兄さん
翌日──何故かスタファがやってきた。
ウィニーの部屋に、だ。
姉は、まだ調子がよくなく、隣室で横になっている。
そんなつまらない午前中、何の前触れもなく現れたのだ。
「人のこと、無作法って言えるんですか」
まったく淑女に対する扱いをしてくれないスタファに、彼女は不平をぶつける。
召使に慌ててお茶の用意をさせながら、彼をソファへと案内した。
「昨日、私たちが戻った後……部屋から出たろう?」
しかし、切り返された言葉は、彼女をギクリとさせる。
昨日の記憶を最悪の最後で締めくくった男が、目の前を駆け抜けたのだ。
ベッドで散々、その男のことをなじりながら眠ってしまったのだが、朝起きてみたら怒りよりも違うものが押し寄せてきて青ざめた。
もしかして、自分はとんでもないことをしたのではないか、と。
彼が誰かは知らないが、姉よりも身分が高かった時、間違いなく迷惑をかけるだからだ。
公務の重圧にふせっている姉を、朝ちらっと見て、その罪悪感は計り知れない。
いまのレイシェスに、昨日の自分の失態など、とても告白できなかった。
「ちょ……ちょっと花を見に行っただけです」
昨日の外出を、何故スタファが知っているかは分からないが、花を見に行ったという点では彼も同じではないか。
悪いことをしたわけではないのだと、とりあえず主張してみる。
すると。
彼は、はぁーっと深い深いため息を落としたのだった。
全身で呆れているかのように、ウィニーには見えた。
「だから、私が来たんだ」
自分の連れて来た召使いを、スタファは呼ぶ。
召使いは、ずっと手に持っていた箱を、二人の間のテーブルの上に乗せた。
「ウィニーを退屈させると、何をするか分からないからな」
彼が箱を開けると、そこからはカードだのチェスだのダイスなどが出てきた。
いかにも、これで遊べと言わんばかりに。
こういう遊びというのは、大抵相手が必要だ。
一人でカードをするような趣味は、ウィニーにはない。
「昔、お祖母さまが教えてくれたカードくらいしか……遊び方はよく分かりません」
箱からそれぞれ取り出していたスタファの手が、言葉で一度止まった。
その目に、明らかなる不機嫌が見えて、ウィニーは内心で同じほど不機嫌になる。
しょうがないじゃない、と。
祖母くらいしか遊んでくれる人はいなかったし、母がうるさかったせいで、姉とおおっぴらに遊べなかったのだ。
「ね、姉さんだって……余り遊び方は知りませんよ」
不機嫌を向けられるのが嫌で、レイシェスを引き合いに出す。
スタファは、姉にはそんな顔をしないのではないかと思ったのだ。
姉が、遊び方を知らないのは、勉強が忙しくて遊ぶ暇がほとんどなかったからなのだが。
「心配するな……ちゃんと教えてやるから」
ため息はひとつだけ。
不機嫌は、ゆっくりとその陰に隠れていった。
やはり、レイシェスという免罪符が、一番スタファには効くようだ。
褐色の長い指でカードを器用に扱う彼を、ウィニーはじーっと見ていた。
姉に会いたいだろうに、わざわざ自分の相手をしに来てくれたということは、おそらく公爵に頼まれたからだろう。
そう思うと、まるで自分が重いだけの荷物であるかのように思えた。
もう、ここでの目的はある程度達成したのだし、後は本当にこの部屋にこもって大人しくしている方が、みんなのためになるに違いない。
目的──それは、自分の嫁入り先をフラの公爵に託したこと。
あとはただ、彼を信じて待っていればいいのだから。
そうウィニーが心に決めて、ちゃんとそれを実践するというのならば、スタファがわざわざ本命でもない自分に、付き合ってくれる必要はない。
これ以上、フラの人たちに余計な手間をかけさせるのは、さすがのウィニーであっても心苦しくなる。
「えっと……私、ちゃんと部屋にいます。もう、部屋から出ないので…大丈夫です」
ウィニーは、いつもよりずっと神妙に言葉に出してみた。
しかし、ハハハとすぐさまスタファに、笑い飛ばされたのだ。
「お前は、フラの血が濃すぎるように見える。フラの人間に、大人しくしとけなんて……無理な話だ」
事実──彼は、そのまま話を続ける。
「事実……兄上だって、ロアアールの馬車を開けただろう?」
それが証拠と言わんばかりに、スタファは昨日起きた出来事を挙げた。
自分の兄である公爵を、大人しく出来ない悪い見本にしてしまったのだ。
「ひど……」
「だから、フラの人間はそういう性質なんだよ。大人しくしていられない、ずっと無言でいられない」
ウィニーの反論など、即座に言葉でかぶせて邪魔し、その上、指を二本折ってみせるのだ。
1.大人しくしてられない。
2.ずっと無言でいられない。
心当たりがありすぎて、彼女は恥ずかしくなった。
しかし、その性質は決して自分だけのものではないのだと、スタファは言う。
フラの人間が、大体そうなのだと。
そう言えば、この扱いの難しいスタファも、昨日さっそく姉を訪ねてこようとしていたし、庭に連れ出していた。
言葉に至っては、ウィニーの方が言い負けるほどだ。
「いいんだ……それがフラの普通だからな」
そして。
馬鹿なことを言うし、やる。
それを止められない気持ちを、フラの人間ならば分かると──そう、スタファは言ってくれたのだ。
ロアアールでは、とても厄介なこの性質も、フラにかかれば当たり前。
何て、居心地のよさそうな地域なのだろう。
ウィニーは、心の底から感動してしまった。
いま、こうして来てくれているのも、公爵に言われたのと、姉への好意のオマケではあるだろうが、少しはウィニーのことを心配してくれているのだろう。
「スタファさん……お兄さんみたい」
子供の頃から憧れていた兄という存在が、いまそこにいる気がした。
兄さえいえば、レイシェスは重圧から解放され、自分ももっと幸せになれるのではないか。
そう思ったこともあった。
ウィニーの言葉に、ぴくりと彼の指先が反応する。
「兄さん……そう呼んでもいいぞ」
何だか、少し嬉しそうだ。
彼は末っ子だと聞いたので、自分より下がいることが嬉しいのだろうか。
「え……」
まさか、そんな切り返しがくるとは思ってもいなかったので、ウィニーは
ちょっと戸惑ってしまった。
「えっと……スタファ兄さ……ん?」
これで、呼び方が合っているのかどうか分からないが、彼女はそぉーっと言葉を並べてみる。
「悪くない」
うむ、と彼は満足そうに頷く。
えへ、えへへ。
ウィニーは、彼への苦手意識が軽く吹っ飛んだのを感じた。
苦言の数々も、妹に対して言っているのだと思えば、何一つへこむことなどない気がしたのだ。
「えへ……スタファ兄さん、もし私がフラのどこかにお嫁入りすることになっても、こう呼ばせてくださいね」
すっかり浮かれたウィニーは、遠くにある未来まで引き寄せて言葉にした。
自分の未来が、全部ばら色に見えたのだ。
瞬間
曇ったスタファの表情を──見てしまった。