想像していなかったこと
レイシェスが妹につけていた護衛の一人は、軍の下っ端ではない。
彼女と軍とをつなぐ、軍の補佐官の一人である。
ウィニーと共に軍議に同席し、持ち帰ってきた書類の補足説明をしてもらうためだ。
妹からは、軍議全体の雰囲気を聞ければいい。
公爵家の人間として、どう感じたか。
それは、軍の人間には決して語れないことなのだから。
「みんな厳しい顔で話をしてたけど、落ちついていて心配ないように感じたよ」
妹は、一生懸命その場の空気を伝えてくれた。
既に、レイシェスが帰ってくる前に、本格防衛の初期配置はある程度終えられていた。
さすがは、老将たちだ。
公爵の采配なしで出来うる限りのことは、何の指示を出すまでもない。
レイシェスは、妹の労をねぎらい、代わりに補佐官を入れて詳細を聞こうとした。
「姉さん……」
しかし、妹は出て行こうとはしなかった。
少し戸惑いがちではあるが、その瞳をまっすぐにレイシェスに向け、彼女はこう言ったのだ。
「私、端っこで邪魔をしないから、聞いていてもいい?」
決意のまなざしだ。
少し前。
ほんのちょっとの隙間に、妹は言った。
『フラにお嫁に行くのは、やめにしたから』
刹那の彼女の気持ちを、きっとウィニーは知ることはないだろう。
温かい水が、自分の身の内を満たして行く感覚。
レイシェスは、独りで戦うつもりだった。
この寒い地を精一杯、守り抜く。
そんなレイシェスの冷たい手を──妹は取ってくれたのだ。
これまで、二人は姉妹であった。
だが、考えはまるで違うし、ロアアールの未来についても、違う方向を向いていた。
そんな妹の目が、こちらを向いたのだ。
大変な『いま』という時間だけでなく、この地のために尽くしたいという気持ちが、レイシェスに届いたのである。
初めて、姉妹で同じ方向を見たのだと、彼女は深く感じた。
独りではない。
同じ血を持ち、同じ未来を見る一番近い同胞を、レイシェスは初めて得たのだ。
そんな決意を持った妹を、どうして執務の場から追い出すことが出来ようか。
学ぼうと、しているのだ。
自分がしている仕事が、一体どんな形をしているのか。
それを、己の血肉にしたいとウィニーは思っている。
レイシェスは、それを心の底から嬉しいと思った。
姉妹で手に手を取って、これからのロアアールを支えることが出来る。
そんな明るい希望が、彼女の心の中に芽生えた──というのに。
新たな問題は、その翌日には発生してしまったのだ。
※
「何と……いま、おっしゃったのですか?」
レイシェスは、震えそうになる唇に力を入れて押しとどめた。
彼女の執務の部屋にやってきたのは──母だった。
忙しいという理由で、出来るだけ早く出て行ってもらおうと思っていた矢先、彼女は恐ろしい話をしたのだ。
「ですから、ウィニーを王太子の側室としてあげます、と言っているのです」
何故、レイシェスが茫然としているのか、その理由さえ理解できないという風に、母はわずかに首を傾けながら、もう一度同じ言葉を繰り返した。
目元はすっかり落ちくぼみ、そこには妖しい生気とは違う光をたたえながら、母はにこりともせずに言う。
「突然、どうしてそんな話になったのですか!」
反射的に、声を荒げていた。
今までの自分からは、信じられないほどの強い語調を母にぶつける。
この場にいるのは、母と自分とそれぞれの侍女のみ。
そんな閉鎖された内輪の空間で、レイシェスは即座に席を立ち、入口にいる母の元へと詰め寄ったのだ。
「まあ、何とはしたない言い方をするのでしょう。レイシェス、あなたにはまだ作法の先生が必要なようですね」
「お母様、わたくしたちはラットオージェン公爵家の人間です。先祖代々の公爵の子女は、ただの一人も王族へ嫁いだ事はありません。この誇り高き風習を破るおつもりですか?」
次元の違う、まったく噛み合わない言葉を、お互いにぶつけ合う。
いくらかの不毛なやりとりの後、ようやくにして母は次のように白状したのだ。
「先日、王都からその旨の書状が届いたのです。お前は忙しそうだったので、私が了承の返事をお送りしておきました」
この言葉を聞いた時。
レイシェスの頭の中で、幾本もの細い何かがちぎれる音がした。
ブチブチブチ、と。
ヒステリックに絶叫しなかった自分を、この時ばかりはほめてやりたかった。
「なんて……ことを」
代わりに襲ってきたのは、めまいを伴う激しい頭痛。
「何を困ることがあるの? どうせあの子がロアアールにいても、何の役にも立たないでしょう? アールに嫁入りさせようかと思っていましたけれど、この際、王族でもいいでしょうに」
何の罪悪感も含まれていない母の言葉を、レイシェスはゆっくりと追いかけた。
その先に、母がいる。
父を含めた先祖代々のロアアールの伝統に、何の価値も見出していない女性。
しかも、公爵の地位を受け継ぐレイシェスに、一言の相談もなく、だ。
想像だにしていない出来事を前に、彼女はいつまでも茫然とはしていなかった。
側に駆け寄る侍女に、こう言った。
「侍従らを呼びなさい。母を自室に戻し、そこから決して出さないように!」
レイシェスは、ついにそう決断したのだ。
重要な会議の席に入れなければ、その内おとなしくなるだろう。
そう思っていた自分が、いかに愚かだったかを。
「レイシェス!? 何を言っているの!?」
「お母様がなさったのは、ラットオージェン家に対する背任行為です。沙汰があるまで、決してお出にならぬよう!」
入ることを許された数人の侍従らは、おろおろと母とレイシェスを見比べる。
「連れてお行きなさい」
そんな侍従らに、レイシェスはピシャリと言いつけた。
鞭を振るわれたかのように、彼らは抵抗する母を執務室から引きずり出したのだ。
遠くなる自分への恨みごとの声を聞きながら、彼女は頭を抱えた。
想像もしていなかった、最悪の事態だ。
この忙しい時に、何てことをしてくれたのか。
よろめく足を叱咤しながら執務席まで戻ると、レイシェスは力尽きてそのままどすんと座り込んでしまった。