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第7話 極限の作画マラソン

「子供たち! いいこと!? 今週一週間、2階の階段より上に上がった者は、おやつ抜き! 泣き声も一切禁止! 分かったわね!!」


 1階の廊下で、妻カタリーナの鬼気迫る演説が響き渡った。

 フェルメール家において、「静寂」という言葉はこれまで辞書に存在しなかった。  

   

 しかし、パン屋のファン・ボイテンから「1週間で完成させなければ一家離散」という死の宣告を受けた今、状況は一変したのである。


「カタリーナ、子供たちを裏庭に追い出しなさい。私が相手をしてやるから」

 なんと、あの絶対君主である義母マリア・ティンスまでが袖を捲り上げていた。彼女にとっても、娘夫婦が多額の借金と共に路頭に迷うのは御免である。


「お母様……! ありがとうございます!」


「勘違いしないで。パン屋の親父にデカい顔をされるのが腹立たしいだけよ。さあ、あのウスノロ画家に『約束の茹でたソーセージ』を持っていきなさい。倒れられたら困るからね」


 家族全員の(極めて即物的な)祈りを背に受け、2階のアトリエでは、ヨハネス・フェルメールがかつてないほどの死闘を繰り広げていた。


「……ハァ……ハァ……! 光だ! 光を逃すな!!」


 彼の目は血走り、髪は振り乱れ、完全に狂気に取り憑かれた芸術家のそれであった。


 普段なら、下塗りが乾くのを何日も待ち、そこからルーペを使ってミリ単位で筆を入れる男である。しかし今は、乾きを早めるために亜麻仁油の調合を変え、パレットの上の絵の具を狂ったような速度でキャンバスに叩きつけていた。


「旦那様、顔が怖いです。あと、さっきコーヒーと間違えて筆洗いの水を飲んでましたよ」


 窓際の椅子では、ハンナが相変わらず無表情で座っていた。頭には防虫剤の匂いがする青い毛糸の腹巻き、耳にはパチンコ玉サイズの偽物真珠。

 

 彼女もまた、限界と戦っていた。


「私の首、もう限界なんですけど。ずっと同じ角度で振り返りっぱなしで、筋がおかしくなりそうです。これ、労災とか出ますか?」


「耐えろハンナ! 筋肉の悲鳴など、永遠の芸術の前では塵に等しい! この絵が完成すれば、君の時給は約束通り支払われるんだからな!」


「……まあ、実家の屋根の修理代も稼ぎたいですしね。分かりました、あと3時間は無の境地に入ります」


 ハンナは目を半開きにしたまま、再び微動だにしなくなった。彼女のプロ意識(という名の現金への執着)は、ヨハネスにとって何よりの救いであった。


 作画マラソン3日目。

 ヨハネスはついに、最大の難関である「青いターバン」の仕上げに取り掛かっていた。


 銀貨50枚分のラピスラズリから作られた、至高のウルトラマリン。彼はこの高価な絵の具を、惜しげもなく筆にたっぷりと含ませた。


「……おおお! 見ろ、ハンナ! この発色を! ただの腹巻きが、キャンバスの上で神聖なオーラを放っている!」


「私の頭の上にあるのは、強烈な防虫剤の匂いがするただの腹巻きですけどね」


 ヨハネスの筆が走る。深い陰影の部分には、ウルトラマリンにわずかな黒と赤を混ぜて深みを出し、光が当たる部分には、純粋な青を薄く幾層にも塗り重ねる(グレーズ技法)。光の屈折が生み出す、圧倒的な透明感。


 作画マラソン5日目。

 疲労と極度の集中により、ヨハネスの幻覚症状が始まりつつあった。


「カタリーナ……そこにいるのか……?」

「いるわよヨハネス! ほら、約束のソーセージ! 口を開けて!」


 カタリーナが横からソーセージを突っ込む。ヨハネスはキャンバスから一切目を離さず、それをリスのように咀嚼した。


「背景は……漆黒だ。君の美しさを際立たせるため、余計な情報は一切排除する。骨炭と黄土色オーカーを混ぜた、底なしの暗闇……そこから浮かび上がる、一筋の光……」


「ねえ、旦那様。さっきからソーセージと一緒に、黄色い絵の具も食べてますよ」


「構わん!! 私の胃袋の中まで黄色く染めてみせる!!」


「いや、死にますよ?」


 ハンナの的確なツッコミも虚しく、ヨハネスはただひたすらに描き続けた。黄色い上着のハイライト、白い襟の柔らかな質感、そして、少しだけ開かれた、濡れたような唇の艶。


 そして迎えた、約束の日の前夜。作画マラソン最終日、深夜。

 アトリエには、ロウソクの火が揺らめいていた。


 カタリーナは部屋の隅で毛布にくるまって熟睡し、ハンナも椅子に座ったまま、器用に目を開けた状態で意識を飛ばしている。

 

 ヨハネスは、震える右手を左手で押さえながら、キャンバスの前に立っていた。

絵は、99%完成していた。

 

 暗闇から浮かび上がる少女。鮮烈な青と黄色のコントラスト。こちらを見つめる、謎めいた瞳。


 だが、ヨハネスには分かっていた。この絵には、まだ「魂」が入っていない。

絵を完成させる、最後にして最大の魔法。それは、耳元で揺れる「真珠」に宿る、たった一筆のハイライトだった。


「……ここだ。ここに、窓から差し込む光の反射を……」

 

 ヨハネスは極細の面相筆を手に取り、純白の絵の具(鉛白)をほんの少しだけ掬い取った。


 ロウソクの明かりだけでは、正確な光の反射位置が分からない。彼は目を閉じ、昼間の窓から差し込んでいた「光の軌道」を脳内で完全に再現した。


「……ハンナの耳元の、あの胡散臭い偽物のガラス玉……そこに落ちた、神の光……!」


 ヨハネスは目を見開いた。

 彼は息を止め、筆先をキャンバスへと近づけた。手が震える。失敗すれば、下の絵の具ごと削り落としてやり直さなければならない。しかし、もう時間は残されていない。明日の朝には、あの恐ろしいパン屋がやってくるのだ。


「……我が魂よ、光となれ……ッ!!」


 チョン。


 キャンバスの上の、真珠の形をした灰色の球体。その左上の一点に、純白の絵の具がぽってりと置かれた。


 さらに、ヨハネスはその下部にも、白い襟から反射した柔らかな光を、薄く、極めて薄く描き込んだ。


 その瞬間。

 絵の中の「ただの灰色の球体」が、突如として眩いばかりの光を放ち始めた。


 偽物のガラス玉が、本物の、最高級の真珠へと変貌を遂げたのだ。それと同時に、少女の瞳のハイライト、濡れた唇の艶、そしてウルトラマリンの青いターバンが、一つの完全なる「宇宙」として繋がり、キャンバスの中で呼吸を始めた。


「……」


 ヨハネスは筆を取り落とし、そのまま膝から崩れ落ちた。


「……終わった……。私が描きたかった、永遠の……光……」


 翌朝。

「フェルメールの旦那!! 約束の1週間だ!! 開けやがれ!!」


 玄関のドアが、大砲のように叩かれる音で、フェルメール家の朝は幕を開けた。


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