夜が力を失うのは
来た。
ウィニーは、ハフグレン将軍の隣で身体をこわばらせながら、軍舎の前でその人間の到着を出迎えた。
馬を降り、五人ほどの側近を従えてその男は近づいてくる。
ロアアールの冷たい春風に、黒髪を激しく嬲られながら──しかし、彼の視線はわずかも揺らぐことなくウィニーに注がれている。
こんなに早く再会することになるとは、思ってもみなかった。
この拳の国を統べる王の、後継者である王太子だ。
彼は、濃紺の地に金の飾りをあつらえた軍服姿だった。
いまのロアアールには、一番ふさわしい姿ではあるが、彼が身にまとっているその衣装には違和感を覚える。
普通の軍服というよりも、儀礼的なそれに見えたのだ。
王宮で、装飾的な衣装を着ているのと、何ら変わらない気がした。
少なくとも。
王太子には、ロアアールを守りたくてしょうがないという気持ちは、微塵も見えなかったのである。
彼の目的の一部は、ウィニーだろう。
それは、彼女自身分かっていた。
そこに愛だの情だのがあるかと言えば、首をかしげざるを得ないのだが、奇妙な執着心があるのは分かっている。
彼は、そんな自身の執着心さえ、この国をもてあそぶ材料にしているような気もするが。
「遠路はるばる……」
ウィニーは深く膝を折り、儀礼的な挨拶を始める。
本当は、レイシェスも出迎えに来るはずだった。
スタファも同席すると言ってくれた。
だが、それらをウィニーは押しとどめたのだ。
二人に比べて、彼女はまだ暇な方だ。
ならば、自分がこの王太子からロアアールを守る防波堤にならなければならない、と。
異国の勢力に立ち向かっている間に、背中から蹴り飛ばされては大変なことになってしまう。
目の前の王太子は、ウィニーをじろじろ見ながら挨拶を受けた後、更に足を進める。
彼女の目の前に立つと、至近距離で見降ろしてくるのだ。
ハフグレン将軍が、挨拶をする隙間を失って、怪訝な視線をこちらに向けている中──王太子の手が、伸びる。
わしっ。
その手は、ウィニーの赤毛の上に着地し、無造作に髪を掴む。
あー。
慣れたわけではないのだが、彼のよくやる行動のひとつだったため、ウィニーは冷や汗を背中にかきながらも、不用意な動きを押しとどめられた。
わしわし。
少年のように後ろで結んだ彼女の髪を、乱すようにかき回す。
視線は、いつも通りの不機嫌さははらんでいたが、強い感情を表しているようには見えなかった。
「ロアアールの女は、男の真似事までするのか」
冷たい皮肉が、間近から落とされる。
ウィニーは、それにぴくりと反応してしまった。
男の、真似事?
彼女は、男になったつもりはない。
それは、髪を短くした姉にも同じことが言える。
男がいないからと言って、彼女ら姉妹は男になりたいわけではないのだ。
「男の真似ではなく、今はドレスが邪魔だっただけです」
愛しい祖母の衣装は、いつでもウィニーを待っていてくれる。
それに袖を通すのに、何のためらいもない。
しかし、安寧あってのドレスだ。
強固なロアアールあっての、ドレスなのだ。
「都に来れば、邪魔になることなどない」
髪ごと頭を掴まれて、上を向かされる。
王太子が夜のような髪と共に、上からウィニーに降ってくるような錯覚を感じる。
ロアアールは、寒い地だ。
冬の夜も長い。
だが。
髪を掴まれたまま、ウィニーはまっすぐに王太子を見返した。
「その話は、姉が正式に断りをお送り致しました。私は、ロアアールにずっといるつもりです」
この地にも、ついに春が来た。
いつまでも、冬と夜に震える姉妹ではなくなったのだ。
王太子は、眉間をうっすらと翳らせながら、首を傾けた。
「お前の母からの承諾の書状しか、見てはいない」
冬と夜が、ウィニーの首根っこにまだ手をかけている気がする。
少しでも脅えれば、そのまま永遠に暗闇の彼方へ連れ去ってしまいそうな気配だ。
拳を、ぎゅっと握る。
夜に力で刃向っても、八つ裂きにされるだけ。
夜が力を失うのは。
ウィニーは、こわばる頬を叱咤して、ぐしゃぐしゃの髪の下で笑って見せた。
「では、改めて私の口から……その件は、お断り申し上げます」
夜が力を失うのは──柔らかな光の下だけ。