あるまじきこと
「どうか、二人きりの時には『レイシェス』と呼ぶ権利を、俺にお与え下さい」
痛切な熱を、レイシェスは目の前の男から浴びていた。
久しぶりに再会したスタファは、手紙よりももっと印象が変わって見えた。
隣国という、味方のほとんどいないところで揉まれてきたおかげだろうか。貴族らしさが抜け、野性的な逞しさを身に付けている。
そんな男に、レイシェスは今晩泊まる部屋まで案内された。二人きりになるや、彼はすっかり伸びた彼女の髪に口付けながら愛を乞うのだ。
しかし、その声や仕草は、昔のような一歩引いた感じはない。
逆に、大きく踏み込んできて、レイシェスを追い詰める。
余裕のある手紙や言葉のやりとりではなく、温度と肉を伴った力強さに慣れず、彼女は戸惑った。
けれど、スタファを押し戻すような真似はしなかった。
フラの公爵の弟でありながら、彼はいつもロアアールのために命をかけてくれたのだ。防衛戦の時も、この町の暴動の時も。
それもこれも、彼の心にレイシェスへの愛があったから。
その気持ちが嬉しくもあり、複雑に思うこともあった。
スタファという男は、一体、自分の何を愛しているのだろうか、と。
彼は、いつも手紙でレイシェスの美しさを褒め称える。それは嬉しいが、それに何の価値があるのだろうか。
この容姿は、親から偶然もらったものに過ぎない。レイシェスの努力で、勝ち得たものでもない。
その点、妹のウィニーは違う。
彼女が得たものは、みな彼女が自分の手で切り開いてきたものだ。
そんな妹に、異性として惹かれる男がギディオンしかいなかったということが、レイシェスにとっては残念でならない。
もし彼女が男で、血のつながりがなかったならば、きっとウィニーを好きになると思ったからだ。
要するに。
レイシェスは、自分の人間としての魅力には、疑問を覚えるところがあった、ということである。
「私は、本当はつまらない女ですよ」
そんな気持ちを、彼女は言葉にした。
目の前で、熱心に愛を伝える男の愛が、薄れたり冷えたりしていくところを、レイシェスは見たくなかった。
自分の愛を捧げた後に、そんなことが起きたならば、彼女の心もロアアールの冬並みに凍り付いてしまうだろう。
彼女が忌み嫌う、母のような性格になってしまうかもしれない。
そんな不安の言葉に。
大きな手のひらで、両側から彼女の頬を挟みこんで、スタファを見上げさせるのだ。
レイシェスが、瞳を決してそらせないように。
「貴女はつまらなくなんか、決してない。つまらない女は、故郷の一大事を目の前にした時、男のように髪を切ってまで駆け戻ったりしない。イストに逆らうような結婚式のため、安全ではないこの町に来たりもしない」
彼は──敬語を投げ捨てていた。
たたの小娘を諭すように、スタファの目に映ったレイシェスの姿を、彼の心のままに言葉にするのだ。
ああ、ああ、と。
彼の言葉は、レイシェスの心を嬲る。
甘く痛く心地よく切なく苦しく、この男の目には、決して美しい自分だけが映されていなかったことを思い知るのだ。
ロアアールの夏の太陽でも焦がれることのない彼女の心が、フラの太陽の前で焦がれていく。
愛しい男。
それが、いま彼女の目の前にいる。
目もそらせないほど間近いて、頬に触れられている。
それを自覚すると、レイシェスを縛る理性の鎖がガチャガチャと激しく音を立てるのだ。
ここから出して、と。
ふぅと、スタファが吐息をついた。
一度目を閉じ肩の力を抜いたかと思うと、薄くだけ瞳を開く。
「もう許しは乞わない。権利なんてどうでもいい」
頬に触れる両手に、力がこもった。
「レイシェス……愛している。俺の愛の全てを、貴女に捧げる。愛している愛している。レイシェス……俺の名を呼んでくれ」
強く唇を押し付けられた。
その時、レイシェスは彼の鎖が千切れたのに気づく。
彼もまた、己を理性という鎖で縛っていたのだ。
口付けられる、離される、瞳を覗き込まれる、口付けられる。
唇を開かれる、熱く濡れた舌が、彼女の唇の中に押し入ってくる。
熱と眩暈の暴風の中、レイシェスは飛ばされないように、必死に彼にしがみついていた。
「スタファ、スタファ……」
何度も襲い来る唇の隙間から、彼の名前を呼ぶので精一杯。
だが、名を呼ぶごとに、更に唇は激しさを増す。
「愛してるわ……スタファ」
息も切れ切れに、彼にやっとそう伝えることが出来たレイシェスもまた──理性の鎖を引きちぎってしまった。
本気で止めれば、スタファを止められたはずなのだ。
まだ、その時期ではない、と。
けれど、彼女は止められなかった。
結果。
バタバタとした妹の結婚式前日の、ほんの少しの時間の隙間に。
レイシェスは。
軍服のまま。
公爵にあるまじきことをしてしまった。