フラとロアアール
「フラの方は、優しいのですね」
レイシェスの動きを、ひとつひとつ助けるようにエスコートしてくれるスタファに、お礼を含めた称賛を送る。
ロアアールでは、屋敷の中にいることの多い彼女は、従者にかしずかれて甲斐甲斐しく世話を焼かれることはあっても、こういうエスコートには慣れていない。
華やかな社交パーティではなく、軍事的な祝祭を主とする地域のため、礼儀作法の練習以外、ほとんど無関係な世界だったのだ。
「ロアアール限定ですよ……フラは、どこにでもいい顔をしているわけではありません」
称賛は、彼を喜ばせたのだろう。
目元と口元にたたえられた笑みは、香辛料の中にわずかに甘みが混ざったような、男性らしいものだ。
その笑みの持つ香りは、レイシェスの胸の中に入り込み、ちりちりと小さくはぜた。
「ひいお祖父様の時代の話かしら?」
ふふふと、思い出したら笑みが浮かんでしまう。
先々々代のフラの公爵は、この方のようだったのかしら、と。
「ええ……いまもフラの者は、みな覚えています…『無謀公爵』の名と共にね」
黒々とした瞳の中に、過去が閃く。
フラとロアアールが、深い縁で結ばれるきっかけとなった出来事。
それは、レイシェスの曽祖父とスタファの曽祖父が、公爵だった時代の話。
当時のフラの公爵は、破天荒な人だったという。
巨大な船を建造して、遠い異国と貿易を始めたり、異国の文化にかぶれたり。
そんな彼は、ある日思いたった。
いや、思いたってしまった。
『そう言えば、雪を見たことがないな。よし、雪を見に行こうぞ!』
そして、手紙一つロアアールに送ったかと思うと、彼はその手紙の到着を追い抜くほど速く、北西の地に雪見をしに行ってしまったのだ。
ただ、冷たくて白くて綺麗な物。
その程度の考えだったフラの公爵は、雪で覆われた道を見誤り──それはもう、見事に遭難した。
フラの馬にフラの護衛、フラの人にしては頑張った程度の厚着、という南の国の公爵一行が、雪に抵抗出来るはずもなく、彼らはばたばたと倒れてしまう。
そこへ、たまたま山手の村に、荷を運ぶ一行が通りかかった。
ただの行き倒れかと思ったら、馬車は立派だし、ほとんどの人が赤毛だし、これは何かやんごとなき理由に違いないと、村までまだ遠いこともあって、慌ててその場で火を起こし、彼らに常備しているきつい酒を飲ませた。
何とか意識は取り戻したものの、やはりとても自分で動ける状態ではなく、彼らは荷馬車から大事な荷を下ろし、場所を空けて彼らを村まで連れ帰ったのだ。
亡くなった人もいたが、フラの公爵は何とか無事で、その後に連絡を受けたロアアールの公爵家に、呆れられながら運ばれて行ったという。
その時のことを、フラの公爵は忘れられなかったらしい。
『あれほど寒いところで暮らしているならば、荷は命と同じほどの意味があろう。それを捨ててまで、助けてくれたロアアールへの恩は子子孫孫まで忘れんぞ』
何度も何度も礼の手紙と贈り物を寄こし、ついにはその後、後継ぎだった祖父に、娘まで送って寄こしたのだ。
それが、彼女らの祖母である。
『側室でも構わん』という、恐ろしい手紙をつけて送られたフラの公爵の娘は、幸いにしてまだ結婚していなかった祖父の、妻としておさまることが出来た。
そして、『フラの無謀公爵と、優しきロアアールの民』なる話は、フラに広く伝わり、物語にまでなったという。
後に、その物語には続きが出来た。
二十年ほど前。
ロアアールの姉妹は、まだ生まれてはいなかったが、父が公爵を継いですぐの時代。
大陸から、ロアアールへ大がかりな侵攻が行われた。
代替わりの不安定な時期に加え、ようやく遅い春を迎え、ロアアール中が忙しかったその時を狙われたのだ。
防御戦に強い地域ではあるが、敵はしのぐのが難しいほどの多勢だった。
父は、ついにロア(北)とイスト(中央)へ使者を送り、援軍を乞うたのである。
かくして、一番最初にロアアールへ増援に駆けつけたのは──フラの騎馬隊であった。
走りに走ったり、拳の南の果てから北西まで駆けつけたのである。
父は、フラに救援は送ってはいない。
送ったのは──祖母だった。
父が、増援を乞うかどうか迷っていた時には、既に手紙は送り出されていたのだ。
祖母が国から連れて来た老いた召使いが、命がけで単身フラまで手紙を抱いて駆け抜けたのである。
『今こそ返さん、かの日の大恩を』
先代のフラ公爵からの手紙は、その一文のみだった。
赤毛の騎馬隊を、敵は知らなかった。
これまでフラの兵は、国境の戦いに参加したことはなかったのだ。
イストの拳の王を最後まで苦しめた、魔物のごとき強さは昔話ではなく、侵攻する敵をことごとく蹴散らしたのだ。
『赤い槍の群れのようであった』
父の記憶の中の光景は、言葉でレイシェスへと伝えられた。
「お礼は、二十年ほど前に、既にしていただいたのに……まだ覚えて下さっているのですね」
その出来事のおかげで、ロアアール軍のフラに対する態度は、大きく変わった。
今日、馬車がかち合った時も、護衛隊がフラの馬車だと確認するや、すぐさま攻撃的な態度をやめたのもこのおかげだろう。
残念ながら、ロアアールではフラの援軍は、物語にはならなかったが。
軍人と、国境近くの村の間だけで、語り継がれているくらいだろう。
「ええ…あれはうちの曽祖父を助けて下さったお礼です。あと……うちの曽祖父が迷惑をかけた分のお詫びが終わってません」
苦笑いしながら、スタファは己の曽祖父を荷物のように言い放った。
「まあ……」
不敬な物言いに思えたが、陽気なフラの公爵家で、冗談のように『無謀公爵』の話が語られている様子は、何故か簡単に想像がついた。
さぞや、かの人は身内に迷惑をかけまくったのだろう。
「お詫びなんて……もう十分でしてよ」
想像するとおかしくて、ついくすくすと笑ってしまう。
そんな彼女を、スタファはまっすぐに見ていた。
あの王太子の目を見た後だと、彼の目は暗くとも美しい夜空のように思えるほどだ。
「いつでもフラは、ロアアールの味方です」
南の風をはらんだ言葉は、レイシェスの心に優しく絡みつく。
「ありがとうございます……その言葉、髪の先ほども疑ってはおりません」
遠い地の、普通であれば無縁の公爵。
しかし、遠いからこそ利害を超えてつながることもあるのだ。
これほど良好な関係は、大事にしたい。
だが。
「もしよろしければ、今度ロアアールへ遊びに行ってもよろしいですか?」
まっすぐなスタファの言葉は、レイシェスの心を少し重くした。
彼のせいではない──母のせいだ。