堤防と悲劇
身分に関係なく、相手を殴り飛ばせるとするならば、スタファは最初に間違いなく王太子に鉄拳を浴びせただろう。
残念ながら、それは許されないため、ぎりぎりと奥歯を噛みしめるしか出来ないのだが。
前回の謁見会まで、王太子はスタファにとって、空気と大差なかった。
兄が敬遠している理由も、よく分かっていなかった。
だが今回、その理由は嫌というほどよく理解出来た。
この男に目をつけられると、ロクな事にならない。
周囲の目など気にすることなく、王太子自らの速度で動き、そして傍若無人の限りを尽くすのだ。
いまここに、この男が来たということは、レイシェスを放り投げて来たのだろう。
最初にウィニーを、ホールから放り出したように。
まるで、猫のような興味の移り変わりは、ハタ迷惑以外の何物でもない。
本気で殴り倒すわけにもいかず、スタファは怒りを抑え込みながら、赤毛の可愛い娘を守ろうとした。
「どけ」
「いまはまだ、仕度中です」
スタファは、わざと大きめの声を出した。
中のウィニーに、異変を伝えること。
他の人間に、王太子の方が問題のある行動を起こそうとしていること。
それらを、明白に伝えるためだ。
後で、このことが何か問題になった時、スタファが常識的な行動を取ったという証拠を残しておかなければならなかった。
「それが……どうかしたか?」
だが。
そんな彼の努力など、平気で踏みつける男がいた。
立ちはだかるスタファを簡単に脇に押しやり、王太子は扉を開け放つ。
慌てたスタファも、室内を見た。
髪を直しているだけなのだから、ひどい有様ではあるまいと思いながらも心配だったのだ。
幸い。
ウィニーは、無事に髪の直しも終えていた。
周囲に多くの侍女もいるが、王太子の登場を見るなり、すぅっと頭を垂れて下がって行く。
唯一。
赤毛の年配の侍女が、櫛を手に持ったまま表情を曇らせてこちらを見ていた。
「恐れながら、王太子殿下……まだ、全ての仕度が整っておりません」
その女性は、長く王宮に努めているのだろう。
静かに、しかしきっぱりと王太子に物を申している。
「南長、お前の持ち場はここではないはずだ……余計な口を挟まずに下がっていろ」
「王太子殿下……赤毛を知らぬ者に、赤毛を美しく結い上げることは出来ませぬ」
櫛を捧げ持ち、彼女は心底辛いことのように語るではないか。
スタファは、怒っていたのも忘れて笑いそうになってしまった。
南長と呼ばれた女性は、何と役者であるかと。
そして。
王太子の方もまた、他の人間に対する態度と彼女に対しての態度は、一線を画しているように思えた。
「もう出来上がっているだろう」
「まだ、でございます」
「南長。それ以上、私の邪魔をすると……」
「いつも、申し上げておるではございませんか。『お好きな時に、首は差し上げます』と」
王太子と女性の間で、物凄い火花が散った気がした。
冷たい王太子の目と、熱い南長の目。
もしここに、剣の一本でもあれば、刃傷沙汰が起きていたに違いないと思えるような緊張の一瞬。
「フン……」
王太子は、鼻を鳴らしたかと思うと。
「きゃああ!」
ウィニーの。
髪を。
引っ張った。
せっかく、綺麗に結い直されていた赤毛は、再び悲劇の有様となったのだった。
※
結局。
ウィニーの髪が綺麗に整えられるまで、更に多くの時間が必要だった。
扉が開き、彼女は南長と共に部屋から出てくる。
「最初より、綺麗な髪になった」
スタファは、ウィニーの復活を励まし喜んだ。
多少元気がないながらに、彼女も笑みを浮かべる。
王太子がいないことに、何よりほっとしたように見えた。
南長に水を差され、彼はさっさと出て行ってしまった。ホールにでも戻っているのだろう。
「お見事ですね……南長殿」
スタファは、ウィニーを救った女性に語りかけてみた。
彼女が何者かは、分からない。
その容貌と呼ばれ方からすれば、間違いなくフラの出身なのだろうし、こんなところで「長」という肩書で働いているのだから、いい身分のはずだし、親戚の可能性も高い。
「その肩書で、呼ばれない方がよろしいかと……」
ふふふと、女性は意味深に微笑む。
スタファが、何のことか分からずにいると。
「南長は、後宮の肩書ですのよ。もし、フラからご側室が上がられることがあれば、私がお世話することになるのです」
ああ。
スタファは、苦笑した。
そういう意味か、と。
何故、肩書に『南』があるのか、やっと分かったのだ。
当然のことだろう。
後宮の事など、本来表に出されることはないため、他の男が知るはずなどないのだから。
この分だと、東長だの北長だの西長もあるに違いない。
各公爵家から側室をもらうかどうかも分からないというのに、常に準備しているところが憎たらしい。
いつでも、側室をもらうことが出来るという、自信の表れに思えたからだ。
ふと、スタファは疑問にぶつかる。
「ところで……北西長はおいでか?」
北西は、これまで一度も王家に側室を出していないはず。
突然、領地の名前を出されて、ウィニーが驚いたようにスタファを見上げる。
「肩書はありますが……どなたもついてらっしゃいません」
南長は、意味深な笑みを浮かべた。
この傍若無人な王家でさえ、長い間諦め続けたロアアールの娘。
見た目こそ赤毛ではあるが、スタファはウィニーの事が心配でならなかった。




