第4話 絶対君主の裁定
ドスッ……ドスッ……。
階段を上ってくるその足音は、まるで地獄の底から這い上がってくるゴーレムのようだった。
アトリエの扉がゆっくりと開き、フェルメール家の絶対君主にして最大のスポンサー、義母マリア・ティンスが姿を現した。
彼女の冷ややかな視線が、顔面蒼白のヨハネス、頭を抱えるカタリーナ、そして無表情で突っ立っている下女のハンナを順番に睨め付け、最後にパレットの上で燦然と輝く「ウルトラマリン」の青でピタリと止まった。
「……で? 借金まみれの腑抜け画家が、今度はうちの雇いたての下女に手を出して、時給交渉で揉めているって?」
「ち、違います義母上! 手など出していません! 私はただ、彼女の顔に落ちる光の恩寵を……!」
ヨハネスが必死に弁明するのを手で制し、マリアはハンナに向き直った。
「あんた、ハンナと言ったわね。時給いくら要求したの?」
「銅貨3枚の割増しです、大奥様。モデルとして座っている間は、鍋も磨けず、おむつも洗えませんので。実家の弟の靴を買うための正当な対価かと」
ハンナの淀みない、一切の感情を排したプレゼンテーションを聞き、マリアの口角がわずかに上がった。
「……いいわ。あんた、うちのヨハネスよりよっぽど見どころがあるわね。交渉成立よ。私がその時給を保証してあげる」
「お母様!? そんなお金どこに……」
「カタリーナ、黙ってなさい」マリアは娘をピシャリと制し、ヨハネスに向かって悪魔のような微笑みを浮かべた。
「ヨハネス。この娘の時給は、あんたの『食事』から天引きさせてもらうわ。1時間座らせるごとに、あんたの夕食からおかずが1品ずつ消えていくシステムよ。初日は肉。次はチーズ。3時間目にはスープの具が消える。描き終わる頃には、あんたの皿には塩水とパンの耳しか乗ってないでしょうね」
「そ、そんな殺生な……!」
「嫌なら今すぐそのバカ高い青い絵の具を売り払って、安い絵の具でパン屋の親父の似顔絵でも描きなさい!!」
「……パンの耳で結構です」
ヨハネスは即答した。
芸術のためなら、栄養失調も辞さない覚悟であった。カタリーナが「この男、本当にバカなの!?」という目で天を仰いでいる。
「よし、契約成立ね。さっさと描き始めなさい。私の気が変わらないうちにね」
マリアは満足げにうなずき、ドスドスと1階へ降りていった。
「さあ、ハンナ! 早速準備だ! 君には『異国から来た神秘的な少女』になってもらう!」
空腹の未来が確定したにもかかわらず、ヨハネスの目は爛々と輝いていた。彼はアトリエの隅にある衣装箱をひっくり返し始めた。
「まずは服だ。……おお、これだ! カタリーナ、君が昔着ていたこの黄色い上着を貸してくれ!」
ヨハネスが引っ張り出してきたのは、黄色い布地に白い毛皮の縁取りがついた、少し派手な上着だった。
「ちょっと! それ、私が結婚前に着てたお気に入りじゃない! 今は……お腹がつっかえて入らないからいいけど、汚さないでよ!」
ハンナは言われるがまま、普段着の上からその黄色い上着を羽織った。少しサイズが大きかったが、それがかえって華奢な肩のラインを際立たせた。
「素晴らしい……光を反射する黄色のサテン地が、君の肌の透明感をさらに引き立てている。だが、何かが足りない。圧倒的な『異国情緒』だ。そうだ、ターバン! ターバンが必要だ!」
ヨハネスは再び衣装箱や部屋中を引っ掻き回し始めた。しかし、17世紀のオランダの一般家庭に、トルコ風の立派なターバンなどあるはずがない。
