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第5話 飢餓状態の天才と時給泥棒の奇跡

「……」

「……」


 フェルメール家のアトリエは、不気味なほどの静寂に包まれていた。


 イーゼルの前に座るヨハネスは、筆を持ったまま微動だにしない。彼の視線は、窓際の椅子に座るハンナと、目の前のキャンバスを10分おきに往復するだけだ。


「……あの、旦那様」

「しっ! 今、光の粒子が君の左目に到達する軌道を計算しているんだ! 話しかけないでくれ!」


「いや、さっきから1時間経ってますけど、まだキャンバスに絵の具が一滴も乗ってないんですが」


 ハンナは防虫剤の匂いが充満する「青い腹巻きターバン」を頭に乗せたまま、ジト目で雇い主を睨んだ。


「私としては、座っているだけでチャリンチャリンと割増し時給が発生するので、いわゆる『時給泥棒』のようで大変ありがたいのですが。旦那様の夕食、本当に消滅しますよ?」


「愚かなことを言うな。芸術とは時間との対話だ。下塗りをして、乾かして、その上に透明な絵の具を薄く、薄く重ねていく。この『透明層グレーズ』の技法こそが、内側から発光するような肌の質感を……」


「ヨハネス!! ハンナのモデル時間、現在2時間経過よォ!!」 


 1階から、義母マリア・ティンスの恐ろしい宣告が響き渡った。

「これで今日のアンタの夕食から、『牛肉の煮込み』と『チーズたっぷりオムレツ』が消滅したわ! 残るは麦粥と塩漬けニシンだけよ!」


「ああっ! 私のオムレツ!!」


 ヨハネスは悲鳴を上げ、慌てて筆をキャンバスに走らせた。ちょん、ちょん、と極めて慎重に。

 

 彼には「早く描く」という機能が物理的に備わっていないのだ。完璧な構図と光を求めるあまり、一つの点を行き来するのに何日もかけることすらある。


 結局その日、ハンナが5時間座り続けた結果、ヨハネスのキャンバスには「ぼんやりとした輪郭と、下塗りの茶色い影」しか描かれなかった。


 そして迎えた夕食の時間。

 フェルメール家の広々としたダイニングテーブルでは、カタリーナと大勢の子供たちが、湯気を立てる肉料理やふかふかの白パンを嬉しそうに頬張っていた。上座では義母マリアが、ワイングラスを傾けながら満足げに頷いている。


 その末席。一家の大黒柱であるヨハネスの目の前には、「冷え切ったジャガイモ1個」と「水」だけが置かれていた。


「……義母上。いくらなんでも、これは」

「あら? 5時間も下女を拘束しておいて、まだ文句があるの?」


 マリアはフォークに刺したジューシーな肉片を見せびらかすように口に運んだ。


「約束通り、時間ごとに一品ずつ減らさせてもらったわ。肉、卵、スープ、パン、そしてバター。残ったジャガイモをありがたくいただきなさい」


「ヨハネス、自業自得よ。もっと早く筆を動かせばいいじゃないの」


 妻のカタリーナも、呆れたようにため息をつく。

「芸術は……ファストフードではないんだ……!」


 ヨハネスは涙目で冷たいジャガイモをかじった。ひもじい。だが、頭の中はあの窓際の光と、ハンナの奇跡的な横顔でいっぱいだった。


 それから2週間が経過した。

 ヨハネスの頬はゲッソリとこけ、目の下には深いクマができ、まるで亡霊のような姿になっていた。毎日数時間のモデル代として夕食を削られ続けた結果、彼は慢性的な栄養失調に陥っていたのだ。


 一方のハンナは、割増しのモデル代(義母マリアからの直払い)でホクホクだった。実家の弟には新しい靴どころか、冬用のコートまで買って送ることができた。さらに座っているだけで体力も使わないため、肌つやまで良くなっている。


「旦那様、今日も今日とて良い光ですね。さあ、私の時給をカウント開始してください」


 ハンナが意気揚々と窓際の椅子に座り、クリスマスツリーの偽物ガラス玉を耳に下げる。


「ああ……君のその冷徹なまでの現実主義が、絵の中では神秘的な無表情に変換される。素晴らしい……」


 フラフラのヨハネスは、亡霊のような足取りでイーゼルの前に立ち、ついに「あの壺」に手を伸ばした。

 

 銀貨50枚分の借金の結晶。純度100%のラピスラズリから抽出された、至高の青「ウルトラマリン」


「ハンナ、瞬きも息も最小限にしてくれ。いよいよ、この青をカンバスに乗せる!」


 ヨハネスの落ち窪んだ目に、狂気にも似た炎が灯った。


 筆の先に、ねっとりとした青い絵の具が含まれる。彼はそれを、ハンナの頭に乗っている「防虫剤の匂いがする妻の腹巻き」の輪郭にそっと乗せた。


 その瞬間だった。

 キャンバスの上で、奇跡が起きた。

 安物のスマルトでは決して出せない、光を吸い込み、同時に放つような深淵の青。薄く塗り重ねられた青い層が、下の黄色や茶色の下塗りと複雑に絡み合い、画面の中に「空気」を生み出したのだ。


「……おお……おおお……!」

 ヨハネスは歓喜に打ち震えた。彼のお腹からは「ギュルルルルル!!」という凄まじい空腹の音が鳴り響いていたが、そんなことはもうどうでもよかった。


 ただの古ぼけた腹巻きが、キャンバスの上では、異国情緒あふれる最高級のシルクのターバンへと変貌を遂げつつある。


「……旦那様。お腹の音、うるさくて集中できないんですけど」


「黙りたまえ! 今、神が私に筆を降ろしているんだ!」


 数時間後。

「今日はここまでだ……」

 

 ヨハネスは筆を置き、その場にバタリと倒れ込んだ。限界だった。


「お疲れ様です。本日のモデル代、きっちり4時間分いただきますね」


 ハンナは立ち上がり、背伸びをした。そして、帰り際にふと、描きかけのキャンバスに目を落とした。

 彼女は絵のことなど欠片も分からない。

 描かれているのは、貧しい農家出身の下女である自分だ。頭には奥様の臭い腹巻き、耳には魚のウロコを塗ったパチンコ玉サイズの偽物。


 しかし、キャンバスの中の「彼女」は違った。

 漆黒の背景の中に浮かび上がる、透き通るような肌。光を捉えて潤む瞳。そして何より、頭に巻かれたターバンの、目が覚めるような、それでいてどこか悲しげな「圧倒的な青色」


 耳元の偽物のガラス玉は、窓からの光を完璧に反射し、本物の真珠よりも高貴な輝きを放っていた。


「……」


 ハンナは、生まれて初めて「美しい」という感情で言葉を失った。ドライな彼女の胸の奥が、ほんの少しだけトクンと鳴った。


「……旦那様」

「なんだい……もう私には、君に払う銅貨一枚の気力も残っていないよ……」床に這いつくばったままヨハネスが答える。


「この絵……。完成したら、あのパン屋の借金、帳消しになるかもしれませんね」


 ハンナはそれだけ言うと、静かにアトリエを出て行った。


 彼女のその言葉は、ヨハネスにとって何よりの賛辞だった。


 しかし、感動の余韻に浸る間もなく、1階の玄関から凄まじい怒鳴り声が聞こえてきた。


「おい!! フェルメールの旦那はいるか!! いい加減にツケを払え!! 今日という今日は、絵を全部差し押さえるからな!!」


 デルフトで一番恐ろしい借金取り、パン屋のファン・ボイテンが、ついに強硬手段に打って出たのである。


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