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王太子

 ようやく部屋の仕度が整った頃、レイシェスの元に王太子からの呼び出しが来る。


 こういうしきたりだったかしら。


 教えられたこととの、ずれを覚える。


 確か、身の周りが落ち着いたら、レイシェスの方から働きかけ、その後王太子への挨拶の時間が伝えられる──実際に動き始めるのは、それからと聞いていたのだ。


 しかし、遣いの者は『王太子殿下がお待ちです』と言ったのである。


 これではまるで、既にロアアールのために時間を取ってくれているかのようではないか。


 王太子を、待たせる訳にはいかない。


 急いでレイシェスは装飾品を身につけ、公爵令嬢らしい身なりを整える。


 普段、故郷でこんな宝石をつけて歩き回ることはなかった。


 男の公爵であれば、必要のないもの。


 しかし、まだ何の実績もないレイシェスを、少しでもよく見せようと、母が持たせてくれたのだ。


「姉さん、すっごく綺麗!」


 ウィニーは、目を大きく瞬きながら、嬉しそうに笑う。


「留守番、お願いね」


 その笑みに勇気の後押しをされ、レイシェスは部屋を出た。


 初めての人に会う時は、いつもどきどきする。


 フラの公爵とは、また別の意味のどきどき。


 ここからは、わずかの甘えも許されない世界なのだと、自分に言い聞かせる。


 みなが、フラのように優しいわけではないのだ。


 美しい花が、溢れるほど惜しみなく飾られる廊下と、踵を取られるのではないかと思えるほどのやわらかい絨毯を、高いヒールで慎重に踏みしめながら、王宮の左奥へと向かっている──あら?


 また、知識と現実がずれた気がした。


 王太子との面会は、もうひとつの謁見の間だと聞いていたのである。


 王宮には、謁見の間がふたつあり、ひとつは王のためのもの。


 もうひとつは、王太子のためのものだ。


 勿論、規模は明らかに違うが、王太子の内から、公爵をひざまずかせることに慣れさせるための練習場のようなところなのだろう。


 ともかく、それらの謁見の間は、王宮のひたすら中央の奥のはずだ。


 相当の奥まで来て、ようやく先導は扉の前で歩みを止める。


 立派な扉ではあるが、場所的におそらく王太子の謁見室ではないはず。


「ロアアールの公爵代理様を、お連れ致しました」


「…お通しなさい」


 返事をした男の声は、事務的なもの。


 おそらく、王太子本人ではないだろう。


 いくつかのズレは気になりはするが、いよいよご挨拶の時間だ。


 レイシェスは、背筋を緊張させながらも胸を張った。


 いまは公爵令嬢として、そして未来は公爵として付き合っていく相手。


 ゆっくりと開かれる扉を、彼女はまばたきもせず見つめた。


「レイシェス・ロアアール・ラットオージェン…御前に参りました」


 視界に映っているものに、一切心を乱されないように己を律しながら、ドレスを大きくふくらませ、中で片膝をつくほど折り曲げる。


 しかし、彼女を見ている男に、心を乱さないでいることは出来なかった。


 部屋の奥の大きな椅子に腰をかけ、足を組み、ひじ掛けに肘をついてこちらを見ている男がいたのだ。


 レイシェスより少し年上のはずの彼は、柔らかそうな艶のある黒髪と、緑がかった灰色の瞳を持っている。


 しかし、髪質とは裏腹にその瞳に柔らかさはない。


 傲慢さと自信たっぷりの気は、離れていても十分にレイシェスまで届いていた。


 金糸銀糸をふんだんに使われた豪奢な上着の襟もとから胸元にかけて、女性でもため息の出そうな、こまやかなレースが溢れて出ている。


 それほどの贅を尽くした衣装を、着るべくして着る男。


 その自分勝手な乱暴な気配は、レイシェスを戸惑わせた。


 ここは謁見室ではなく、この男の態度を見る限り、公的な場には感じなかったのだ。


 まるで、私的に部屋に呼ばれたかのようだ。


「なるほど…噂以上だな」


 彼女の礼儀作法の教師が見ているならば、素晴らしいとほめてくれただろう挨拶など、男──王太子は興味もないように、レイシェスを見ている。


 頭のてっぺんからつまさきまで、何度も。


 噂。


 フラの公爵もそんなことを言っていた。


 ロアアールに閉じこもっていたレイシェスの知らないところで、噂とやらは流れていたのだろう。


「側に寄ることを許す」


 厳しいほどに強い声は、レイシェスを脅かすようなものだった。


 身体がびくっと震えそうになるのを、何とか止める。


 側に?


