大馬鹿
ウィニーは、素直な娘だった。
無作法で、町娘のように奔放なところはあるが、笑うと可愛いし、『兄さん』なんて呼ばれた日には、本当に自分の妹のように思えてくる。
正妃の子の中では、末っ子であるスタファにとって、その言葉は甘く心をくすぐった。
しぶしぶ子守をする予定が、彼女のためならばそれもいいかと思い始めていた矢先。
「えへ……スタファ兄さん、フラのどこかにお嫁入りすることになっても、こう呼ばせてくださいね」
見過ごせない言葉が、彼に激突した。
話の流れが読めていなかったスタファは、反射的に自分の表情を抑えることが出来なかったのだ。
そうだった、と。
どれほどウィニーを可愛い妹と思っても、彼女の嫁いでくる席はフラにはなかったのである。
その上、スタファの曇った表情は、過敏に伝わってしまう。
「あ、あの……すごい身分の方でなくていいんです。ロアアールは、そんなに贅沢な暮らしはしてませんから……あの……」
不安に揺れる黒い瞳と、少し呆然とした唇。
足場の少ない中、握っていたはずの綱が、いつの間にか少し遠くに離れて揺れているのに、必死に手を伸ばそうとしているような姿。
「そういうわけにはいかない。フラがロアアールを見下すような婚姻を、持ちかけることも出来ないし、そうしたところで断られるだろう」
スタファは、ゆっくりと立ち上がった。
向かいの、彼女のソファへと近づくためだ。
自分の姉たちを見てきたおかげで、フラの女性がどう癇癪を爆発させるかまで、よく知っているつもりだった。
「でも……でも……」
現実を見たくないと、小刻みに動く目。
スタファは、そんな彼女の足元に膝をつき、その手を取った。
血の気が引いた手は、とても冷たい。
これが、今のウィニーの心の温度なのか。
「大丈夫だ……フラでなくとも、兄上が一番いい嫁ぎ先を考えてくれている。心配しなくていい」
小さい子に言い聞かせるように、スタファは声を穏やかにしてそう言った。
こんな言葉や声を出したことは、これまでない。
家族が自分にしてくれたことを思い出し、真似るしかスタファには方法がなかった。
「……」
よほど、フラに嫁ぐということを楽しみにしていたのだろう。
ウィニーは、すっかり気落ちしてしまったようだ。
赤毛はフラの象徴のようなものだからこそ、彼女はそこに溶け込みたかったのだろう。
「うん……」
奇妙な音で、彼女は頷いた。
スタファに向かって、そうしているようには見えない。
自分の中の言葉に、自分で頷いているのだろうか。
「うん……あ、いいえ、はい……分かりました」
少しずつ、顔が上がっていく。
手に、温度が戻ってくる。
「他の地でも大丈夫です……元々、どこでもよかったんです。心を砕いてくれてありがとうございます、スタファ兄さん」
笑顔に、なる。
荒地から生まれた、小さな双葉を見つめるような瞳だ。
小さな小さな幸せでも、大事に自分の糧として生きている人の瞳。
彼女は、赤毛ではあるが、完全なるフラの人間ではない。
その身には、確かにロアアールの血が入っていて、そしてロアアールの地で生きてきた時間がある。
この我慢強さと、小さな幸せを満足する性質は、彼女をこれまでかの地で育ててきたのだ。
胸が、痛んだ。
ウィニーを、フラに迎え入れることが出来ない現実を、今ほど呪ったことはなかった。
許されるならば、無理やりフラに連れ去って、タータイト家の娘として、晴れやかに血族にでも嫁がせただろう。
それほど、スタファはウィニーのことを思った。
この気持ちが恋であれば、何の障害もなかったというのに。
彼の中には、もうレイシェスが住んでいるのだ。
ゆっくりと手を離して立ち上がると、スタファはその赤い頭をぽんぽんと軽くなでる。
兄が、この少女に心を砕きたいと思う気持ちが、本当によく分かった。
手紙できっと、この性質はよく表れていたに違いない。
己の環境を呪わず、すれず、姉を妬まずにいるのが、どれほどまでに大変なことか。
こんな、スタファにとっても身内のようになった彼女を、幸せに出来るかどうか分からないところに嫁がせるのは、確かにとても面白いことではなかった。
何か。
何か、いい方法はないか。
彼女の側に突っ立ったまま、彼は必死に考えたのだ。
親戚中の顔を、一人ずつ頭の中で検分し始めた。
そんな自分を、見上げている目に気づく。
ウィニーは、丸い目が見えなくなるほど細めて笑っていた。
「励まされるのって……嬉しいですね」
ロアアールの公爵夫人など、この世から消えてしまえばいい。
彼女の笑顔は、スタファの中の攻撃的な部分を上昇させるに過ぎなかった。
昨日から、姉妹への仕打ちの数々が垣間見える度に積み重ねてきた感情だが、またもそれに大きく重いものが乗せられたのだ。
フラの本気の励ましなど、こんなものではない。
もしも、ここにウィニーを心から愛するフラの男がいたならば、公爵夫人を激しく憎み、そして彼女を何日も何日も慰めただろう。
彼女は、その愛を受けてしかるべきだ。
怒りを余り面に出さないように努めながら、スタファは向かいのソファへと戻った。
レイシェスも、妹とは違う意味で苦しんでいる。
自分が、彼女の愛を許される男であれば──ふっと視線を、隣へ続く扉へと向けた。
「あ、姉さんは……ちょっと具合が悪いみたいで。で、でも、お昼過ぎには起きるって言ってました」
そんな彼の仕草を、ウィニーは見逃さなかった。
昼過ぎにはスタファが会えるように聞いてみる、とまで言わせてしまったのだ。
何を、やってるんだ私は。
心配しているはずの少女に、逆に気を遣わせてしまうなんて。
「そんなことはいい……今日は、お前のところに来たんだ」
スタファは、腐ってもフラの男だ。
ウィニーを踏み台にするような最低な男に、絶対になりたくなかった。
そうしたら。
そうしたら、だ。
彼女は、嬉しそうに笑うではないか。
影ひとつない笑いを、心から浮かべるではないか。
こいつは、馬鹿だ。
スタファは、思った。
最初から、馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、本当に大馬鹿のようだ。
たったこれっぽっち、自分が大事に扱われただけで、この世の全てが楽園であるかのように笑うのは──馬鹿以外にありえなかった。