見えない契約書
う。
公爵家は、相応には広い。
広いとは言っても、屋敷の作りは王宮のものとは違い、非常に単純な構造をしていて、屋敷の中央の玄関や階段に、全ての廊下がつながっている。
要するに、特定の人物を避けて廊下を行き交うことなど、実際は不可能だということだ。
相手が階段付近で待っていれば、いつしか鉢合わせることとなる。
そして、ウィニーは鉢合わせた。
部屋着にガウンという、外に出るには相応しくない格好で、階段側の吹き抜けの手すりに腰かけている──王太子と。
彼女は、姉の部屋を訪ねた後、自室へと戻るところだった。
夕餉も終わった後の時間。
懸命な人であれば、寝られる内にしっかり寝ておこうと、廊下ではなく寝台に向かうべき時である。
警備の関係で、王太子の部屋は二階にあてがわれている。
姉側の棟の一室だ。
ウィニーの部屋は、階段を挟んで反対側。
ちなみに、スタファはウィニー側の棟になる。
客人を、しかも王太子の前を無視して通り過ぎるわけにもいかず、彼女は足を止めた。
手すりの上に腰かけるなんて不安定な体勢を、取らないで欲しかった。
うっかりでも後ろに倒れて、階下へ転落したらどうするのか。
すぐ側に、騎士たちが控えているが、主人の危険な所業一つ止められる者はいないようだ。
「こんばんは、殿下。そこは、危ないですよ」
何か問題があったら、ラットオージェン家が責任を取らなければならない。
物凄く言いたくない心を抑えつけて、ウィニーは何とかそれを口に出した。
この後の反撃に、内心で身構えながら。
「危ない? こういうことか?」
笑いながら、王太子の身が後方に傾いだため、彼女は心臓が口から飛び出さんばかりに驚いた。
そのまま、階下の床まで落ちてしまうかと思ったのだ。
短い手を、精一杯伸ばしてその腕を捕まえる。
物凄い重さが手にかかり、ウィニーは己の体重を全てかけて座りこむことで、何とか食いとめることが出来た。
心臓が、ばくばくと音を立てる。
本気だ、と。
いま、本当に軽い声と動きで後ろに傾いだが、王太子は本気で落ちてもいいと思っていたのだ。
いま、ウィニーが彼の腕をしっかりと掴んだまま座りこんでいるのが、何よりの証拠である。
周囲の騎士たちでさえ、真っ青になって駆け寄ってきた。
そんな、動揺する周囲のことなど、笑いの種にしかならないのか。
彼は、喉の奥で微かに笑いの音を立てるだけだ。
自分の命を餌に周囲をからかうなど、本当に性質が悪い男である。
なまじ本気なだけ、手の施しようがない。
「さて、熱烈に腕を取られてはしょうがない」
王太子は手すりから完全に降り、強い力でウィニーを立たせる。
「今宵は、この娘の部屋で休む」
ここを、後宮と間違えているとしか思えない言葉を、彼は堂々と吐き捨てる。
ウィニーは、ぱっと手を離し飛びのいた。
身の危険を感じたからだ。
そんな彼女の様子に、王太子は目を細める。
「私に、前線に行って欲しくないのだろう?」
そんな彼の唇から溢れ出したのは、脅し文句だった。
冷え冷えとした皮肉は、少しの心の弱さも許さない。
ウィニーは、近づかないまま強く奥歯を噛みしめた。
「で……殿下は、私とどういう関係になろうと、行きたければ勝手に前線に行かれるでしょう」
負けては、ならない。
彼の言葉や行動に、信念などない。
あるとするならば、それは破壊や破滅へ向かおうとしているにすぎない。
どちらにせよ、そんなものと心中する気など、ロアアールにも、ウィニーにもないのだ。
「はっ」
空気を破裂させるように、王太子は強い笑いを吐く。
「言ってくれるな。まるで私のことを、理解している風ではないか」
知りたくて知ろうとしているわけでは、決してない。
ウィニーやロアアールが生き延びるため、仕方なくだ。
そんな彼女の苦労など、やはりこの男は興味もないのである。
かっと、頭に血がのぼった。
「私は、必死に生きてるんです。生きていることさえ、つまらないなんて思っている方に、邪魔されたくありません!」
言って、しまった。
彼女は、心の中で弾けた感情の赴くまま、言葉にしてしまったのだ。
ウィニーは、そのまま固まった。
己がいかに無礼なことを言ったかは、己の全身でよく理解している。
「……剣を貸せ」
王太子は表情ひとつ変えないまま、後方に向かって手を差し出す。
騎士たちの方へ。
「で、殿下……」
「お前の剣を貸せ、と言っている」
ガチャリと重い音を立て、鞘ごと外して差し出される剣の──柄を握って受け取る王太子。
そのまま、鞘だけを騎士の手に残し引き抜いた。
「お前が、どれほど必死に生きようと……」
剣が、突き出される。
ウィニーの胸のすぐ前に。
「誰かの悪しき気まぐれひとつで、なかったものになる」
醒めた言葉だった。
怒りというより、馬鹿馬鹿しいものを見る瞳。
ぷると、ウィニーは自分の喉が震えるのを感じた。
怖かった。
自分の生を否定しようとする人間が、ここにいる。
ウィニーの命など、どうでもいいと思っている人間だ。
まさに。
彼は、自分を的確に表現した。
いまウィニーの目の前にいるのは、『悪しき気まぐれ』そのものだったのだ。
ぴくりと揺れる剣の切っ先。
必死に走っている自分に、王太子と言う災厄が降り注ぐ。
こんな男の心ひとつで、奪われてしまうちっぽけな命。
それが悔しくなって、ウィニーは奥歯を強く噛みしめた。
まだ、敵に殺された方が百倍マシだと思えた。
彼らは、彼らなりの信義に基づいて、命がけで戦いを挑んでくるのだから。
「殿下に殺されるくらいなら……戦場で死にます」
言葉は、生まれてしまう。
ただの石ころのように、ころころと唇を転げ出て、しかしどんな色や形や重さであろうとも、そこに存在し続ける。
聞いた人間が、いる限り。
王太子は、笑った。
地獄の底から、何かが這い出るような低い低い笑み。
「そうか……では、私が前線に連れて行ってやろう」
剣は、下ろされた。
代わりに──目に見えない契約書がウィニーに手渡された。