 習っていたこととは、違う。


 ここで、王太子は公爵の遠方よりの上京について、労をねぎらう言葉をかけるはずだった。


 中に入れということだろうか。


「おそれいります」


 レイシェスは、三歩で部屋に入った。


「………」


「………」


 そのまま止まってみたが、ただ後ろの扉が閉ざされるだけで、王太子からは何の声も発せられない。


 それどころか、明らかに機嫌を損ねた目で、こちらを見てくるではないか。


 多くの使用人も側近もいるが、彼らは一切に反応せず、ただこの部屋の隅の空間を埋めているだけ。


 重苦しく息苦しい気配と想定外すぎる状況に、レイシェスが次の行動を模索していると。


「耳が悪いのか? 『側』に、と言ったはずだ」


 その不機嫌な声が、鉄鉱石のような重さを持って投げつけられる。


 一般の女性であれば、泣き出してしまうような威圧感と言葉の暴力。


 これが…挨拶?


 もはや、ズレなどという境界は飛び越えていた。


 王太子の表情を見ながら、ゆっくりと足を踏み出す。


 彼の言う『側』とやらが、一体どこまでなのか──その目を見ていなければ距離が分からない気がしたのだ。


 一歩一歩、探るように近づく。


 瞳も唇も、意思を強く表してはいるがピクリとも動く気配はない。


 椅子の三歩手前まで来た時、さすがのレイシェスも足を止めた。


 手を伸ばしても、触れられない距離でいたかったのだ。


「そこまでか」


 さして機嫌の直っていない声で、突き刺される。


 自分の顔の中心に、大穴でも開けられるのではないかと思えるほどの気配に、しかし彼女は必死に耐えた。


「ここまでで…お許し下さいませ」


 これは──普通の謁見とは違うものだ。


 その感触は、もう十分すぎるほど伝わっている。


 噂、なるもののせいだろう。


 ロアアールの公爵代理に、興味があったわけではないのだ。


 ただ、美しい女を噂通りか確かめたかっただけ。


 そう思うと、レイシェスは泣きたい気持ちになった。


 自分の美しさというものを、いまほど情けなく思ったことはない。


 彼の目に映っているのは、ただの女。


 どんなに勉強をしようとも、良い公爵になるべく努力をしようとも、そんなことは男たちには何の興味もないのだ。


「その距離で…挨拶が出来るのか?」


 王太子は、無造作に自分の手をレイシェスに向かって投げ出す。


 普通であれば、男が女にするような挨拶を、しろと言っているのだ。


 過去、女公爵が存在しなかったわけではない。


 5公爵の地位は、この国ではとても大きかったため、傍系に成り代わられるのを嫌がった本家が、直系の娘を公爵に据えることがあったのだ。


 そんな彼女らの物語を、レイシェスもいくつか読んでいた。


 だが、その中にこんな話は書いてない。


 彼女らも──おそらく、男には分からないつらさを数多く味わったことだろう。


 しかし、レイシェスは今、ロアアールの公爵の名代だ。


 家のため。


 彼女はもう一歩足を踏み出し、膝を深く折った。


「失礼いたします」


 投げ出されている大きな手を、そっと下から触れる。


 自分のすべての動きを、王太子は見ている。


 完璧に。


 レイシェスは、男が女にするように完璧に、親愛の挨拶を終えたのだった。


 そっと、手を離す。


 視線を上げると。


「さすがは、ロアアールの血筋だな」


 満足そうな、王太子の目があった。


 だが、それは決して優しい瞳ではない。


「すぐに溶けるような、ひ弱な氷ではないというところか」


 手を──取り返される。


 身を引き上げられるかと思うほどの強さで、手を引かれた。


 あっと思った時には。


「その氷の瞳に敬意を払って、俺も挨拶をくれてやろう」


 指先に。


 口付けられていた。




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