第6話 悪魔のデッドライン
「フェルメールの旦那!! いるのは分かってるんだぞ!! さっさと出てきやがれ!!」
デルフトの静かな運河沿いに建つフェルメール家に、大砲のような怒声が轟いた。
玄関のドアをドスドスと蹴り飛ばしているのは、恰幅の良い男。デルフトで一番美味い白パンを焼き、同時に一番取り立てが厳しいことで知られるマスター・ベイカー(凄腕のパン職人)、ヘンドリック・ファン・ボイテンである。
「ひぃっ! ボ、ボイテンさん、どうかお静かに! ご近所迷惑になりますから!」
身重の妻カタリーナが、エプロン姿のまま血相を変えて飛んできた。彼女の足元には、数人の幼い子供たちがしがみついて泣き叫んでいる。
「静かにできるか! カタリーナ奥さん、あんたの家、一体1日に何個パンを消費してるか分かってるのか!? 子供がポコポコ増えるのはめでたいが、うちの帳簿はあんたらのツケで真っ黒だ! もう半年も現金を見てねえんだよ!!」
ボイテンは片手に分厚い皮張りの帳簿を握りしめ、顔を真っ赤にして唾を飛ばした。
「そ、それは……! お母様に頼んで、来週には必ず……」
「マリア大奥様は『ヨハネスの食事代とパン代は別会計だから私には関係ない』って昨日ハッキリ言いやがったんだよ!!」
その言葉に、カタリーナは絶望の表情を浮かべた。あの冷徹な実母は、ついにパン屋への防波堤になることを放棄したらしい。
「いいか! 今日こそは金目のもの、いや、完成した絵を全部差し押さえてやる! あの遅筆の旦那のことだ、どうせまた何ヶ月も一枚の絵をチマチマ弄り回してるんだろうが、未完成でも構わねえ! 持って帰ってうちの店の看板の裏にでも使ってやる!!」
ボイテンが家に上がり込もうとしたその時。
「……ま、待ってくれ……ボイテン殿……」
2階へと続く薄暗い階段の上から、幽鬼のような声が響いた。
ゲッソリと頬がこけ、目の下には真っ黒なクマを作り、髪はボサボサ。まるで地獄から這い上がってきた亡者のような姿のヨハネス・フェルメールが、手すりにしがみつきながら立っていた。義母の「モデル代は夕食から天引きシステム」により、極度の栄養失調に陥っているのだ。
「ヨハネス!! あんた、随分と貧相なツラになりやがって! だが同情はしねえぞ! 金を払うか、絵を寄越すか、どっちかだ!」
「げ、芸術は……看板の裏などという、無粋な場所には……飾れない……」
「腹が減って声が小せえんだよ! どけ! アトリエを見せてもらうぞ!」
ボイテンはフラフラのヨハネスを突き飛ばすようにして階段を駆け上がり、アトリエの扉を力任せに開け放った。
「さあて、借金のカタになりそうな絵は……うおっ!?」
ボイテンは鼻をつまんで後ずさった。
アトリエの中には、強烈な防虫剤と樟脳の匂いが充満していたからだ。
その匂いの発生源である窓際の椅子では、頭に黄ばんだ布と「青い毛糸の腹巻き」を鏡餅のように巻きつけ、耳にパチンコ玉サイズの不気味なガラス玉をぶら下げた下女のハンナが、ボイテンの店の白パンをモグモグと齧っていた。
「……いらっしゃいませ。パン、美味しいですね。私、時給でもらったお金で買いました」
ハンナは無表情のまま、口の端にパン屑をつけて会釈した。
「お、おう。毎度あり……って、なんだその珍妙な格好は!!」
ボイテンが呆気にとられている隙に、ヨハネスが這うようにしてアトリエに入ってきた。
「触るな……! そのキャンバスだけは……私の、魂だ……!」
ヨハネスがイーゼルに覆い被さろうとしたが、ボイテンはひょいとそれを躱し、イーゼルの正面に立った。
「魂だか何だか知らねえが、売れなきゃただの布くず……だろ……?」