「青い布……青い布はないか!? ウルトラマリンの絵の具と呼応する、美しい青い布が……!」
「……旦那様。これでいいですか?」
ハンナがスッと差し出したのは、部屋の隅の洗濯籠に入っていた、ボロボロの青い布きれだった。
「それは……私が冬場に使っている、青い毛糸の腹巻き……ッ!!」っとカタリーナが悲鳴を上げた。
「これだぁぁぁ!!」
ヨハネスは歓喜の声を上げ、妻の使い古した腹巻きと、同じく洗濯籠にあった黄ばんだ布を引っ掴んだ。
「ハンナ、頭を貸したまえ! この二つの布を見事に巻き上げ、君をシルクロードからやってきた王女に仕立て上げてみせよう!」
ヨハネスはハンナの頭に、黄ばんだ布と青い毛糸の腹巻きをぐるぐると巻きつけ始めた。しかし、彼は絵を描く天才ではあっても、スタイリストとしては三流以下だった。
出来上がったのは、頭の上に巨大な青と黄色の「鏡餅」が乗っているような、極めて不格好なシルエットである。
「……旦那様」
「なんだい、神秘的な王女よ」
「頭がものすごく重いです。あと、奥様の腹巻きから、強烈な防虫剤と樟脳の匂いがして……目がチカチカします」
「我慢しろ! 絵の中では匂いなど伝わらん! 私の目には、これが最高級のペルシャ絨毯と同じシルクに見えているんだ!」
「眼科に行った方がいいと思います」
ハンナの冷静なツッコミを無視し、ヨハネスはキャンバスの前に立ち、構図を確認した。
「……よし。光は完璧だ。黄色い上着もいい。防虫剤の匂いのする腹巻きターバンも、絵の中では美しいシルエットになる。だが……」
ヨハネスは唸り声を上げた。
「『焦点』が足りない。この絵の暗闇の中で、圧倒的な存在感を放つ一粒の光が。そうだ、真珠だ! 耳に巨大な真珠の飾りが要る!! カタリーナ! 君の真珠のイヤリングを!」
「先月、肉屋のツケを払うために質屋に入れたわよ!! あんたが絵の具ばっかり買うからでしょ!!」
「あああっ! なんという悲劇! 芸術の女神は、私にどこまで試練を与えるというのだ!」
ヨハネスは髪をかきむしりながら床を転げ回った。真珠がなければ、この絵は完成しない。あの絶妙な位置に、光を反射する球体が絶対に必要なのだ。
「……旦那様。これ、使いますか?」
見かねたハンナが、エプロンのポケットからゴソゴソと何かを取り出した。
「それは……?」
「先週、台所の棚の奥から出てきたんです。たぶん、クリスマスツリーの飾りのガラス玉か何かかと。表面に魚のウロコの粉が塗ってあって、遠くから見たら真珠っぽく見えなくもないです」
ハンナの手のひらには、パチンコ玉より一回り大きい程度の、胡散臭い銀色のガラス玉が転がっていた。
ヨハネスは震える手でそれを受け取った。
「……ハンナ。君は、天使か?」
「時給に銅貨1枚追加で、それお貸しします」
「商魂たくましすぎるだろ!!」
カタリーナの渾身のツッコミがアトリエに響き渡ったが、ヨハネスはもはや意に介さなかった。彼は針金を使って、その「偽物のガラス玉」をハンナの耳元にぶら下げた。
「……完璧だ」
防虫剤の匂いがする妻の腹巻きを頭に巻き、ツリーの飾りのガラス玉を耳にぶら下げた、不機嫌そうな顔の少女。
しかし、ヨハネスが薄暗いキャンバスの前から彼女を見た時——窓からの柔らかな光が彼女の頬を撫で、ガラス玉が本物の真珠のように奇跡的な光を放った。
「さあ……永遠を描こう」
パレットの上のウルトラマリンが、ヨハネスの筆先でついに呼吸を始めた。
一方その頃、1階の台所では、義母マリアが今日の夕食のシチューから、ヨハネスの分の牛肉を容赦なく取り除いていた。




