第5話 「最弱の一日」
朝、目が覚めると財布の中身を確認する癖がついた。
銅貨、一枚。
手のひらに乗せて見つめる。小さくて、軽い。これが今の俺の全財産だ。昨日の宿泊費に一枚使ったから、残りはこれだけになった。
窓から差し込む朝の光が二重になっている。二つの太陽が重なる時間帯だ。宿の部屋は狭く、ベッドが一つと小さな机があるだけだった。エリナは隣の部屋を借りている。
腹が鳴った。
昨日、飯を食っていない。依頼の報酬四枚のうち、治療代に二枚、宿代に一枚使った。残り一枚では食事と次の宿代を両方賄えない。どちらかを選ぶしかなかった。俺は宿を選んだ。野宿より屋根のある場所で寝る方が、体の回復が早いと判断したからだ。
だが、空腹は思った以上に頭に響く。
ステータス画面を開いた。
ゼロ Lv.1
HP:10/12
MP:3/3
筋力:3 敏捷:4 魔力:1 耐久:2 知力:6
スキル:なし
HPが二削れたままだ。傷の回復が完全ではないのか、それとも空腹のせいか。どちらにしても、今日中に食事を確保しなければならない。
部屋を出ると、廊下でエリナが待っていた。
「起きるの遅い」
「待っていたのか」
「五分だけ」エリナは俺の顔を見て、少し眉をひそめた。「顔色悪い。ご飯食べてないでしょ」
「わかるのか」
「わかる」エリナは腰の袋をごそごそと探り、小さな包みを取り出した。「はい」
受け取ると、布の中に固いパンが一つ入っていた。
「いいのか」
「非常食の残りだから。昨日の干し魚も使ったし、補充しないといけないんだけど」
エリナは肩をすくめた。
「今日の依頼で稼げば済む話」
俺はパンをかじった。固い。味はほとんどない。だが胃に入ると、頭の霞が少し晴れる気がした。
「ありがとう」
「別に」エリナは歩き始めた。
「早くギルドに行くよ。いい依頼は朝に取られる」
ギルドに着くと、すでに何人かの冒険者が依頼ボードを眺めていた。朝の空気は酒の匂いが薄く、昨日より過ごしやすい。
F級の依頼を確認する。昨日と似たようなものが並んでいる。薬草採取、荷物運搬、害虫駆除。報酬は銅貨三枚から八枚程度。
その中に一枚、昨日はなかった依頼があった。
【F級】ランドル南区・井戸周辺に出没するドブネズミ型魔物「ギルラット」の駆除
報酬:銅貨12枚
備考:繁殖力が高い。複数体出現の可能性あり。毒なし
報酬が高い。F級にしては破格だ。
エリナが隣から覗き込んだ。
「ギルラット。数が多いから嫌われてる依頼ね」
「強いのか」
「強くはない。ただ、十匹二十匹と出てくるから、普通の冒険者は面倒くさがって避ける。報酬が高いのはそのせい」
俺はその依頼書を手に取った。
「これにする」
「また即決ね」エリナは少し笑った。
「まあ、悪い選択じゃないけど」
受付カウンターに向かうと、昨日と同じ赤髪の受付嬢がいた。依頼書を差し出すと、彼女は確認してスタンプを押した。
「ギルラット駆除ですね。南区の井戸は街の外れになります。数が多いので、無理せず撤退の判断も早めに」
「わかりました」
「あと」受付嬢が少し声を落とした。「昨日カルロ様がいらしてましたよね。あの方に目をつけられたなら、気をつけた方がいいですよ」
俺は少し考えた。
「良い意味で、ですか。悪い意味で、ですか」
受付嬢は微妙な顔をした。
「……どちらとも言えません。ただ、あの方が興味を持つ人には、ろくなことが起きないとも言われていて」
それ以上は言わなかった。俺も追わなかった。
南区の井戸は、ランドルの外れにあった。街の中心部から離れるにつれて、建物が粗末になっていく。石畳が途切れ、土の地面になる。住民の目線が変わる。貧しい区画だ。
井戸の周辺に近づくと、独特の匂いがした。腐った木と、動物の体臭が混ざったような匂い。
「いる」エリナが小声で言った。
「匂いがする」
俺もそう思っていた。
井戸の石組みの隙間を見ると、小さな目が光っていた。黒い、丸い目。それが一つではなく、二つ、三つ、四つと増えていく。
ギルラットが姿を現した。
大きさは猫ほど。体は黒褐色で、尻尾が長い。普通のネズミに似ているが、牙が二本、唇の外に突き出ている。ステータスを確認した。
ギルラット Lv.1
HP:8/8
危険度:F(最低)
