも覚えないその人の顔を思い出し、彼女は頭を左右に打ち振って、母の映像ではなく悪魔の声を追い払う。


 ウィニーは、母を乗り越えた。


 姉と共に、決して乗り越えることなど出来ないと思っていた相手を乗り越えたからこそ、今こうして母を思い出しても、暗い気持ちにならずに済むのである。


 それは。


 相手が生きている内に乗り越え、勝ち得たものなのだ。


 死は、簡単にいいものも悪いものも遠ざけてはくれる。


 しかし、死んだ人間を乗り越えることなど、きっとウィニーには出来はしない。


 この男を見殺しにした後ろ暗さと、乗り越えられなかった挫折の相手として、彼女の心を一生冷たく奪い続けるだろう。


 だから──飛び出していた。


 でくの棒と狂気の狭間に、その身を投げ出していた。


 王太子のためではなく、これは自分のためなのだ、と。


 そのせいで、ウィニーは死にかけたようだ。


 気が付いたら、背中は痛いなんてものじゃなかったし、指先にほとんど力も入らない状態だった。


 スタファには怒られ、将軍には労われた。


 軍の皆にも、随分迷惑をかけたようだ。


 寝ている間に、防衛戦が終わってしまったと聞いて、ウィニーはいたたまれなかった。


 結局、迷惑をかけこそすれ、大した役目は果たせなかったのだ。


 そんな彼女のため息を、どう勘違いしたのか。


 侍女のネイラは、横たわるウィニーの背中を見つめながら、悲しげに言った。


「嫁入り前の大事なお身体に……」


 ああ。


 そっか、とウィニーは今更ながらに理解した。


 剣で斬られたのだ。


 背中には、さぞや豪快な刀傷が出来ていることだろう。


 お嫁入り。


 ウィニーは、遠く離れたフラの公爵のことを思った。


 その人に嫁ぐ可能性があったなんて、いまはもう遠い昔の話のようだったのだ。


 忙しすぎて、もはや嫁入りなど頭からもすっかり抜け落ちていたほどである。


 いま生きているということは、彼女はまだロアアールのために頑張れるということ。


「大丈夫よ、ネイラ」


 ウィニーは、笑った。


 心の中にいる人たちは、誰ひとりと背中の傷で彼女の価値を下げたりしないと分かっていたのだ。


 姉も、スタファもフラの公爵も。


 考えるまでもなく、それが分かっていることが、ウィニーには嬉しいことだった。


 ただ。


 心の隅の方にいた、黒髪の男もまた。


 彼女の背中の傷のことなど、厭う様子も見せなかった。


 ウィニーは、不思議に思った。


 厭わない事が、不思議だったのではない。


 どうしてそこにいるのか──それが、不思議だったのだ。



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