ボイテンの悪態は、最後の方で消え入りそうになった。
彼の視線が、描きかけのキャンバスに釘付けになったからだ。
そこには、漆黒の背景の中に浮かび上がる、信じられないほど鮮烈な色彩があった。
まだ顔の半分は下塗りのままで、服のシワも完全に描き込まれてはいない。だが、頭に巻かれたターバンの、あの吸い込まれるような「青」。ラピスラズリから抽出されたウルトラマリンの輝きは、未完成の画面の中にあってすら、すでに圧倒的な生命力を放っていた。
そして、振り向く少女の瞳に宿る、たった一筆の白いハイライト。耳元で窓の光を乱反射している、大粒の偽物真珠。
ボイテンはパン職人としての確かな腕を持つ男であり、本物の「一流の仕事」を見抜く目を持っていた。
「……おい、旦那。これ、お前さんが描いてるのか?」
ボイテンの声から、先程までの怒気が完全に消え去っていた。
「……そうだ。まだ……光の屈折率の計算が……終わっていないが……」
「このターバンの青……そして、この振り返る女の表情……」
ボイテンは息を呑んだ。目の前にいる珍妙な格好でパンを齧る下女と、絵の中の神秘的な少女が同一人物だとは、到底信じられなかった。
「……旦那。お前さん、とんでもない魔法を隠し持ってやがったな」
ボイテンはゆっくりと振り返り、床にへたり込んでいるヨハネスを見下ろした。その目には、商人としての鋭い光が宿っている。
「取引だ、フェルメール」
「……取引?」
「この絵は、歴史に残る。俺の職人の勘がそう言ってる。……だが、未完成じゃ金にはならねえ」
ボイテンは懐から帳簿を取り出し、ヨハネスの鼻先に突きつけた。
「期限は『1週間』だ」
「なっ!?」ヨハネスは素頓狂な声を上げた。
「い、1週間だと!? 馬鹿な! 私の筆の遅さを知っているだろう! 1週間で完成など、天地がひっくり返っても……」
「描くんだよ!!」
ボイテンが一喝した。
「1週間で、この絵を完璧な状態に仕上げろ。光も、影も、そのバカ高い青色も、お前さんの持てる全ての技術を注ぎ込め! もし1週間後に完成させたら、この絵は俺が『これまでのパン代のツケ全額』で買い取ってやる!」
「ぜ、全額……!」
ドアの隙間から覗き見していたカタリーナが、悲鳴のような歓声を上げた。それはフェルメール家にとって、首の皮一枚で自己破産を免れることを意味していた。
「だがな」
ボイテンはドスを聞かせた声で続けた。
「もし1週間経っても未完成だったり、妥協したような出来損ないだったりしたら……このキャンバスはもちろん、お前さんの持ってるその青い絵の具の壺、家具、銀器、全部俺が差し押さえる。一家揃って路頭に迷うんだな。……いいか?」
ヨハネスは、ボイテンの目を見た。そして、窓際のハンナを見た。
ハンナは相変わらず無表情だったが、「頑張ってください、旦那様。私の割増し時給のためにも」と目で訴えかけていた。
「……分かった」
ヨハネスは、震える足でゆっくりと立ち上がった。空腹で体は限界だが、彼の心の中には、かつてないほどの巨大な炎が燃え上がっていた。
「1週間だ。私の命に代えても……あの光を、永遠に定着させてみせる」
「言ったな。来週の今日、また来るぜ。せいぜい精を出して描きな」
ボイテンはニヤリと笑うと、嵐のように去っていった。
静けさを取り戻したアトリエ。
「……ヨハネス」
カタリーナが涙目で夫にすがりついた。
「お母様にお願いして、今日からあんたの夕食に『茹でたソーセージ1本』を追加してもらうように交渉するわ。だから、絶対に、絶対に1週間で描き上げてね……!」
かくして、フェルメール家の命運を賭けた、地獄の「1週間耐久・狂気の作画マラソン」の幕が切って落とされたのである。