スライムウルフより弱い。HPも低い。だが、エリナの言った通り数が多かった。井戸の周囲に、すでに七、八匹は見える。石組みの影にまだいるだろう。
「どうする」エリナが聞いた。
俺は周囲を観察した。
井戸の周りは開けている。遮蔽物が少ない。逃げ場はある。ギルラットは小さく素早そうだが、スライムウルフほどの力はない。罠を仕掛ける時間はない。
「正面から行く」
「え」
「一匹ずつ、確実に。エリナが石で牽制して、俺が仕留める」
「昨日と逆ね」
「昨日で少しわかった。動きを止めれば、俺でも対処できる」
エリナは石を三つ拾った。俺も手頃な石を二つ握った。
ギルラットたちがこちらに気づいた。数匹が牙をむいて威嚇している。
「いくぞ」
エリナが石を投げた。先頭にいた一匹に命中し、ひるむ。俺は走り込んで、持っていた石でその頭を叩いた。
一撃では仕留められなかった。だが、二撃目で動かなくなった。
別の一匹が俺の足元に突っ込んできた。踏みつける。逃げようとするところを、もう一度踏んだ。
エリナがまた石を投げた。別の個体に当たる。俺が向かう。
それを繰り返した。
息が上がる。汗が出る。腕の傷がじくじくと痛む。何度か牙が足にかすった。だが、皮膚まで届いていない。靴が守ってくれた。
十二分後。
井戸の周辺で動くギルラットがいなくなった。
俺は膝に手をついて、荒い息を整えた。倒した数を数える。十一匹。石組みの隙間にまだ気配があったが、今は静まっている。残りは逃げたか、奥に引っ込んだか。
「終わった」エリナが言った。
「とりあえずは」
視界に青白い光が浮かんだ。
戦闘勝利(複数)
獲得経験値:88
レベルアップ:なし
ゼロ Lv.1
HP:9/12
まだレベルは上がらない。だが、経験値は昨日より大幅に増えた。
エリナが俺の足元を見た。
「牙、かすってる。靴に傷がついてる」
「中までは届いてない」
「見せて」
エリナが靴を脱がせて確認した。皮膚に傷はなかった。エリナが小さく息を吐いた。
「よかった。ギルラットに毒はないけど、噛まれると雑菌で腫れることがある」
「知らなかった」
「だから言ってる」エリナは靴を戻しながら言った。
「あなた、強くなろうとするのは良いけど、自分の体を大事にする意識が低い」
俺は少し考えた。
「そうかもしれない」
「そうかもしれない、じゃなくて」エリナが立ち上がった。
「死んだら終わりって、昨日も言ったでしょ」
「言った」
「わかってる?」
「わかってる」
エリナはしばらく俺を見ていた。それから、諦めたようにため息をついた。
「……まあいい。ギルドに戻ろ。報酬もらって、ご飯食べる」
ギルドに戻り、駆除の報告をした。証明として、ギルラットの尻尾を数本持ち帰っていた。受付嬢が確認し、報酬の銅貨十二枚を渡してくれた。
六枚ずつ、二人で分ける。
俺の手に銅貨六枚が乗った。昨日の朝から今日まで、ずっと空腹のまま動いていた体に、ようやく食事ができるという実感が来た。
ギルドの食堂で、俺たちは席に着いた。一番安いメニューを頼む。スープとパンと、干し肉が少し。銅貨二枚。
スープを一口飲んだ。
温かかった。塩の味がして、何かの肉と野菜が溶け込んでいる。固いパンをスープに浸すと、少し柔らかくなった。
うまい。
昨日から何も食べていなかったから、余計にそう感じるのかもしれない。だが、それを差し引いても、うまかった。
エリナが向かいで同じものを食べていた。
「少し顔色が戻った」と彼女が言った。
「そうか」
「食べないと動けないんだから、ちゃんと食費は確保して」
「わかった」
しばらく二人で黙って食べた。ギルドの喧騒が遠くに聞こえる。
食べ終えて、俺はステータス画面を静かに開いた。
ゼロ Lv.1
HP:9/12
スキル:なし
備考欄:◆◆◆◆◆◆(解読不能)
変わっていない。
それでも俺は、二日前より確実に何かが変わっていると感じていた。数値ではなく、もっと別の何かが。
うまく言葉にはできないが。
スープの最後の一口を飲んで、俺は画面を閉じた。
次回・第6話「もう一つの依頼」
翌朝、ギルドに見慣れない依頼が貼り出された。報酬は破格。だが、条件に「Fランク不可」の文字はない。ゼロが手を伸ばすと、後ろから声がかかった。




