スタファの事情
「お前……ウィニーを妻にする気はないか?」
兄──カルダにそう言われた時、スタファはがっくりと肩を落とした。
今日は何て日だ、と思いながら。
ロアアールの部屋から帰って来て、すぐの出来事だった。
「今日、私にそう言ってきたのは、兄上で二人目だ」
上着を脱いでソファに身を投げ出しながら、彼は天井を見上げた。
ウィニーが、嫌いなのではない。
彼女のことは、髪の色のせいか同族のように思えるところがあって、気にかかってはいるが、それは恋ではないのだ。
「ああ、レイシェスがそう言ったのか……彼女も心配しているのだろう」
物思いにふけるように、兄は小さく吐息をついた。
「お前は、本気でロアアールの未来の公爵の婿になる気か?」
カルダは、そんなソファのひじ掛けに腰かけながら、弟を見下ろす。
子どもの頃から、8つも年上の兄と競って来たが、大人になるまでほとんどの事で勝つことなど出来なかった。
最近、ようやく乗馬と剣術で越えることは出来たが、スタファの心には、負けず嫌いの根性が深く深く根付いている。
「可能性はあるだろう?」
彼女が、自分に良い感情を持っているのは、一緒に歩いていてよく分かった。
でなければ、自分にウィニーを勧めるはずなどない。
あの時の彼女の目は、本気だった。
本気で、妹を自分に託そうとしていたのだ。
自分に対する信頼が、そこにあるように思えた。
「可能性か……公爵の奥方を乗り越えられれば、あるかもしれんな」
カルダの言葉に、自分の顔が歪むのが分かる。
娘たちに、どれほどひどいことをしているのか。
それは、レイシェスの態度と言葉を見れば、嫌でも伝わってくる。
趣の違う姉妹──そんな言葉では片づけられない、母親が抉っただろう二人の間の溝。
その溝を越えてなお、仲良くしようという気持ちがあったことが奇跡で、彼女ら姉妹の性質のよさを表している気がした。
スタファが、心を奪われているのはレイシェスだ。
15の時、葬儀の会場で彼女を初めて見た。
12歳とは思えない、すらりとした彼女の立ち姿に、最初に目を奪われた。
白い肌に、黒い喪服の闇が絡みついているように感じて、彼女から目が離せなかったのだ。
そのまま、闇に飲み込まれてしまうような儚さを、そこに感じた。
フラにはない、かき消えるような線の細さ。
沈痛な面持ちの彼女が、泣きじゃくる妹を見る時だけは、深い慈愛に満ちた色になる。
彼女が、決して冷たい人ではないことが、そこから伺いしれた。
あの日からスタファの心には、ロアアールの美しい娘が焼き付いているのだ。
兄が、二人と文通をしていると聞いた時、どれほど羨ましく思ったか。
しかし、カルダは弟には決して、レイシェスの手紙を見せようとはしない。
確かにそれは常識的な行為ではあるのだが、兄を恨めしく思ったこともあった。
『お前も、手紙を出せばいいだろ?』
あっさりと兄にそう言われたが、スタファは腰が重かった。
手紙は、ウィニーの名で送られてきていた。
あの、泣いていた赤毛の妹だ。
スタファは、妹に手紙を出す気はない。
だが、ウィニー宛てに手紙を送りながら、中身はレイシェス宛てだと、余りにあからさますぎる。
それに、レイシェスではなく妹の名で送られる手紙の事情から、何か障害があることを感じていたのだ。
「しかし、お前が駄目となると…フラで相手を探すのは難しいかもしれんな」
うーむと、カルダは唸った。
4年前から流れて来た記憶を握っていたスタファは、そこでようやく現実へと足をつける。
個人的な興味はないが、祖母の血を濃く残す赤毛の娘だ。
恩義あるロアアールの娘でもあるウィニーに、いい嫁ぎ先を考えてやるのは、良い事だと思っていた。
レイシェスに感謝もされるだろう。
「他の弟じゃ駄目か?」
スタファの頭には、腹違いの弟たちが通り過ぎて行った。
