「明日」の価値
「ふー、びっくりした」
自室に戻り夜衣に着替えたウィニーは、燭台の灯りひとつだけ残してベッドに飛び込みながら、少し前の晩餐のことを考えていた。
自分の結婚だけでなく、姉の結婚まで決まってしまうとは、思ってもみなかったからだ。
けれど、ロアアールと自分たち姉妹を取り巻く、ぎざぎざだったものの角が少しずつ取れて、丸い形に収まろうとしているのを、ウィニーは感じていた。
もう少し、あと少し。
メチャクチャにひっくり返されていたそれが、新しい形になって箱の中におさまるまで、本当にもうあとちょっとだ。
それがとても感慨深くて、ベッドに転がったまま、ウィニーはこれまで起きた多くのことを回想していた。
去年の春に、王都へ向かう馬車に乗った時には、こんな未来はとても予想出来なかった。
国境を越えたこの地で、あの王太子だった男と結婚するなんてことを、どうして想像できようか。
そんなことを考えていると、頭も心もいっぱいで、今夜は眠れそうになくて、彼女はベッドの上でゴロゴロと寝返りを打った。
いよいよ、明日は──
「入るぞ」
心臓が飛び出すとは、まさにこのことだ。
彼女の感慨深い気持ちを全部ぶっとばす声が、いきなりノックもなしに部屋の中に入ってきたからである。
これが、もし他の男であったなら、ウィニーは司令官の屋敷をつんざくほどの大声で絶叫していただろう。
しかし、その声は間違えようのないギディオンのもので。
彼女は、絶叫をごくんと狭い喉の奥に丸呑みしたのだった。
「な、な、何っ!?」
燭台の灯りひとつでは、部屋のすべてを照らせていない。
彼の足元を除けば、ぼんやりとした闇の中に、黒い男のシルエットが浮かんでいるだけ。
「気にするな」
その影は、すたすたと迷いなく歩みを進める。
そして、いともあっさりと燭台の灯りの中に、その身の全てを映し出す。
「き、気にしないなんて無理だからっ……何か用なの?」
その灯りさえ無視して、更に彼は歩を進め、ついには彼女のベッドの脇にたどりついた。
ちょっとベッドの上で後ずさるものの、ウィニーの背はすぐにヘッドボードで止められてしまう。
ギシッ。
そんな彼女の許可も取らず、ギディオンはベッドに腰掛け、身をひねるようにウィニーを見るのだ。
仄暗く頼りない炎の灯りは、彼に多くの影を与え揺らめかせている。まるで、影そのものが生きているように。
「用か? 用ならある」
灰緑の瞳は、片方は完全に影に食われていた。しかし、それでも瞳の強さを消すことは出来ない。
「用は……」
ベッドにつかれた片手に力が込められ、ギディオンの身体がウィニーの方へと伸び上がってくるではないか。
「用は……お前を手に入れることだ」
背も身体つきも違うその大きさな男が動くと、真っ暗な影の塊となってウィニーをも黒に染め上げる。
「ままま、待って! え? どういうこと?」
その影に目が慣れず、ウィニーは何度もパタパタとまばたきをしながらも、近づく彼の肩に手をあてて止めようとした。
お前を手に入れる、と彼は言った。
おかしな話だ。
「あ、明日、結婚式でしょ? もう、手に入れたじゃない」
ロアアールもフラも、イストさえも蹴散らして「明日」という日を、この男は作ったのである。
「手に入れた?」
そんな彼女の思いを、自嘲めいた笑みで彼は笑い飛ばすのだ。
「俺はまだ、何も手に入れていない。明日? 明日なんてものが、本当に来るなんて、誰が決めた」
肩に触れていた手を、ギディオンに掴まれる。
「お前は……待っていても手に入った試しがない」
「あっ!」
ぐいっと掴まれた手が引っ張られ、ウィニーは影に飲み込まれた。
気がつけば、ギディオンに倒れかかるようにして、痛いほど強く抱きしめられていた。
首筋に顔を埋められ、息がかかったのにぞくりとする。
女としての本能が、ギディオンを止めるのだと、大きな音を立ててウィニーをせかす。
「ま、待ってギディオン! 式の前にそんな……ことっ。あと一日……待って」
首筋に、いまにも彼の牙が突き立てられるのではないかと、彼女は恐れた。
結婚したら夫とどうなるのか──それをウィニーに教えたのは、フラの女性たちだった。
女の園で一年近く暮らした彼女の耳に、時折開放的なフラの女性のあられもない話が飛び込んできては、彼女を困らせたのだ。
だから、耳年増とはいかないまでも、ロアアールの箱入りだった頃よりは、分かっているつもりだった。
だが、あとたった一日だ。
そうすれば、本人の心の準備はともかくとして、世間的に誰からも咎められることはない。
その間に、ウィニーだって心の準備くらいは頑張るつもりだった。
なのに、結婚前夜の不意打ちである。
「式の前?」
首筋の側で、ギディオンが笑った。
その息さえも、彼女の身を震わせる。
「式なんてものは飾りだ。俺は神とやらに、お前を妻にすることを許してもらう必要はない……それに」
司祭たちがまとめて泡を吹いて倒れるような事を、のうのうと言った後。
彼は、「それに」と付け足すのだ。
「それに……『あいつ』は、まだ式の予定さえ決まっていないというのに、お前の姉を手に入れたぞ?」
ウィニーの時を止めてしまう、笑いの言葉。
その意味を考えている間に、彼女の背は──ベッドに強く押し付けられていた。
「え?」
時間が、動き出す。
「え? え? えー!?」
脳裏を駆け巡るのは、夕食時の姉とスタファの姿。
あの二人が、どうして、どうなったというのか。
「他人のことはどうでもいい……俺を見ろ」
自分の状況も忘れて、驚きでいっぱいだったウィニーの頬は、強い指で真正面のギディオンの方へと引き戻される。
「えー……っ」
まだ出続けていた彼女の声は、ギディオンの自分勝手な唇で消し去られ、それにまた驚いて頭が真っ白になる。
抵抗するのを忘れていたことを、ウィニーが思い出した頃には。
「待って、ギディオン……待って……あっ!」
「待つ?」
ギディオンが、喉を鳴らす。
待ってくれるのかと、一瞬彼女に微かな期待がよぎる。
「これまで、十分に待った……本当に、うんざりするほど、な」
「ちょ……あ、だめ……やめ……ギディオ……っ」
蝋を溶かしきった燭台の火は消えうせ。
彼女の全ては。
影に染め上げられてしまった。