「曲りなりにも、ロアアールの公爵令嬢の相手だぞ…いくら公爵の息子とは言え、腹違いで納得させられるかどうか」
兄は、ロアアールの公爵夫人の壁を、それほど厚いと読んでいるのか。
娘を嫁がせるということは、今後もフラとの付き合いが深くなるということだ。
フラ嫌いの夫人が、フラからの申し出を喜んで受けるとは思いがたい。
よほど断りづらい相手でなければ、確かに難しいだろう。
5公爵の娘であれば、王太子の側室にもあげられるほどの身分なのだから。
側室ではない、正妃から生まれた娘なら、なおのこと。
側室の子どもたちは、明らかに正妃の子とは違う扱いを受ける。
それは、勿論フラでも同じだ。
兄弟というよりは、臣下との付き合いに近くなる。
血筋は間違いないため、勉学や軍事の訓練にいそしめば、高い地位もある程度約束されていた。
それを考えると、あの気楽なウィニーであっても、格の落ちる相手であることは間違いないだろう。
「何も、フラにこだわらなくてもいいと思う。たとえば、せっかく王都にいるから、王太子に勧めてみるとかどうだろう」
スタファのこの言葉は、半分は本気、半分は冗談だった。
フラ以外の可能性を示唆したかったのが、本気の方。
ウィニーの礼儀作法では、多分難しいだろうというのが、冗談の方。
「馬鹿なことを言うな……王太子殿下の相手なんてさせたら、ウィニーが壊されるぞ」
冗談でも許し難いと言わんばかりに、カルダは唸った。
赤毛の娘が問題というわけではなく、どうやら王太子の方が問題のようだ。
直接話したことも、それどころか会ったこともない相手のため、どういう壊され方をするのか、まったく想像がつかなかった。
ただ、ウィニーが幸せにはならない──それだけは、十分に伝わってくる。
「となると弟殿下か、ニール(東)の公爵の孫か……いや、ニールは年が合わないな」
王太子は問題だが、その弟たちならまともな者もいるようだ。
兄は、ぶつぶつと赤毛の娘の嫁ぎ先について、口の中で呟いている。
「だが……本当はフラに嫁がせたい気持ちでいっぱいだよ」
そんな呟きに、ついに終止符を打ちながら、カルダはため息を洩らす。
その気持ちは、スタファでもよく分かった。
フラの公爵家だけでなく、領民がウィニーのフラ入りをどれほど喜ぶか。
想像するのは、簡単だった。
『無謀公爵』の赤毛の娘は、ロアアールへ嫁いだ。
その孫が、偶然赤毛に生まれて、そしてフラへ嫁いでくる。
あの物語を、そして二十年前の出来事を知っているフラの領民は、まるで自分の恋の成就のように、ウィニーの婚礼を喜び、そして再び運命の物語でも書きあげるに違いない。
ロアアールにいた彼女からは、信じられないほどの歓待が待っているだろう。
しかし、フラにはロアアールの公爵の令嬢を受け入れる席がない。
「スタファ……」
「くどい、兄上」
弟の心変わりを望む呼びかけの声など、すぐに分かる。
身内への情に厚い分、フラの人間は、身内への甘えもあるのだ。
「大体、私がロアアールに婿に入るのも、おそらく向こうの公爵夫人以外には、歓迎されると思いますよ。勿論、フラの領民にもね」
打倒・ロアアール公爵夫人。
スタファの心の中では、自然とそんな文字が踊り始めていた。
レイシェスの表情を、あれほど暗くさせる人。
その女性さえ黙らせてしまえば、ウィニーの心配も格段に減る気がした。
求婚の中から、一番いい嫁ぎ先をゆっくり選べるだろう。
しかし、他家の夫人に心変わりをさせる方法など、いまのところありはしなかった。
「お前の心配はしてない。いっそ、さっさとレイシェスに求婚して、断られてこい。ウィニーには内緒で」
最後の一言で、よくよく兄の気持ちが分かった。
そして、ウィニーを嫁にもらえと言っているのだ。
「じっくり時間をかけさせてもらうよ、兄上」
そんなカルダの希望など、スタファは思い切り蹴飛ばしたのだった。